輿入れの時期が あと2ヶ月遅ければ、港が凍り陸路を採らなければならなくなっていただろうと、船長は言っていた。
陸路でヒュペルボレイオスに入るためには、 幾つもの国を通ることになり、そのたび面倒な手続きを踏まなければならないし、危険も増す。
海路なら5日で着くところが、陸路なら その5倍の時間を要する旅になっていただろう――と。
エティオピアの港を出て きっかり5日後の午後、シュンが乗った船は、ヒュペルボレイオスの都に最も近い港――つまり、ヒュペルボレイオスの国で最も南にある港――に、無事に到着した。

ヒュペルボレイオスの港は、完全に整備されていた。
エティオピアの港のように、沖に停泊する船からはしけを使う必要もなく、大型船が直接 接岸できる港。
いったい どうやって こんな港を造ったのか、シュンには想像もできなかったのである。
ヒュペルボレイオスが強大広大な国という話は聞いていた。
冬が厳しいので、農作物の実りは悪いが、鉄や銅、材木等の資源はふんだんにあり、それらを有効利用するための技術も発達している。
ヒュペルボレイオスより南方にあるエティオピアの事情は、ヒュペルボレイオスとは全く逆なので、両国の和平が確かなものになり交易が盛んになれば、それはエティオピアだけでなくヒュペルボレイオスにとっても有益なこと、ヒュペルボレイオスの王室はエティオピアの姫を決して粗略に扱うことはすまい――。
本物のアンドロメダ姫の父は そう言っておじける偽の姫を慰撫し、更に、
「エティオピアの民の運命はそなたの肩にかかっているのだ」
と言って、偽の姫を鼓舞してきた。
シュンには それは脅しの言葉にも聞こえたのだが。

女嫌いのヒョウガ王子は 本当に 女であるエティオピアの姫を粗略に扱わないのか。
姫が偽物で、しかも男子だということが ばれたら、いったいどんなことになってしまうのか。
“王子様”という人種がどういうものなのかを知らないシュンには、推察も判断もできないことばかりだった。
騙されたことに腹を立て 偽の姫を処罰するのか、それとも これ幸いとばかりに偽の姫を本当に妻にしてしまうのか。
(まさかね……)
女嫌いだから男が好きというわけでもないだろう。
自分の考えを、シュンは無理に笑った。
実際のところはどうなのか、それは空想の中のヒョウガ王子ではなく本物のヒョウガ王子に会ってみなければわからない。
だが、会うのも恐い――。
船を降り 王城に向かう輿に揺られている間、シュンは、そんなふうに、考えても仕方のない、とりとめのないことばかりを考えていたのである。

港も見事なものだったが、ヒュペルボレイオスの王城もまた、エティオピアのそれより はるかに大きなものだった。
まさに、あたりを払う威容。
直線だけでできた要塞のような城――雪と氷に耐えるために身構えているような城。
その大きさと強さに圧倒され、牢獄に押し込められる罪人のような気持ちで、シュンはヒュペルボレイオスの王城に入ったのである。

だが、無骨な外見と違って、ヒュペルボレイオスの王宮の中は極めて豪華華麗なものだった。
シュンが最初に通された控え室の壁にかかる鏡は金とダイヤで縁取られ、しかも、その細工は非常に細やか。
他の家具調度も、単純な直線でできているものは ただの一つもなかった。
ヒュペルボレイオスの民は、冬の間は雪と氷のために建物の中に閉じ込められて過ごすことが多いと聞いていた。
それは、精巧緻密な仕事をする頑固な職人が育ちやすい環境なのかもしれなかった。

謁見のための広間の床には、気を抜くと すべって転びそうなほど なめらかに磨かれた御影石が敷かれていた。
正面中央に玉座が二つあり、その一つにヒュペルボレイオスの国王が、もう一つにアンドロメダ姫の夫となるヒョウガ王子が着席している――らしい。
広間の両脇にずらりと居並ぶ廷臣たちの無表情が恐くて、シュンは顔を上げて その二人の様子を確かめることもできなかったのだが。
盗み見るように少しずつ視線を上げていったシュンが、最初に認めることになったのは、ヒュペルボレイオス国王その人ではなく、彼がその身を包んでいるマント、そして、彼が手にしている王笏だった。
濃紺のビロードのマントには幾つもの真珠とダイヤが縫い込まれており、王笏に飾られている真珠は、真珠採りを生業にしているシュンでも見たことがないほど大粒で完全な真球。
それ1粒で自分の1年間分の生活費になりそうだと、シュンは、一国の姫らしくないことを胸中で考え嘆息したのである。

ヒュペルボレイオスの国は、エティオピアよりはるかに豊かで、国力がありそうだった。
エティオピアがヒュペルボレイオスに完全な敗北を喫することなく戦いを続けることができていたのは、ひとえに 厳しい冬がこの国を眠らせるから。
ヒュペルボレイオスがエティオピアを完全に滅ぼし去ってしまえない理由を、シュンはそれ以外に思いつけなかった。

「お顔を上げてください、姫」
シュンに最初にかけられた王の言葉は、思いがけず優しいものだった。
その言葉に従っていいのかと 一瞬 迷ったあと、シュンが恐る恐る顔を上げる。
そこにいたのは、その声の通りに優しい、そして 穏やかそうな表情をした中年の男性だった。
たとえ その表情が意図的に作られたものだったとしても、いかめしい顔に鹿爪らしい表情を浮かべた大国の支配者の姿を想像していたシュンには、それは十分に(完全に、ではないが)緊張した気持ちを和らげてくれるものだった。

その王が 優しく、だが ひどく困惑したような顔をして、シュンに尋ねてくる。
「聞きしに勝る可憐な姫君、我が国に お迎えできたことは大変光栄ですが、その姿は いったい――」
彼の困惑も当然のこと。
シュンは、到底 一国の王女の装いとはいえない衣装を、その身にまとっていたのだ。
膝にも届かない短い丈の内衣キトンと 水色の外衣クラミュス
なによりヒュペルボレイオスの王を驚かせたのは、シュンが その脚を外気にさらしていることのようだった。

「あの、ヒュペルボレイオスの王子様は女性があまりお好きではないと伺ったので、男子の格好をしていれば、少しは好意を持っていただけるのではないかと――」
シュンが あらかじめ用意していた言葉(言い訳)を告げると、ヒュペルボレイオス王は その言葉(嘘)を そのまま信じたらしく、彼は感じ入ったように 彼の隣りの椅子に掛けている青年の上に視線を巡らせた。
「なんと、これほど美しい姫君が、あえて華美な衣装を身にまとわず……。ヒョウガ、聞いたか。今の姫の健気な言葉」
シュンの男装は、実は、少しでも身体の線を隠すため――上半身の身体の線を隠すためのものだった。
身分の高い姫君なら、ここは丈の長い 身体にまとわりつく薄衣のキトンで女性らしさを強調するところなのだが、男子用の短いキトンなら上着を着けることが自然になる。

『胸を見せられない分 脚を見せて、男子と疑われないようにすればいいわ』というのは、エティオピア王妃――アンドロメダ姫の母の提案したことだった。
『この脚を男子のものと思う者はいないでしょう』
と、彼女は言った。
褒める意図も 貶す意図もなく、彼女は ただ冷静かつ客観的に事実を述べているだけということが感じ取れて、シュンは かえって深く彼女の言葉に傷付いたのである。
いずれにしても、シュンの男装は、言ってみれば姑息な作為だった。
それを健気と褒められてしまい、シュンは罪悪感を覚えないわけにはいかなかったのである。
いったいヒョウガ王子は この偽りをどう思っているのか――不安と罪悪感にかられた視線を、シュンは びくびくしながらアンドロメダ姫の夫になる人に向けることになった。
ヒュペルボレイオスの王子――アンドロメダ姫の夫となる人の姿を初めて まともに その視界に入れる。
シュンはその姿を見て、息を呑むことになった。

ヒュペルボレイオスは、光明と音楽、医学、予言の神であるアポロンが過ごした国だと言われている。
ヒョウガ王子は、その伝説の国の王子にふさわしい光の色の髪の持ち主だった。
そして、その髪の輝きに ふさわしい端正な面立ち。
シュンは、最初の数秒間、彼を生身の人間だと思うことができなかった。
想像力豊かな画家が その想像力を駆使して 理想の王子様を描いた絵が そこに飾られているのだと思った。
言葉どころか息をすることさえ忘れ、ぽかんと“理想の王子様”を見詰めていたシュンは、だから気付くのに時間がかかったのである。
ヒュペルボレイオスの王子が、ひどく不機嫌な目をして自分を睨んでいることに。

気付いて、この結びつきが、ヒョウガ王子にとっても彼の意思を無視した不本意なものなのだということに思い至る。
シュンは、心臓に鋭い針を突き刺されたような痛みを覚えた。
それがヒョウガ王子にとっても望まぬ結婚だということは、偽のアンドロメダ姫には安堵していいことのはずだったのだが。

「ぼ……僕は、できれば、少しでも王子様に好意を持っていただけるようになってから、その……本当の夫婦になりたいのです。叶うことなら、婚約期間を設けて、しばらくの間、つ……妻ではなく、人質として遇していただけたらと――」
どもりながら、事前に用意されていた口上を 何とか口にする。
何もかもが異例尽くし。
シュンの申し出を聞いたヒュペルボレイオスの王は、即座に大きく首を左右に振った。

「このように可憐で健気な姫君を人質として遇するなど、そんなことができるわけが――」
「俺に好意を持たれるようになってから? エティオピアのアンドロメダ姫は 俺を骨抜きにできるという自信に満ちて この国に乗り込んでくると聞いていたが、そうなのか?」
王の言葉を、ヒョウガ王子の声が冷ややかに遮る。
「ええっ !? 」
シュンは、ヒョウガ王子の問いかけに驚き、息を呑んだのである。
そういえば、エティオピア国王はそんなことを言っていた。
アンドロメダ姫は美しい。姫なら どんな女嫌いの王子も必ず その美しさの虜にするだろう――と。
どういう経路を辿ったのかは定かではないが、どうやら その言葉がヒョウガ王子の耳に入っていたらしかった。

仮にも一国の王子、その矜持は高いものだろう。
骨抜きにできる相手と見くびられていると聞かされていれば、いい気はしないに違いなかった。
そのためか、シュンを見おろすヒョウガ王子の目は ひどく冷たい。
髪は陽光のように明るく輝いているのに、シュンを見おろすヒョウガ王子の青い瞳は、まるで凍りついた海水。
その瞳に見詰められているだけで、シュンは心臓が凍りついてしまいそうだった。

「ぼ……僕は、ヒョウガ王子様とは できれば いいお友だちとして――」
「いいお友だち? おまえ、ふざけているのか? 俺たちは、昨日までの敵同士、もっと緊張し殺伐としているのが当然の――」
「ヒョウガ!」
優しいヒュペルボレイオス王が、ヒョウガ王子の冷たさを責める。
ヒョウガ王子は、王の声も聞こえぬ振りをしてシュンを睨み続けていた。

「そんな……」
ヒョウガ王子は、妻ではなく敵として――敵だった者としてアンドロメダ姫を――シュンを――見ている。
面立ちが整いすぎているせいで なおさら、ヒョウガ王子の表情はシュンに無機質な冷たさを感じさせた。
これほど美しい人に、これほど冷たい視線で刺し貫かれたら――、もし ここにいるのが偽の姫でなく本物のアンドロメダ姫だったなら、姫はどれほど つらく悲しい思いを抱いたことか。
当分の間の務め、友人以上に親しくならなくてもいいと言われて この国にやってきた偽の姫でも、ヒョウガ王子の冷たさは恐ろしい。そして、悲しい。
この王子の妻として一生を過ごすことになるアンドロメダ姫が、シュンは気の毒でならなかった。
アンドロメダ姫とて望んで彼の妻になるわけではないのに、これでは あまりに姫がかわいそうである。

「黙ってしまったな。どうした」
冷たく傲慢な声で、ヒョウガ王子がシュンに尋ねてくる。
「王子様が……こ……こんなに恐そうな人だとは思わなかった……」
これでは、アンドロメダ姫が あまりに気の毒です――シュンが 言ってはならぬ言葉を言わずに済んだのは、憎い敵のアンドロメダ姫を傷付けて悦に入っているようだったヒョウガ王子の冷たさが 僅かに揺らいだ――ように感じられたからだった。

「なに……?」
シュンの言葉を聞いたヒョウガ王子が、短い沈黙のあと、
「恐そうで悪かったな」
と、あまり冷たくない・・・・・声をシュンの上に降らせてくる。
「え?」
ヒョウガ王子の、もしかしたら拗ねているのではないかと思えるような その声音に はっとして、シュンは その顔を上げたのである。
シュンが想像した通りに――ヒョウガ王子は 機嫌を損ねた子供のような顔をして 横を向いてしまっていた。
アンドロメダ姫への同情に気をとられ、自分がヒョウガ王子を傷付けるようなことを言ってしまったことに、その段になって シュンは初めて気付いたのである。

「ぼ……僕は、あの、非難とか、そんなつもりで言ったのではないんです。ただ、思ったことを正直に口にしただけで――」
シュンの言い訳を聞いたヒョウガ王子が、横を向いたままで瞳を見開く。
それから彼は、ゆっくりとシュンの上に視線を戻してきた。
拗ねているようだった声が、呆れたような響きの声に変わる。

「おまえ、本当にエティオピアの王女なのか?」
「……!」
問われて、シュンは全身を大きく一度 震わせたのである。
自分は何か エティオピアの王女らしからぬことを言ってしまった――アンドロメダ姫でないことが ばれてしまったのかと、恐れ おののいて。
しかし、そうではなかったらしい。
シュンが王女らしくないことを言ってしまったのは事実のようだったが、ヒョウガ王子は、シュンをアンドロメダ姫ではないのではないかと疑っているわけではないようだった。

「仮にも王女なら、正直でいることの危険くらいわかっているはずだろう。宮廷での社交辞令とか、婉曲的な物言いというものを、おまえは教えられていないのか?」
「婉曲的な物言い……って?」
「婉曲的な物言いは婉曲的な物言いだ。つまり、真意が通じにくい言い方」
「真意が通じにくい言い方……?」
シュンは首をかしげた。
今まさに、ヒョウガ王子の真意が理解できなくて。
言葉というものは、様々な事象や自分の気持ちを他人に伝えるためにあるもののはずである。
当然、“真意”はできる限り正確に わかりやすく伝わった方がいい。
シュンは そう思っていたし――そうでないことを疑ったこともなかったのだ。

ヒョウガ王子が、シュンの反応の鈍さに苛立ったように舌打ちをする。
ヒョウガ王子の言っている言葉が理解できないことが恐くて、シュンは眉根を寄せた。
「だから、たとえば、『女嫌いの王子』は『大変 貞潔な王子』、『恐そう』じゃなくて『威厳がある』。俺を骨抜きにする自信があるのかと問われたら、『すべては王子様の お心のままに』だ。せいぜい『好意を持ってほしいと願っています』くらいだろう」
「あ……」
なるほど 物は言いようである。
真意は伝わりにくいが、それは確かに相手を傷付けずに済みそうな言いまわしだった。
「す……すみません。これから覚えます」

婉曲的な言いまわしを知らなかった自分を恥じて、シュンは素直にヒョウガ王子に謝罪したのである。
エティオピアの王宮に連れていかれたシュンは、その3日後にはヒュペルボレイオスに向かう船に乗せられていた。
慌しくエティオピアを発つまでの短い時間に、シュンがエティオピアの王と王妃に教えてもらえたのは、アンドロメダ王女の趣味や性格、ヒュペルボレイオスの王や王子に質問を受けやすいだろう王室の人々の身分や名前、王女本人でないと ばれそうになった時の言い訳を幾種類か。
そういったことだけだったのだ。
秘密を知る者を増やさないために礼儀作法の教師をつけるわけにはいかなかったという事情もあったろうが、もしかしたらエティオピア国王夫妻は、婉曲的な話法など誰もが知っていて当たりまえの常識と思っていたのかもしれなかった。

自身の非常識を初めて自覚し、謝罪したシュンに、ヒョウガ王子は、だが、なぜか、
「いや、俺自身は正直でいてくれた方がいいが……。覚える必要はない」
と言ってきた。
「覚えなくてもいいんですか!」
ヒョウガ王子のその言葉に安堵して、シュンの声と胸が弾む。
そんなシュンを見たヒョウガ王子は、また呆れたような顔になり、シュンは、自分がまた何か失敗してしまったらしいことを悟って、泣きたくなった。






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