青銅聖闘士の中では特に瞬と一緒にいることの多いキグナスの、信じるに足る瞬の人物評。 その意見を聞いてから、俺の心は実に晴れ晴れと爽快なものになった。 自分の憎みたい相手を大した価値のない人間だと確信できることは 幸福なことだ。 自分の方が悪いんじゃないかとか、自分は逆恨みをしているだけなんじゃないだろうとか、疑わずに済むから。 心置きなく人を憎めるようになったせいで晴れやかな気分になるってのも おかしな話だが、その日以降、聖域での俺の生活は突如 楽しいものに変わった。 トレーニングにも身が入るようになった。 アルビオレ先生の仇は、決して 並の人間には太刀打ちできない力を持つ化け物ではなく、倒そうと思えば倒せる相手。 そう思えば、日々のトレーニングも無駄なものじゃないと思えるというもの。 晴れ晴れと爽快に――多分、その日 俺は浮かれていた。 慎重さと注意深さを欠いていた。 だから俺は そんなドジを踏んでしまったんだ。 修行の甲斐あって、今では指3本もあれば 容易に運べるようになっていた小麦粉の入った大袋。 穀物蔵から パン焼き小屋に持ってきてくれと頼まれていた その袋を、テニスボールでも扱うように ぼんぽん弄びながら運んでいる途中、調子に乗って高く放りすぎ、石畳の通路の脇の石柵の上に落としてしまうというドジを。 荒い目の石柵に高所から落下した衝撃で、どうやら小麦粉が入っていた袋には穴があいてしまったらしい。 縦に長い裂け目の生じた袋から小麦粉があふれ出し、それが折りからの風によって 周囲に撒き散らされる。 「うわ、まずい……!」 俺は慌てて袋の側に駆け寄っていったんだが、その時には 袋の中の小麦粉は8割方が風に飛ばされたあとだった。 20キロあった小麦粉の残量が、今や4キロ弱。 咄嗟に俺の脳裏に浮かんだのは、パン焼き小屋にいるパン焼き人生30年のおばちゃんの顔だった。 ここ数年 小麦が不作で小麦粉の値があがり、1グラムだって無駄にはできないと張り切ってパン生地を練っていた おばちゃん。 俺がしでかした不始末を おばちゃんに知られたら、俺は おばちゃんに死ぬほど怒鳴られ、あのたくましい腕で思い切り張り倒され、向こう1年間は おばちゃんの焼いたパンを食わせてもらえなくなるに違いない。 それに、聖域ができて数千年、こんなドジを踏んだ奴なんて、多分俺が史上初だ。 この前例のない不祥事に、俺はいったいどんな罰を受けることになるのか。 その罰が重いものになるのか軽いもので済むのか 全く想像できないことも、俺の頭を混乱させた。 ここがエチオピアだったら、俺のしでかしたドジは、餓死する子供を4、5人は作るほどの大失態だった。 「わ、これは大惨事ですね」 飛び散った小麦粉で真っ白になっている石畳の道を、為す術もなく呆然と眺めていた俺の背後から、ふいに女の子の声が響いてくる。 「あ……いや、ちょっと手がすべって――」 目撃者が出てしまったのでは、もはや この大失態を隠蔽することも取り繕うこともできない。 俺は絶望的な気分になって、声のした方を振り返ったんだ。 そこにいたのは、若い――小柄な女の子だった。 水仕事や手仕事をする女たちとは様子が違うし、いわゆる雑兵服も着ていない。 アテナに仕えている侍女や巫女にしては 身に着けているものが現代的で――外の世界的で――聖域の雰囲気に即しているとは言い難い。 フレンチ袖のシャツに七部丈の細いパンツなんて、どこの観光客が迷い込んできたのかと疑いたくなるような格好だ。 ただ、彼女が普通の人間じゃないことはすぐにわかった。 少なくとも 何も知らずに聖域に迷い込んできた観光客じゃないことは。 身に着けているものは外の世界のものなのに、その面立ちや表情や まとっている空気は 完全に俗世離れしていて、彼女は何ていうか――まるで たった今まで汚れのない天上界にいた天使が人間の振りをして地上におりてきたみたいだった。 面立ちは優しく整っていて、目が驚くほど澄んでいる。 普通の人間なら、この歳の子供が身につけてしまっている邪気や狡猾さが皆無で、完全に無垢。 生身の人間だってことを疑いそうになるほど、その少女は清らかな佇まいをしていた。 その天使のような美少女が、妙に現実的なことを俺に訊いてきたせいで、俺は夢の世界から現実の世界に引き戻されたんだ。 「これはパンを焼くために運んでいたんですか? パン焼き小屋に運ぼうとしていたの?」 「あ……ああ。まずい。本当にまずい。パン焼き小屋のおばちゃんに叩きのめされるのは覚悟してるが、もし このせいで聖域追放なんてことになったら――」 俺が本当に恐れているのは、それだった。 聖域から追い出されること。 皆が その日の食い物を確保するのに命がけだったエチオピアでは、オレンジの皮だって奪い合いだった。 なのに、今 俺が台無しにしたのは上等の小麦粉。 「まさか、そんなことは――」 天使は 俺の懸念を笑ったが、俺は“そんなこと”を本気で恐れていたんだ。 「わざとしたことではないんでしょう? 聖域を追い出されたりはしませんよ。でも、パン焼き小屋のおばさんに叩きのめされて再起不能になったりしたら大変だから、僕も一緒に行って謝ってあげます。二人がかりで謝ったら、おばさんも心を和らげてくれるんじゃないかな」 「え」 彼女が迷子の観光客じゃないことは確実だった。 観光客は、観光地で 自分から進んでトラブルの中に頭を突っ込んでいこうとはしないものだろう。 いや、普通の人間は誰だって、自分に責任のないことで 身知らぬ他人のために そんなことをしようとはしない。 それは何の得にもならないこと。 むしろ、無駄な とばっちりを受けて、自分まで被害を受けかねないことだ。 でも、外の世界の服を着た天使は 本気らしくて――彼女は 本当にパン焼き小屋のある方に向かって すたすた歩き始めた。 彼女はパン焼き小屋のある場所を――聖域を――知っているらしい。 何がどうなっているのか わからないまま、俺は慌てて彼女のあとを追ったんだ。 |