シュンに与えられたのは、どんな不自由も覚えないほど すべてが揃い、広く贅沢で清潔な部屋だった。
それでもシュンが その部屋に閉じこもっていられたのは、僅か2日。
何もしないでいることに長時間耐えられるほど、シュンは怠け者ではなかったし、何より外の空気に触れていないと、自分が錆びついてしまうような気がして、シュンは その部屋の外に続く扉を開けずにいられなかったのである。

完璧な部屋の中で心許なげにしているシュンに、庭の散策を勧めてくれたのは、ヒュペルボレイオスに来てからアンドロメダ姫につけられた侍女の一人だった。
この城では誰もがシュンに優しく親切で、シュンに優しく接してくれないのはアンドロメダ姫の夫になる人だけ。
シュンは彼女の勧めに従って、彼女曰く『この城の中で最も自然で華やかな場所』に足を向けてみたのである。

ヒュペルボレイオスの王宮の中庭で咲いている花々は、そのほとんどが 白や青、あるいは薄い紫色のものだった。
冬が厳しい この国では、花が宝石より価値あるものなのかもしれない。
採光に工夫がしてあって、その庭は、太陽が出ている間は それが空のどんなに低いところにあっても必ず日光が入るように設計されているようだった。
やわらかな陽射しの中で、可憐な花たちが揺れている。
北国の城の庭で咲いている花たちは、南のエティオピアで咲く花たちとは 全く様子が違っていた。
エティオピアでは、冬でも大輪の原色の花が咲いていたが、この北の国に咲いているのは、秋の花だという事情もあるのだろうが、落ち着いた控え目な色をまとった小さな花ばかり。
その花々の間にある小道を辿りながら、花に限るなら、自分はエティオピアよりヒュペルボレイオスの方が好きかもしれないと、シュンは思った。

2日振りの外の空気、自然の光。
控え目に咲いている花の中の一つに、シュンは、
「僕、ヒョウガ王子様に嫌われているみたいでよかった」
と呟いてみたのである。
シュンの呟きを聞いた秋色の花は 寂しげに首をかしげ、その様子を見て、シュンは――シュンもまた、しょんぼりすることになってしまった。

ヒュペルボレイオスの王子は、光明の神と紹介されても 信じてしまえそうなほど美しく華やかな王子様だった。
あれほど綺麗な王子様に嫌われるのは、やはりつらい。
だが、初対面の人に向かって『恐そう』などという言葉を投げつけてしまうような心無い人間を、彼が嫌わずにいるという可能性を、シュンは考えることができなかった。
シュンは、ヒョウガ王子を『恐そう』と思っただけで『恐い』と思ったわけではなかったのだが、今更そんな言い訳をしても、信じてもらえるかどうか。
そんなことをしても、不愉快な話を蒸し返す思い遣りのない者と思われてしまいそうで、改めて弁解する勇気も湧いてこない。
どうすればいいのかが、シュンにはわからなかった。
花も教えてくれない。
優しく美しく――だが、気遣わしげに揺れているだけの花たちの中で、シュンは途方に暮れていた。

「なんだ。おまえも好きで嫁いできたわけではないのか」
そんなシュンの上に突然、ヒョウガ王子の声が降ってくる。
一度 大きく身体を震わせてから、恐る恐る振り返ると、光の中にヒョウガ王子が立っていた。
光の中でも、彼は美しい――光の中にいるからこそ、彼は美しい。
シュンは胸中で溜め息を洩らし、そう思ったのである。
人目がないせいか、先日より少し気安げだったが、ヒョウガ王子は 今日もあまり機嫌がよさそうではなかった。

「あ……あの……ご好意を持っていただけたらと思っています」
震える声で、それでも何とかシュンがそう言うことができたのは、本物のアンドロメダ姫が来た時、二人の仲が険悪なものになっていたら、つらい思いをすることになるのはアンドロメダ姫なのだと思う気持ちがあったからだった。
せめて いい友人としての関係を築き、気の毒なアンドロメダ姫にヒョウガ王子の妻の座を手渡したい。
それこそが自分に課せられた務めなのだと思うから。

シュンが昨日 教えてもらったばかりの婉曲的な言葉を口にするのを聞いて、ヒョウガ王子は笑った――楽しそうに、彼は笑った。
「早速、婉曲的話法を覚えたわけだ。賢い姫君だな」
「あの……」
ヒョウガ王子は、確かに笑っている。
彼は確かに笑っているのだが、シュンは自分が彼に褒められているのか、皮肉を言われているのか がわからなかった。
シュンが戸惑っていると、ヒョウガ王子が その笑みを消して、真顔でシュンに尋ねてくる。

「ここには誰もいない。俺たちの話を聞いているのは花だけだ。だから、社交辞令も婉曲的話法もなしで、本心を言ってくれ。おまえは こんな北の国に来たくはなかったのか?」
「あ……」
その質問に対する婉曲的な答え方を、シュンはまだ習っていなかった。
だから シュンは、正直に答えるしかなかったのである。
「来るつもりはなかったです」
――と、正直に。
「ずっとエティオピアの王宮にいたかったのか」
「……兄と……家族といたかったです」
「そうか……」

皮肉にではなく、同情するように、申し訳なさそうに――ヒョウガ王子がシュンの言葉に頷く。
初対面の時の挑戦的な態度は いったい何だったのかと疑わずにはいられないほど、今日のヒョウガ王子は“敵”に対して穏やかだった。
「それは自然な願いだ。おまえにとって 俺は、人として ごく自然な その願いを打ち砕いた冷酷な男というわけだな」
そう告げるヒョウガ王子の瞳は どこか寂しげですらある。
ヒョウガ王子は幼い頃に両親を亡くしたと、シュンは聞いていた。
それゆえ、ヒョウガ王子が親政を始められるようになるまでの 繋ぎの王として、彼の父の弟がヒュペルボレイオスの王位に就いているのだと。

ヒュペルボレイオスの現在の王は、ヒョウガ王子にとって父親代わりの優しい叔父のようだったが、それでも王子の母親代わりにはなれまい。
幼くして自分に最も近しい肉親を失ったヒョウガ王子が、すべてに満ち足りて生きてきたはずがない。
母のいない寂しさに囚われたことがなかったはずがない。
兄がいても――シュン自身がそうだった。
だから、今のヒョウガ王子は、婉曲的な話法を駆使することなく、正直に、自分の考えを口にしていると、シュンは感じたのである。

「冷酷だなんて――。ぼ……僕は そうは思いません」
「なぜ」
「王子様も、僕との結婚を望んでいないみたいだから」
そう言ってしまってから――なぜだろう。シュンの心臓は、自分が口にした言葉のせいで、ひどく痛んだ。
顔を伏せたシュンの側で、ヒョウガが肩をすくめた気配がする。

「会ったこともない相手と突然 結婚しろと言われたら、誰だって――まあ、愉快な気分にはならないだろう」
「ええ……そうですね。王子様って大変なんですね。王様とか王子様とかいう人たちは、もっと優雅な暮らしをしているものなんだろうと思っていました」
「王女様も大変だろう」
「あ、そうです」
「王子様も王女様も、国のために、知らない人と一生を共にしなければならない――自分の心を殺して――」
自分なら 到底 耐えられないと、シュンは思った。
本物のアンドロメダ姫がやってくるまでの束の間の妻の振りとわかっているシュンでも、自分の心を偽っているのは つらい。
だが、本物の王子様や王女様は そんな偽りが一生続くのだ。

「俺は国民の納めた税で暮らしているんだから、仕方がない」
「なら、税で暮らすのをやめればいいのに」
ヒョウガ王子の言葉に、シュンが小さく答える。
シュンがぽつりと呟いた その言葉に、ヒョウガ王子は瞳を大きく見開いた。
自分は何かまた変なことを言ってしまったのだと、シュンは すぐに気付いたのだが――気付きはしたのだが、自分の発言の どこが変だったのかが、シュンには わからなかった。
シュンの“変な発言”に呆けているようだったヒョウガ王子が、やがて気を取り直したように 口を開く。

「そうはいかん。国を守るために外敵と戦い、法律を定め、罪人を捕らえ罰し、港を整備し、川に橋を架ける――国には そういう仕事をする者が必要なんだ」
「そういう仕事の報酬が 王子様の地位と不自由のない暮らしなら、それで十分でしょう。なにも意に沿わない結婚までする必要はないはずです」
「その、意に沿わない結婚が、国を守る仕事の一環なんだ」
「なら、王子様なんて仕事、やめればいいのに」
「やめてどうする」
「そういう仕事をしたい人は他にいくらでもいるでしょう。そういう仕事は、そういう仕事をしたい人たちに任せて、王子様は税を納める側の人間になればいいんです。麦を育てたり、海に出て漁をしたり、羊や牛を育てるのもいい。家を建てたり、家具を作ったりする仕事もあります。どんな仕事も大変だし、王子様でいた頃みたいな贅沢な暮らしはできないかもしれないけど、でも 好きな人と一緒にいられる」

不本意な結婚をしたくないなら、不本意な結婚をしなくていい人間になればいい。
それはシュンにとっては、極めて理に適った、そして単純な考えだった。
だが、どうやらヒョウガ王子は、そんな仕事に従事している自分というものを想像したこともなかったらしい。
「麦を育てたり、海に出て漁をする?」
いったいそれはどういう仕事なのだと問うような口調で、彼はシュンの提案を反復してみせた。
この人は生まれながらに王家の一員、国を守るために外敵と戦い、法律を定め、罪人を捕らえ罰し、港を整備し、川に橋を架ける仕事をしている自分をしか考えられないし、それ以外のものになることはできないのだと、シュンは切ない気持ちで思ったのである。

「ご……ごめんなさい。変なこと言って――」
「いや……謝る必要はないが」
謝る必要はないが、やはり それはヒョウガ王子にとっては“変なこと”だったのだろう。
いかにも すっきりしていないような目をして、ヒョウガ王子は“変なこと”を言ってしまったシュンを見おろしていた。

「それはともかく……だが、そうだな。今の俺に成り代わりたいと願う男は、確かに いくらでもいるだろう。多少の苦労はあるにしても、贅沢な服を着て、毎日 美味いものが食えて、その上、今は こんなに可愛らしい妻までいる」
“変なこと”を言うシュンを映しているヒョウガ王子の青い瞳。
彼の瞳を 初めて真正面から見て――ヒョウガ王子と視線が出合った途端、シュンは自分の魂が その瞳の中に吸い込まれてしまうような気持ちになった。
そんな気持ちになることが恐くなくて、快いとさえ感じる。
否、恐いのだが、快い。
魂でも心でも、いっそ本当に この瞳の中に吸い込まれてしまいたいと、シュンは半ば以上本気で思ったのである。
ヒョウガ王子の瞳の中で陶然としかけていたシュンの心は、だが、すぐに正気に戻った。
シュンを正気に戻したものは――自分の中に なぜそんなものが生まれてきたのかはシュン自身にも わからなかったが――“寂しい”という気持ちだった。

「成り代わりたい人なんていませんよ。僕は王子様の可愛い妻にはなれないもの」
「なに?」
ヒョウガ王子が怪訝そうな目で、シュンを見詰めてくる。
婉曲的な話法を駆使するなら、そして、自分とアンドロメダ姫が交代したあとのことを考えたなら、こういう時は、『本当に王子様の可愛い妻になれたら嬉しいです』とでも言うのが正解なのだろう。
だが、そんな できもしないことを言うのは悲しい――寂しい。
もう これ以上、この人の(偽の)妻として、この人の瞳の中にいることに耐えられない。
そう思う心が、シュンを花咲く庭から駆け出させた――ヒョウガ王子の前から逃げ出させた。






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