ギリシャは 既に数百年もの長きに渡って、戦乱の世が続いていた。
ギリシャに存在する数百もの都市国家の支配者たちが、ギリシャ全土の覇権を争って、倦むことなく戦いを続ける群雄割拠の世。
自ら求めることをしなくても、敵は至るところにいた。
出会った敵と戦い、その敵を破れば、彼がそれまで支配していたものを己れのものにできる。
もちろん、敵に破れ、それまでに築きあげてきたすべてのものを、己れの命と共に失う者もいた。
知恵と力さえあれば、一介の農夫でも一国の王になることができた。
知恵と力がなければ、一国の王に生まれついた者も たやすく路傍に転がる屍になることができる。
そんな世界で、己れの力に多少なりとも自負のある者たちの望みは、統一ギリシャの王となることだった。

だが、人口10万20万程度の国の王となることは、知恵と力がありさえすれば誰にでも比較的容易にできたのだが、ギリシャ全土を統一するとなると、それは誰にとっても容易なことではなかった。
ギリシャ世界の統一という偉業は 知恵と武力だけでは成し難いことと 各都市国家の支配者たちが悟り始めていた頃、その神託は下されたのである。
彼を手に入れれば、ギリシャ全土の王になれるだろうことを示唆する信託が。
これまでそうしてきた通り、敵を打ち破り続けていれば、いつかギリシャ全土を統一できる日がくるのか。
それよりは、彼(=神々)の好意を手に入れることの方が容易なのではないか。
いずれにしても、彼を誰かに奪われるわけにはいかない――。
同じことを考えて、ギリシャ全土から集まってきた王たち、英雄志願者たち、野心家たち。
彼等は オリュンポス山の麓で、山を取り囲み、山を見上げて、互いに牽制し合っていた。

氷河も、神託を知り、オリュンポス山に駆けつけた者たちの中の一人だった。
元は領地も地位も持たない――それどころか自分の家すら持たない孤児だったのだが、似たような境遇の孤児たちで徒党を組み、自分たちの住む村を侵略者たちから守っているうちに、敗れた者たちの土地や武器や馬が彼等のものになり、気がついた時には氷河は彼の国というものを持つ者になっていた。
無論、彼の国と言っても、それは 領民数5万程度の、ギリシャの都市国家の中ではごく小規模の国だったのだが。

「その清らかな魂を持つ者は、まだ10代半ばの少年だということだ。そして、神々は皆、その清らかな魂を持つ者を愛しているという。要するに、その子供に好かれれば、戦わずして 統一ギリシャの王になることができるというわけだ。その子に頼まれれば、神々は必ず その望みを叶えるだろうからな。その子を手に入れれば、一人の人間の血を流すこともなく地上の王になることもできる――かもしれない。氷河、無駄に綺麗な その顔の使い道が見付かってよかったな。せいぜい頑張ってくれ」
参謀格の紫龍に茶化すように そう言われ、氷河は渋い顔になった。

ギリシャ全土を統一できるほどの力を得る者が ついに現われるかもしれないという話に惹かれ、事実を見極めるために オリュンポス山の麓までやってはきたが、氷河は自分がその力を得たいと望んでいたわけではなく――全く望んでいないと言えば、それは嘘になるが――その力が ろくでもない人物のものになることだけは避けたい――妨げたいと考えていただけだったのだ。
まして、“無駄に綺麗な顔”を使って“彼”を自分のものにすることなど、氷河は ただの一瞬たりとも考えたことはなかった。

「確かに それができたら手っ取り早くていいが、その清らかな魂の持ち主とやらが どうしても好きになれないタイプの人間だったらどうするんだ。手に入れて、その好意をつなぎとめるために、好きになれない相手の機嫌を一生とり続けるのか」
「その必要もないかもしれんぞ。相手は、地上で最も清らかな魂の持ち主。つまり、初心うぶな子供だということだ。抱いてしまえば、こっちのものかもしれん」
「そう、うまくいくか」
ギリシャ全土を統一できるほどの力が、それほど たやすく手に入るものなのなら苦労はない。
その力を誰も手に入れることができなかったからこそ、ギリシャは これまで数百年もの間 戦乱の世だったのだ。

「うまくいくかどうかは やってみなければ わからんだろう。あまり悠長に構えてはいられないぞ。昨晩も、夜陰に紛れて神殿に忍び込もうとした者が幾人もいたらしい。もちろん、目的地に着く前に相争って共倒れになり、誰も高嶺の花の許まで辿り着くことはできなかったようだが」
「高嶺の花とは言い得て妙――というより、そのままだな」
それが美しいだけの花ならいいが、とんでもない毒花だったらどうするのか。
白く薄い雲の上にあるオリュンポス山の頂を仰ぎ見て、氷河は そう思ったのである。

そもそも氷河は、“清らかさ”なるものに価値を感じたことがなかった。
清らかすぎる泉に魚が住んでいた ためしはない。
不純物のない澄んだ水は、魚にとっては毒でしかないのだ。
だが、高嶺に咲く その花が 清らかな毒花なのだとしたら なおさら、物騒な人間が その花を摘むことは危険である――世界を危うくする。
その日 氷河がオリュンポス山の頂にある神殿に向かったのは、決して紫龍の甘言に乗せられたからではなく、むしろ花の行く手を案じたからだった。






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