瞬が時々しか聖域に来ないことは、俺にとって幸運なことだったかもしれない。
瞬が聖域に常駐していて、俺に その気がなくても二人が偶然出会うようなことがあったなら、俺はアルビオレ先生の仇に何をするか わかったもんじゃなかったから。
そんなことになったら、小宇宙も燃やせない雑兵の身で、俺は アテナの信頼篤い聖闘士に飛びかかっていくくらいのことはしてしまっていたかもしれない。
もちろん俺は、いつかは瞬に戦いを挑んでいくつもりどいたけど、それは できれば、歴戦の勇士である瞬に せめて一矢を報いる程度の力を養ってからにしたかった。

瞬は普段は アテナの私邸がある日本にいて、本当に時々しか聖域にやってこなかった。
その代わり、瞬がやってくるたび、聖域は変に浮き足立つ。
どういうわけか、瞬は、聖域の老若男女のアイドル的位置にいる聖闘士だったんだ。

「今朝、籠いっぱいのジャガイモを運んでたら、アンドロメダちゃんが通りかかって、『重いでしょう』って調理場まで持ってくれたんだよ。あんなに近くでアンドロメダちゃんを見たのは初めてだったから、びっくりしちまった。もう ほんとに綺麗で可愛くて、おまけに親切! あんな孫が欲しいねぇ」
何が『アンドロメダちゃん』なんだか知らないが、俺たちの飯の世話をしてくれている厨房のおばちゃんが そんなことを得意げに吹聴してきたかと思うと、石切り場で俺と一緒に働いてる野郎が、
「作業場ですっ転んだ俺が 肩を血と土でぐちゃぐちゃにしてたらよ、そういう怪我は破傷風や感染性の関節炎を起こす危険があるから、すぐに綺麗にしなきゃ駄目だって言って、泉水で俺の傷を洗ってくれたんだ。『大丈夫ですか?』って心配そうな顔してさ。その手がまた白くて綺麗でよ!」
とか何とか、興奮して報告してきたりするんだ。

瞬が来るたび、聖域では必ず何かしらの騒ぎが毎日起こった。
大抵は、瞬と一緒に白鳥座の聖闘士が来るんだが、その二人が かなり対照的な性格らしくて、しばしば 馬鹿げた真似をしでかすらしい。
跳躍訓練中、キグナスに『へっぴり腰』と酷評された奴を、瞬が『重心が安定してて とてもいい』と褒めたもんだから、どうすればいいのかわからなくなって その場でスクワットを始めちまった雑兵とか、アテナの小間使いが落としてしまった髪飾りを探すためにキグナスが泉を凍らせちまったら、そこを水源にしてる小川の水を取り込んで洗濯をしてる女たちが仕事ができなくなって、慌てて瞬が氷を溶かしたとか、みんな その二人には迷惑をかけられてるらしいのに、それが聖域では えらく受けていた。
アテナが降臨するまでは、この聖域に そんな楽しいことは起こりようがなくて、毎日が暗くて詰まらなかったと、みんなは言う。
俺としては、そんな間抜けなことが、地上の平和を守るために戦う聖闘士のすることなのかって 呆れるしかなかったんだけどな。

一度、瞬の実兄の鳳凰座の聖闘士を見たことがある。
聖域のみんなは口を揃えて、瞬を可愛いだの綺麗だの言うけど、俺はそれは絶対 嘘だと思った。
鳳凰座の聖闘士は、無骨な印象の強い、山賊の頭目みたいな顔つきの男だった。
あれの弟が可愛かったら、ヒラメやカレイだって 彫りの深い美男子だ。
当然、瞬が優しくて親切なんて話も嘘。
多分、瞬は本性を隠す仮面をかぶってるんだ。
アルビオレ先生を殺した奴が、優しかったり可愛いかったりするはずがない。
瞬は、アルビオレ先生の仇だ。
そして、俺の夢や希望を粉々に打ち砕いた残酷な卑劣漢。
いずれ、それこそ どんな卑劣な手を使っても倒さなければならない、俺にとっては不倶戴天の敵。
俺は、瞬が優しいだとか親切だとか強いとか、とにかく 瞬への好意や瞬への讃辞を聞きたくなかった。
当然だろう。
瞬が親切で優しい“いい人間”だったりなんかしたら、瞬を憎む俺が悪者になってしまうんだから。


星矢に目をかけて・・・・・もらえるようになってから、俺は労役より 聖闘士になるための修行の方に時間を振り分けられるようになっていた。
その日も俺は 闘技場付属の特訓場で加圧加重トレーニングをしていたんだ。
そこに ふいに白鳥座の聖闘士がやってきて、
「おまえが 恐れ知らずのエルヴァンか?」
と、名指しで俺に声をかけてきた。

いったい聖域ってところは、人にあだ名をつけて噂話をする慣習でもあるのか?
俺は、いつのまにか、『気鬱顔のエルヴァン』から『恐れ知らずのエルヴァン』に出世を遂げていたらしい。
特段 恐れ知らずと評されるような勇気を示した覚えもなかった俺は、キグナスの その言葉に眉をひそめた。
星矢は気安くて親しみやすい雰囲気があったが、キグナスは正反対。
見るからに尊大で高圧的、愛想もなく ぶっきらぼう。
そいつが横柄な態度で、何やら訳のわからないことを俺に言ってくる。
「星矢が、見どころがある奴がいると言うので、どの程度の奴なのか見物にきた」
「……」

あの強大な小宇宙を持っている星矢が、いったい どんなつもりで この男にそんなことを言ったのか。
聖域に来て、自分の実力の程を思い知らされていた俺は、キグナスの雑兵見物の動機を否定した。
「残念ながら、俺には見どころなんてものはない。とんだ無駄足を踏んだもんだ」
「うぬぼれていないのは結構なことだ。確かに 成長する可能性はあるかもしれんな。おまけに、貴様は、この俺を少しも恐れていないそうだな」
「何のことだ」
恐れるも恐れないも、俺はキグナスに会うのは これが初めてだ。
この男に関して俺が知っているのは、この男がいつも瞬とつるんで漫才まがいの騒ぎを引き起こしてるってことくらい。
そこに、たった今、『何もしないで黙って立っていれば文句のつけようのない美男子で通るのに、生きて動き回るせいで残念になっている男』という情報が加わった。

そう。
瞬と一緒に聖域のあちこちで漫才をしているという噂から俺が想像していた容貌とは違って、キグナスは結構な美形だった。
アルビオレ先生と同じ髪の色。
アルビオレ先生と同じ瞳の色。
アルビオレ先生と同じように肌が浅黒くて、金髪碧眼だが白皙ではない美青年。
キグナスは、その印象は全く違っていたが、顔の部品と色だけは 記号的にアルビオレ先生と全く同じだった。
それが不愉快で、俺はキグナスの顔を見ていたくない気分になって――だが、俺はすぐに考え直した。

こいつは いつも瞬とつるんで馬鹿をやらかしている男。
貴重な情報源ではないかと。
たとえまた瞬への好意や賛美を聞かされることになっても、近しい者しか知らない瞬の弱点を こいつから聞き出すことができたら、それは何かの役に立つかもしれない。
こいつが俺に話しかけてくることなんて、この先 二度あるかどうかもわからない。
これは千載一遇のチャンスだった。

「アンドロメダ座の聖闘士を知っているか?」
俺が尋ねると、なぜかキグナスは そのこめかみを引きつらせた。
不機嫌そうな声で、
「知らぬ仲ではない」
とだけ答えてくる。
それはそうだろう。
漫才コンビの片割れだ。
「星矢や聖域の者たちは、口を揃えてアンドロメダを優しいだの可愛いだのと褒める。その上、強いとな。それは事実か」
俺が重ねて尋ねると、キグナスは今度は、何というか――虚を衝かれたような顔になった。
不機嫌な気取り顔が、急に気の抜けた間抜けな顔に変わる。
そして、その間抜け顔にふさわしい間抜けた声で、
「おまえ、瞬を見たことがないのか?」
と問い返してくる。
「そんなもの、見たくもない」
と俺が答えると、キグナスは また顔つきを変えた。
何が嬉しいのか、今度は えらく嬉しそうな笑顔に。
そして言ったんだ。
「普通だ。いや、普通以下だ」
と。

「なに……?」
何が普通以下なのかは知らないが、瞬に対する そういう意見を、俺は初めて聞いた。
不愉快な褒め言葉を聞くことになるだろうと覚悟を決めていた俺は、想定外のキグナスの言葉に 目をみはることになった。
そんな俺の驚きには お構いなしで、キグナスが滔々とうとうと、自分の漫才の相棒をこきおろし始める。
「まず、瞬の顔は、特に可愛いわけでも綺麗なわけでもない。完全に普通以下だ。それに、瞬は人に言われるほど優しいわけでもない。あれは、優しいというより、単なる泣き虫なんだ。女々しいだけだ。強い? とんでもない! いつも詰めが甘くて、瞬は敵に侮られてばかりいる。争い事が嫌いだと言って戦いを避けようとしたあげく、自分で自分を窮地に追い込むことはざら。おかげで俺たちは いつも迷惑を被っている。瞬は本当に どうしようもない聖闘士だ」
「それは……」

価値観というものは人それぞれだし、美醜や性質、強さ弱さなんてものは、特に客観的な判断基準があるものじゃないから、同じ人間に対する評価が 星矢とキグナスで違っていることは さほどおかしなことじゃいない。
むしろ、大いにあり得ることだ。
しかし、それにしても、瞬に対する二人の評価は違いすぎる。
というより、真逆だ。
キグナスの酷評に、俺は戸惑った。
そして、俺に瞬の悪口を吹き込むことで、キグナスが 何か得をすることがあるだろうかと考えた。
あるいは、キグナスにとって瞬は身内だから、当然の礼儀として へりくだり、この男は そんなことを言うんだろうかと。
日本人が人にプレゼントを贈る時、“詰まらないもの”と言って贈るというのは 有名な話だからな。
だが、今 俺の目の前にいる男は、そんな日本風 謙譲謙遜の美徳とは 見るからに無縁そうな男。
判断に迷った俺は、最終的に『そういう見方もある』ということなのだと結論づけた。
春の野で花から花へ飛びまわる蝶を美しいと感じる者もいれば、気味が悪いと感じる者もいるように。

異なる二つの意見が提出された時、人がどちらの意見を信じるかといえば、それは その人が信じたいと思う方の意見だ。
俺は、星矢たちの評価より、キグナスの評価の方を信じたかった。
「やはり、そうか。仮にもアテナから聖衣を授かった聖闘士が、優しいだの可愛いだの、そんなことがあるはずがないと思っていたんだ。強さにしたって、仲間の助力があって なんとか敵に倒されずに済んでいるだけのことなんだな」
おそらく そうなんだ。
そもそも 万人が優しいと認め、万人が可愛いと認め、万人が強いと認める人間なんて、この世に存在するはずがない。
大多数の人間が 瞬は強く優しいと認識していたとしても、それが真実とは限らない。
アルビオレ先生だって、瞬は泣き虫で 戦いに勝つことのできない子供だと言っていた。
瞬は、どういうわけか、人から過大評価される傾向のある人間なんだ。

「そうか……やはり そうか……!」
初めて 俺が聞きたかった瞬の人物評を聞かされて、俺は安堵の胸を撫でおろし、そして 喜んだ。
キグナスが、どこか皮肉げな笑みを その口許に浮かべていたが、俺は その時には そんなことは気にもとめなかった。






【next】