二度目の『ラ・ボエーム』の舞台を観たことで、フレアに対するヒョウガの気持ちは大きく変わった。 ヒョウガは、自分を あらゆる意味で取るに足りない人間だと思っていた。 特に貴族世界では 普通以下の存在だと、世間の評価はどうあれ、彼自身は思っていたのである。 そんな 並以下の男が、世間が天使とまで評する女性を妻にしてうまくいくはずがない。 それが、周囲の人間たちの思惑や期待を無視して、ヒョウガがフレアに求婚しない第一の理由だった。 だというのに、今夜、 ヘレフォード子爵家とフローリー男爵家は、地位や財力では釣り合いがとれた家。 もとより、フレアの 彼女となら結婚するのも悪くはないかもしれないと、ヒョウガは考えるようになっていた。 しかし、フレアの“新しい先生”というのが気になる。 オペラ座嘱託の教師でないなら、レッスン代を払っているのは彼女の両親だろうと考えて、さりげなくフローリー男爵夫人に探りを入れてみたのだが、彼女は嘘をついているようには到底見えない顔で、新しい教師など増やしていないとヒョウガに断言した。 「あの子は、英国女性らしい慎みの美徳を備えている子ですから、自分の成長を自分の手柄にする自画自讃のようなことをしたくなかったのでしょう」 食い下がったヒョウガに、彼女はそう言って、にこやかな微笑を返してきた。 フレアの母は、新聞の絶賛より、ヒョウガが愛娘の身辺の事柄に興味を持ってくれることの方が嬉しいらしい。 血の通った人間であるミミを観たあとでは、ヒョウガも、フレアの母に期待の目を向けられることに、これまでのようには結婚を急かされることへの不快は覚えなかったのである。 だが、男爵夫人が言うように、フレアの“新しい先生”が彼女の慎ましさが作った架空の人物だとは、ヒョウガには思えなかった。 初日のミミと二度目に見たミミは別人だった。 フレアが自分で変わるはずがない。 舞台でのフレアの劇的な変化は、どう考えても、外部からの何らかの新しい要素が加わったためだとしか考えようがなかった。 初日のミミと二度目に見たミミは別人。 とはいえ、舞台を下りると、当然のことではあるのだが、フレアはこれまで通りのフレアだった。 彼女は、不幸を知らない天使のように幸福なフレアのままだったのだ。 舞台の上でのフレアの変化の原因についてオペラ座の関係者に訊いてみたのだが、フレアの“新しい先生”を知る者は誰もいなかった。 ただ その中の一人が、オペラ座には昔から幽霊が出るという噂があるという話をしてくれた。 そして、その幽霊は、気に入った歌い手がいると、その歌手に乗り移るのだという。 オペラ座が排出してきた過去の偉大な歌い手たちの名を挙げて、彼は その伝説を真顔でヒョウガに語ってくれた。 さすがに、そんな幽霊の存在を信じることは、ヒョウガにはできなかった。 いくら英国が幽霊の本場とはいえ、今は まがりなりにも20世紀。 産業革命後のロンドンには、幽霊も その非科学性を笑われることを恐れて、おいそれと出てくることはできないだろう。 フレアの“新しい先生”は、当然 生きている人間のはずだった。 ヒョウガの その考えが揺らぐことになったのは、彼がオペラ座で人間のミミを観てから3日後の夜、観客たちが その夜の舞台への感動を胸に それぞれの家への帰途に就いた頃だった。 舞台が はねた直後の喧騒が嘘のような静寂に包まれたオペラ座の裏庭。 いっそ今夜は家に帰らず ここで幽霊の登場を待ってみようかと、そんな馬鹿げたことを考えながら、建物の窓から届く光が ほとんど届かない、いかにも幽霊が現れそうな庭で涼秋の月を見上げたヒョウガの耳に、どこからか小さな歌声が聞こえてきたのである。 それは、フレアのそれほど洗練された美しい声ではなかった。 全く技巧的ではなく――むしろ、声そのものを裸にしたような素朴な音。 真実の天使の声とは こういう声なのではないかと思えるような自然な声、その響き。 それはヒョウガが初めて聞く声だった。 初めて聞く声なのに、なぜか懐かしい。 この声の主こそフレアの“新しい先生”だと、その時 ヒョウガは直感したのである。 オペラ座を訪れる観客たちに開放するためにあるわけではないのでテーブルやベンチもなく、多少の植物が植えられているだけの、ごく狭い庭。 庭の幅は5メートルもなく、高い石の塀とオペラ座の建物との間に細く長くのびていて、その一方は古くなった大道具小道具を入れておく巨大な物置でふさがれている。 この庭のどこかにいるのなら、たとえ その声の主が幽霊でも、捕まえることは たやすいことのはずだった。 「歌っているのは誰だ」 声のする方に近付き、闇に向かって問いかける。 ヒョウガの声は、幽霊にも聞こえたらしい。 ヒョウガが尋ねると、歌声はぴたりとやんだ。 ヒョウガの立つ位置から石塀までは もう2メートルもない。 声の主に逃げ場所はない。 「出て来い」 ヒョウガは更に歩を進めた。 追い詰めたと思った。 そう思ったのに、ヒョウガが闇の中に手をのばした時、そこには誰もいなかったのである。 声の主の後ろにあったのは成人男性でも乗り越えることは不可能な高さの石の塀。 声の主が いずれかに移動したのだとしても、足音くらいは聞こえるはず。 少なくとも、空気が動く気配は感じられるはずだった。 しかし、そんなものはヒョウガには聞こえなかったし、感じ取ることもできなかった。 行き止まりで、どこにも逃げられるはずはないのに、確かにそこにいたはずの人の姿は、いずこにともなく消えてしまっていたのである。 どこか懐かしい、そして飾り気なく優しい歌声が消えてしまった夜の庭で、ヒョウガは、 「まさか、本当に幽霊なのか」 と呟くことになったのだった。 |