戦いの庭にハーデスと共に現れた瞬の姿を見て、アテナイの氷河は ひどく驚いたようだった。 それまで全身にみなぎらせていた緊張感と闘志が消え、隙だらけになる。 彼の変化が瞬の姿を見たせいであることは明らかだった。 ハーデスは、こんな場にも アテナイの使者に“見劣りする者”たちの列座を許さず、瞬は自分が彼の対戦相手であることを示すために、戦闘用のサンダルを履いてきていたから。 アテナイの氷河は、彼の敵の姿を見て――その姿だけで――瞬の力量を判断し、そして、瞬を侮ったのだ。 ハーデスが、力のない者を その側に仕えさせておくわけがないというのに。 瞬は、正直、アテナの聖闘士とはその程度の者なのかと、気が抜けてしまったのである。 「世界は広く、そこには多くの人間がいて、何事も上には上がある。そなたより美しい者も当然いる。顔色が悪いようだが自信を喪失したのか」 「ハーデス様。おたわむれを」 相手が誰でも、そんな軽口は叩いてほしくないが、特に この金髪の青年の前では避けてほしい――と、瞬は心の底から思った。 瞬は、ハーデスほどには 人間の容姿の美しさに価値を置いていなかったし、人の外見の美醜の判断は 多分に個々人の嗜好という主観に左右されるものと考えていた。 その主観をもってしても、瞬には、自分がアテナイの氷河より美しいと思うことはできなかったのである。 「ハーデス様のご命令により、あなたとお手合わせさせていただくことになりました。お手やわらかに。――いえ、ご存分に」 「なぜ おまえが――いや、なぜ俺が こんな華奢な子供を相手にしなければならないんだ」 戦意を ほとんど消し去り 隙だらけになった氷河が、かすれた声で、瞬にともハーデスにともなく呟く。 氷河の豹変を、ハーデスは面白がっているようだった。 「しかし、この瞬が、我が国一の使い手なのだ。瞬は、実に輝かしい戦歴の持ち主だぞ。城にあがったのは2年ほど前、まだ14かそこいらだったのに、我が国に対して侵略を企む者共を 数多く撃退している」 「2年前? そんな馬鹿な! そんなことはありえない!」 「ありえない?」 自分の姿を見て、アテナイの氷河が たかが子供と侮るのは致し方のないことかもしれないと思う。 対峙する相手の力を見極めることのできない並の戦士なら、そんな判断をしても、それは当然のことだろう。 10代半ばの華奢な子供を、多くの敵を撃退した実績の持ち主だと言われても、にわかには信じ難いことなのかもしれない。 しかし、それは厳然たる事実だったし、自分が この国の平和と独立の維持に貢献できたことを誇りに思っていた瞬には、氷河の言葉は侮辱以外の何物でもなかった。 「嘘かどうか 手合わせを」 「こんな華奢な子供相手に、臆したわけではあるまい?」 無憂の国の主従に 戦いを促され、アテナイの氷河が何やら考え込む素振りを見せる。 やがて彼は、気を取り直したように 顔をあげ、おそらくは自分自身に向かって、 「そうだな。戦い方を見れば、わかるかもしれん」 と言ってきた。 やっと戦う気になってくれたらしい敵国の戦士に、瞬は浅く頷いたのである。 「あなたの武器は」 「素手だ」 「僕もです」 「最初から?」 「ええ」 アテナイの氷河が 瞬の言葉に驚いたように 目をみはる。 神に 神の闘士の称号を授けられた者たちには、それは ごく自然な闘い方だったのだが、普通の戦士同士が一騎打ちを行なう場合には、まず剣なり槍なりの武器をもって戦い、勝負がつかなかった場合に素手での戦いに移行するのが常道だったので、氷河の驚きは そういう驚きなのだろうと、瞬は思った。 実際、瞬はハーデスの冥闘士の称号を授かっていなかったし、冥衣も与えられていなかった。 瞬は、この無憂の国で、あらゆる意味において特別な闘士だったのだ。 まさか こういう展開になるとは思っていなかったのか、アテナの聖闘士である氷河も聖衣は身に着けていなかったので、ある意味では それは公平な戦い方だろう。 瞬はそう思っていたし、氷河もまた そう考えたようだった。 「……いいだろう」 瞬の提示した戦い方と瞬と戦うことを受け入れたらしい氷河は、その心身に再び緊張感をまとい始めた。 だが、彼はまだ やはり瞬を侮っている。 氷河と正面から対峙して、瞬には、彼の油断を はっきりと見てとることができた。 「本当に、お綺麗ですね。ハーデス様がお気に召すのも当然。そのお顔に傷をつけるのは、僕としても不本意なのですが」 しかし、手加減するつもりはない。 敵の力を見極められず、敵を侮り油断している者に付き合って 手を抜くのは、それこそ 対峙する相手に対して失礼というものだろう。 自分が氷河に失礼な振舞いをされているからこそ、瞬は自分だけでも礼を失するようなことはすべきではないと考えていた。 「では」 「ああ」 そうして二人は戦いを始め、勝負は一瞬でついた。 一方は侮り油断し、一方は本気で戦ったのだから、それは至当の結果。 だが、想定通りの その結末に、瞬は意外の感を抱いたのである。 瞬の勝利。 それは、どう考えても、アテナイの氷河の力不足や油断のせいではなかった。 あるいは、それは やはり油断のせいだったのかもしれないが、彼は 瞬が本気で拳を放ってくるとは思っていなかったようだった――撃たないと信じていたようだった。 でなければ、彼は わざと瞬の拳を その身に受けたのだ。 瞬には そう見えた。 瞬の拳を その身に受けて地に倒れ、倒れたまま天を仰いでいる氷河は、そういう顔をしていた。 「あ……では、ハーデス様とのお約束通り、あなたの部下の方々に港で待機するよう 一筆 書いていただけますか。その手紙に――そうですね、その十字のペンダントをつけて届ければ、あなたのお仲間も納得するでしょう」 あまりに あっけなく決した勝負に違和感を覚えつつ、ハーデスとの約束の履行を彼に求める。 そうしてから、瞬は倒れている氷河に手を差しのべ、 「もしかして、わざと負けたのでしょうか。なぜ……」 と小声で尋ねた。 本当に負けたと思っていないから、おそらく氷河は 屈託のない様子で 瞬の手をとることができたのだろう。 瞬の手を借りて その身体を起こしながら、彼は、瞬より更に小さな声で、瞬の耳許に囁いてきた。 「瞬。俺だ」 「え」 「俺だ。わかっているな?」 「……」 『俺だ』と言われても、見知らぬ人――今日 初めて出会った人である。 いったい それはどういう意味だと、瞬は氷河に再問しようとしたのだが、その時には既に氷河は 瞬の姿など眼中にないようにハーデスの方に向き直ってしまっていた。 「なるほど、上には上がいるものだ。潔く負けを認めよう」 ハーデスが無感動な目で――腹心の勝利に にこりともせず――そんな氷河を見やっている。 無言のハーデスと、用いる言葉だけは謙虚になったアテナイの氷河。 だが、二人の間の空気は、火花が散っていないのが不思議に思えるほど 緊張していた。 |