「な……なんで、こんなとこに?」
パン焼き小屋で 手ぐすね引いて小麦粉の到着を待っていたおばちゃんは、小屋の中に入ってきた天使の姿にびっくりしたようだった。
美少女の天使が、すまなそうな顔をして、おばちゃんに頭をさげる。
「ごめんなさい。こちらに運ぶはずだった小麦粉を風に飛ばしてしまったの」
「風? 小麦粉? 飛ばした? なんで?」
おばちゃんの、実に素朴な疑問――当然の疑問。
それは確かに『なんで?』なことだ。
なんでこんなことになったのか、その一部始終を見ていた俺自身が未だに よくわからずにいるんだから。

「それには深い事情があって……。誰にも言わないでくれますか」
「そ……そりゃ、言うなって言われたら……」
美少女の天使は、俺に事情説明も弁解もさせるつもりはないみたいだった。
事情を説明しろと言われたって、俺もうまく説明できる自信はなかったけど。
あんな馬鹿げたドジ、正直に説明しても信じてもらえる気がしない。
「先日、聖域の外で 白い綺麗な猫を拾ったんです。こっそり飼おうと思って 穀物蔵に隠しておいたんですけど、その子がどうやら小麦粉の入っていた袋で爪とぎをしてしまったらしくて。こちらの方が気付かずに その袋を運んでいたんですけど、途中まできたところで、いつのまにか袋が軽くなっていることに気付いたんだそうです。でも その時にはもう後の祭りで……」
「ありゃりゃ」
おばちゃんは天使の嘘を信じたんだろうか。
信じたような、信じなかったような――おばちゃんは、拾ってきた猫に爪で手を引っかかれたような顔をした。

「捕まえて、叱ろうとしたんですけど、敵は いち早く逃亡したあとだったんです」
「そりゃ、卑怯な猫だ」
「でしょう」
おばちゃんが 天使の嘘を信じなかったのだとしても――おばちゃんは天使を嘘つき呼ばわりする気にはならなかったんだろう。
おばちゃんが信じたのは 多分、天使の嘘の内容じゃなく、その嘘が悪意でできたものじゃないってことだったに違いない。

「小麦粉は あとでこっそり補充しておきますから、このことは誰にも言わないでいてくれますか」
「あたしゃ、パンが焼ければそれでいいけど」
「ありがとうございます。絶対秘密厳守でお願いしますね」
「あたしゃ、口の堅いのと、そこいらの男より腕の力が強いので名を売ってるんだ。口が裂けても誰にも言わないよ」
嘘つきの天使は、おばちゃんに にっこり笑って、
「素敵」
と言ってから、芸もなく その場に突っ立っていた俺の方を振り返った。
「じゃあ、お手数ですが、別の袋を運んできてくれますか」
嘘つきの天使の澄んだ瞳。
俺に向けられた天使の瞳には、共犯者にだけ見てとれる いたずらっぽい光があって、それはひどく優しくて温かい光だった。
「は……はい」
まるでアルビオレ先生にするみたいな いい子の返事を、俺は美少女の天使に返し、美少女は いい子の俺に ほのかに微笑って、パン焼き小屋を出ていった。


「あんた、何かドジをやらかしたんだろう。ここに来て1年は経つのに、ほんとにあんたは成長しないね! まあ、目の保養と命の洗濯ができたから、今日のところは大目に見てあげるけど」
どうやらまた夢幻の世界に意識を飛ばしていしまっていた俺は、自慢の太腕でおばちゃんに尻を叩かれ、その痛みで、天使の姿の消えた現実世界に戻ってくることができた。
かすれた声で何とか口にできたのは、
「あの美少女は誰だ」
っていう、しょーもない呟き。

まだ完全に夢から覚めていないような俺の呟きを聞いて、おばちゃんが きょとんとした目を俺に向けてくる。
それから おばちゃんはまた 俺の尻を思い切り叩いた。
「秘密厳守って約束したからね。それより、代わりの小麦粉を運んできとくれ。これからも あたしの焼いたパンを食べたいなら、5分以内にね!」
おばちゃんに急かされた俺は、急いでパン焼き小屋を飛び出て、穀物蔵に走ったんだ。
口が堅いのと男顔負けの太腕が自慢のおばちゃんは、美少女の天使の正体を、口が裂けても俺に教えてくれなさそうだった。






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