花の願い






夏の朝。
城戸邸ラウンジと広い庭を結ぶテラスに置かれた鉢植えの朝顔は、控えめにピンク色の花を咲かせていた。
高さが50センチほどある支柱に巻きついている蔓は鮮やかな緑色をしていたが、それは少々細く、巻きつき方も遠慮がちで、どこか頼りない。
それは、昨日、瞬が朝顔市で買ってきた花だった。

すべての花がそうだとは言わないが、薔薇にしても菊にしても、大抵の観賞用の花は、形や色の美しさと共に、花が大きいことが より上等で より上質のものとされる条件なのだろうと、氷河は さしたる根拠もなく思っていた。
しかし、瞬が買ってきた朝顔の花は極めて 小ぶり。
全体の印象にも力強さは感じられない。
だから、もしかしたら瞬は そのか弱さに同情して その鉢を選んだのではないかと、氷河は思ったのである。
非常に腹立たしい気持ちで、氷河は そう思った。

氷河は、もちろん 朝顔になど興味はなかった。
朝顔市になど、なおさら興味がない。
地面に種を撒いて放っておけば勝手に育って花をつけるような雑草に似た性向を持つ花を、わざわざ人がごったがえす市に出掛けていって贖うことに どんな益があるというのか。
それが、朝顔市なるイベントに対する氷河の正直な評価だった。

確かに、氷河は、朝顔にも朝顔市にも興味がなかったのである。
瞬も それは薄々察していたのだろうとは思う。
だが、だからといって、白鳥座の聖闘士に声もかけず、龍座の聖闘士と二人きりで そんなイベントに出掛けていくことはないだろうと、氷河は昨夕からずっと 瞬の心無い(?)仕打ちに憤り続けていたのである。
それを 心無い仕打ちと思いはしても、だからといって 瞬に その怒りをぶつけるわけにもいかず、結局 氷河の憤りは、瞬に そんなことをさせてしまった朝顔に向かうことになったのだった。

「だいたい、こんな花、何の役にも立たないじゃないか」
放っておいても咲く花。
薔薇のように手のかかるものなら、花が綺麗に咲いた時には多大な喜びを感じることができるだろう。
だが、朝顔には そんな喜びはない。
植物に関する知識のないズボラな子供でも まず枯らすことはない植物だから、小学生の観察実験の教材に選ばれる、言ってみれば 手軽さだけが取りえの花。
そんな花のいったいどこが良くて、瞬はわざわざ(紫龍と)朝顔市になど出掛けていったのか。
「そもそも朝顔市なんて くだらないイベントを催す奴がいるから いかんのだ、ったく!」
ぶつぶつと口の中で文句を転がしながら、テラスにおりる。
見れば見るほど芸がない(ように見える)花の前に立つと、氷河の苛立ちは いや増しに増すことになった。
「実に不愉快な花だ。いっそ、引っこ抜いてやろうか」
低く唸るように氷河がそう言った時だった。
「そんなひどいこと、やめて!」
という、氷河の脅しを真に受けて震えているような声が 氷河の耳に届けられたのは。


それは本当に小さな声だった。
まさに 蚊の鳴くような――それも、間違って真冬に生まれてしまった蚊が鳴くような声。
聞き取ることができるのが不思議に思えるほど小さな その声が いったいどこから響いてくるのか、氷河には すぐには わからなかったのである。
顔を上げ周囲を見まわしてみても、その場には 意味のある言葉を話すことのできる人間の姿はなかったし、もちろん 蚊も飛んでいなかったから。
氷河の前にあるのは朝顔の鉢植えだけ。
氷河は、もしかしたら今の声は 蚊が作る音ではなく蟻の鳴き声だったのかと馬鹿げた考えを抱いて 視線を下方に移動させたのである。
そして、氷河はぎょっとした。

「そんなことやめて。私、やっと花をつけたばかりなの。あなただって、死ぬには早いと思うでしょ。ねえ、私を助けてくれたら、私、どんな願いでも叶えてあげるから。」
「信じないぞ」
その声の主を見て、氷河が最初に言った言葉がそれだった。
「信じないぞ」
同じ言葉を、氷河は、念のために 二度 繰り返した。
だが。
いくら『信じない』と言っても、見えるものは見えるし、聞こえるものは聞こえるのである。
であるから、氷河は この場合、『信じない』ではなく『信じたくない』と言うべきだったろう。

そこには、ピンク色のワンピースを身にまとった小さな女の子がいた。
彼女は本当に小さかった。
瞬の小指の長さにも足りないほど。
その小さな女の子が、ピンク色の花をつけた朝顔の根元から、
「信じて。本当にあなたの願いを叶えてあげるから……!」
と、泣きそうな声で訴えてくるのだ。

そんなことを訊きたくはなかったのだが、訊かないわけにもいかない。
氷河は 非常に嫌な気分で、その質問を発した。
「貴様は何者だ」
氷河の予想通り、
「私は この朝顔の精よ」
という、馬鹿げた答えが返ってくる。
おかげで氷河は、またしても、
「信じないぞ」
という言葉を繰り返すことになった。
「信じないぞ。信じてたまるか。朝顔の精だと? 馬鹿げてる。そんなものが、言うに事欠いて、どんな願いも叶えてやる? 信じるものか。貴様が本当に朝顔の精とやらで、本当に俺の望みを叶えられるというのなら、今すぐ 瞬が俺を好きになるようにしてみせろ。瞬が 俺しか見なくなるように」
「そんなの、簡単よ。はい、もう好きになってるわ」

自称 朝顔の精が、事もなげに そう言って、大きく(実際は小さいのだが)頷く。
氷河がその望みを口にして、朝顔の精が大きく(?)頷くまでの時間が、およそ3秒。
その時間があまりに短く、朝顔の精の口振りが あまりに安易だったので、あらぬものを見、あらぬ声を聞いたことによって生じた氷河のパニックは、一瞬で収まることになってしまったのである。
『瞬が俺を好きになるように、瞬が俺しか見なくなるように』することが、そんなにも簡単に為されることであるはずがない。
それはありえないことで、故に 当然、その“ありえないこと”をしたと言い張る者も“ありえない”。
この朝顔の精を名乗る者は、やはり 在りえない――存在しないものなのだと思った途端に、氷河の混乱は嘘のように あっさりと消え去ったのである。
存在しないものに驚くことは無意味だと思うことで、氷河の混乱は静まってしまったのだった。

「大口叩いて、もし瞬がいつもと変わらなかったら、どうなるかわかっているだろうな」
存在しないものに何を言っても無意味。すなわち、無害。
氷河は、存在しないものを、そう言って脅した。
そして、このありえないものを地上から消滅せしめ、自らの心の平穏を取り戻すべく、氷河はテラスからラウンジに戻ったのである。
『瞬が俺を好きになるように、瞬が俺しか見なくなるように』なっていないことを確かめるために。

奇蹟というものは、本来であれば その事象を起こす力を持たない者が、その事象を起こしてのけるから奇跡と呼ばれる。
その事象を起こす力を持っている者が、それを成し遂げたとしても、人は それを奇蹟とは呼ばないだろう。
一人の人間が紅茶の入ったティーカップをソーサーから持ち上げることは奇蹟ではないが、同じことを一匹の蟻が成し遂げたなら、それは奇蹟なのだ。
そして、自称朝顔の精は、『そんなの、簡単よ』と、一人の人間が紅茶の入ったティーカップをソーサーから持ち上げるように事もなげに宣言した。
だから、それは、もしかしたら奇蹟でも何でもなく、極めて自然で当然のことだったのかもしれない。
だが、氷河にはそれは、一匹の蟻が紅茶の入ったティーカップをソーサーから持ち上げる行為にも思えたのである。
テラスからラウンジに戻った氷河は、そこで奇蹟の目撃者 兼 当事者となったのだった。






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