「スリーピング・ディクショナリーが白人に教えようとしているのは、実は この地の言葉ではないんじゃないか?」
「え?」
広いベッドの中央で ついに触れることのできたシュンの肌の感触が、いかに心地良いものだったか。
フランス語とウォルフ語が不規則に交じり合ったシュンの喘ぎ声に、どれほどぞくぞくさせられたか。
恥じらっているのか誘っているのか判断に迷うシュンの仕草に惑わされる楽しさ。
そして、確かな約束も未来も希望も与えることのできない男を受け入れ受けとめ、素晴らしい歓喜を与えてくれたシュンへの感謝。
本当なら、今 自身は、何をおいても そういうことを語るべきなのだろうと、ヒョウガは思っていたのである。
でなければ、初めて会った時から、自分が いかにシュンに魅了され続けていたのかということを。

だが、そんなことを語り出したら、口をすべらせて、言ってはならないことを――たとえば、『おまえとのセックスは最高だ』などというデリカシーに欠けたことを――言ってしまいそうな自分を警戒して、ヒョウガは あえて色気のない話題を選ばざるを得なかった。
ヒョウガが言いたいことを言ってしまったら――そんなことを聞かされてしまったら、シュンは 自分が“旦那様”の前に さらしてしまった大胆な反応を恥ずかしがって、口もきけないことになってしまいそうだったから。
ヒョウガの愛撫に我を失い、そのために 表出した自分でない自分の姿に、シュンは それほど戸惑っているようだった。
先ほどまでヒョウガの愛撫で我を失い、喘ぎ乱れていた自分のありさまに言及されなかったことに、実際 シュンは安堵したらしい。
ヒョウガがその件に言及しないのは、それが とりたてて語るようなことではない、ごく普通のことなのだと思うことができたために。

「おまえたちの真の目的は、その美貌と聡明で、愚かで傲慢な白人たちを啓蒙することなんだろう? 農園で働く者たちの苦境を俺に知らせ、俺の心を動かし、同胞を救うこと。それがおまえの目的だったんだ」
「あ……」
本当は、そんな不粋なことは言いたくない。
ヒョウガは、本当は、男を喜ばせるために作られたような おまえの身体には、その美貌や聡明に勝るとも劣らない価値があると、本当のことを言ってしまいたかった。
そう言ってしまいたい衝動を、シュンのために、ヒョウガは懸命に抑えていたのである。

「見事にしてやられた。ここに来るまで――おまえに会うまで、俺はニヒリストを気取った、ただのちゃらんぽらんな男だった。この地で適当に数年を過ごして、本国に戻ったら お約束通りの出世を果たす。そのつもりだったんだ、俺は。それがおまえのせいで、すっかり人権主義者の植民地解放主義者になってしまった」
「僕はそんな……」

ヒョウガに責められていると思ったのだろう。
シュンが口ごもる。
シュンの身体の素晴らしさに言及するのは、せめて あと2、3度 シュンと同じ夜を過ごし、シュンがこの行為と性交時の自身の変貌に慣れてから――と 自戒しながら、ヒョウガはシュンの剥き出しの肩を抱き寄せた。
「つけない嘘はつかなくていい。おまえは別に悪い事をしたわけではないし、だからといって、おまえが俺を利用しようとしたのだとは思わない。おまえが俺を好きでいてくれることも疑わない」
「あ……ほんとに?」

不安そうに、シュンがヒョウガの顔を覗き込んでくる。
シュンの不安を、ヒョウガは声をあげて笑い飛ばしたかった。
いったい おまえは何を心配しているのかと、おまえは おまえが おまえの恋人を愛していることを疑わせるようなことは何一つしなかったのにと。
「疑うわけがないだろう。こんな細い身体に、俺は ひどい無理を強いて おまえを泣かせたのに、自分でも ひどいことをしていると思っていたのに、おまえときたら――」
「ぼ……僕、何か変なことをしたの」
「あ、いや、特には。ただ 10回くらい、俺に『もっと』と言ったかな。もっと触って、もっとキスして、もっと奥に――」
「いや……っ!」

途端に 頬を真っ赤に染めて、シュンがヒョウガの胸を押しやろうとする。
自戒に自戒を重ねていたのに、結局 口をすべらせてしまった自分の迂闊に、ヒョウガは臍を噛むことになった。
恋人の胸から 逃げようと上体を起こしかけたシュンの腕を 慌てて掴み、元の場所に引き戻す。
「シュン、逃げるようなことじゃない。おまえは変なことを言ったわけじゃない。『離せ』だの『触るな』だの言われるより、『もっと』と言われる方が 俺も嬉しい。わかるだろう。逃げるな」
シュンを逃がさないためには、シュンに“もっと触って”“もっとキスして”やればいいことが、ヒョウガにはわかっていた。
“もっと奥まで”行ってやれば、もっと効果的なことはわかっていたが、それは かろうじて自重する。
たった一度の性交で愛撫の心地良さを覚えてしまったらしいシュンは、ヒョウガが その肩や髪に唇を押し当ててやると、驚くほど素直にヒョウガの胸の中に戻ってきた。

「ご……誤解しないで。僕は……僕たちは、宗主国の人たちを追い払おうとか、この土地を自分たちの手に取り戻したいとか、そんな大それたことを考えているわけじゃないの。ただ、ほんのちょっと幸せになりたいだけで……」
「ああ、そうだな」
「スリーピング・ディクショナリーは、これは逃げられない自分の務めだと割り切って、覚悟を決めて、旦那様のところに行く。でも……でも、いつのまにか旦那様に恋してしまうの。旦那様に自分たちのことを わかってもらいたいから――わかってもらうためには、まず自分が旦那様のことを わからなきゃならないでしょう。そのために、いつも旦那様のことを考えて、旦那様のことだけ見詰めて――その気持ちを感じ取ってくれる旦那様も多い。そうして愛し合うようになって、子供を儲けることも多い。僕がそうです。僕の祖母も母もスリーピング・ディクショナリーだった。僕の身体に流れる血の半分以上はフランス人なの」
「ああ、それで……」
それで、シュンの雰囲気や容姿は この地の者たちとは異なっていたのだと、今になって理解する。
スリーピング・ディクショナリーのシステムの存在を知れば、それは容易に察せられるはずのことだったのに、今日の今日まで その可能性に思い至らずにいた自分に、ヒョウガは呆れることになった。

「俺はおまえを責めているわけじゃない。それどころか――おまえは美しくて、聡明で、その上、俺とは身体の相性も最高。素晴らしすぎて、俺がおまえの奴隷になってしまいそうなくらいだと、そう言いたかっただけなんだ」
「ヒョウガ!」
それまで、母親にいたずらの言い訳をしている子供のように気弱そうな目をしていたシュンが、ふいに その声を強く険しいものにする。
自分が 戯れに口にした『奴隷』という言葉が、シュンの意識を悪い方に刺激してしまったことに気付き、ヒョウガはすぐに首を横に振った。
「いや、俺たちはもちろん対等な人間同士として愛し合っている。――と思う。だが、俺はおまえなしではもう生きていけそうにない。おまえと一緒でなければ、生きていることを楽しめそうにない。しかし、おまえはそうではない。だから、俺がおまえの奴隷だろう? そういう意味――それだけの意味だ」
「……」

『俺はおまえなしではもう生きていけそうにない』
『しかし、おまえはそうではない』
ヒョウガのその言葉を、シュンは否定しなかった。
否定できなかったのだろう。
それでも、シュンは、小さく切なげな声で、ささやかな反論を口にした。

「スリーピング・ディクショナリーは誰もが別れを覚悟して、旦那様に仕え始めるの。一緒にいられるのは数年だけ。旦那様はいつか本国に帰ってしまう。僕も その覚悟はできてます。僕は、ヒョウガがいなくても生きていける。生きていかなくちゃならない。スリーピング・ディクショナリーの肩には、農園で 過酷な作業に耐えているみんなの期待がかかってる。みんなの未来、この国の未来がかかっている。だから、僕は、ヒョウガのためだけに生きていることはできません。でも、だからって、ヒョウガを愛していないわけじゃない。僕は――」
「僕は?」
「……」

その先の言葉を言ってしまえずに、シュンが泣きそうな顔になる。
支配する者とされる者。
人としての権利を奪っている者と、その権利を取り戻したい者。
利害損得のない愛情や恋情だけで、二人は結ばれたわけではない。
それはわかっているのだが、それでも、ヒョウガは、シュンの心を疑う気にはなれなかった。

「その先の言葉を言ってくれたら、俺は俺の恋を実らせるために、必ず おまえとおまえの同胞に おまえたちの権利を取り戻してやる」
「ヒョウガ……」
「おまえのためだけじゃない。俺自身のためにも――俺自身のために」
それが、恋人を利用しようとしている卑劣な人間に負い目を抱かせないための言葉だということが わからないシュンではない。
瞳に涙を浮かべて、シュンは、ヒョウガに求められた言葉を口にした。

「僕はヒョウガを愛してるの。大好きなの。こんなに旦那様を愛してしまうなんて、ヒョウガに会う前には思ってもいなかった。僕は――」
その言葉を信じられない男がいるのなら、その男の心は木石でできているに違いない。
そう確信して、ヒョウガは再びシュンの上に覆いかぶさっていった。






【next】