アンドロメダ姫が ふいに自分の前から駆けていってしまったのは なぜなのか、その訳をヒョウガは考えなかった。 ヒョウガは、そんなことより、自分の妻になるべく異国からやってきた姫君が 非常に独創的で突飛な思いつきを思いつく愉快な姫君だったことに、意識を奪われていたのだ。 「発想が奇抜だ。税で暮らすのをやめればいいのとは。その通りだ。我が国をアテナイのような共和制にして、俺が王子でなくなれば、俺は意に沿わない結婚をしなくて済む」 姫君がやっと部屋に閉じこもっているのをやめてくれたので、ぜひ王子がお相手を――と、アンドロメダ姫につけた侍女に言われ、いかにも しぶしぶといった 一拍遅れて、エティオピアの王女がヒュペルボレイオスの王子に提案したらしい“奇抜な発想”に、重ねて驚く。 「税で暮らすのをやめればいい? 王女様がそんなことを言ったのですか」 侍従の驚きは当然のものだったろう。 エティオピア王家は、既に300年以上続く古い家柄の王家。 その王家に生まれた姫君は、この世界に生まれ落ちた時から、自分が他者にかしずかれる者、生まれながらの支配者であることを自然なことと考え、その事実に疑念を抱くようなことはしないはず。 まして、自分が他者に かしずかれる側の人間でなくなることなど、考えることも想像することもできないはず。 王族は生まれながらにして王族、国民を支配する権利を神に与えられたのだと、無意識のうちに信じ込んでいるもの。 侍従はそんなふうに思っていたに違いなかった。 ましてアンドロメダ姫は深窓育ちの世間知らず、自分の暮らしが国民から納められた税によって成り立っていることすら知らなくても不思議ではない。 彼は、王家の姫君とはそういうものという認識でいたのだろう。 今日 アンドロメダ姫と二人きりで言葉を交わすまで、他の誰でもないヒョウガ自身が そうだと思い込んでいた。 それは大いなる誤解、もしくは ひどい侮りだったが。 「言った言った。民の納める税で暮らすのをやめて、税を納める側の人間になれば、好きな相手と結婚できるとな。面白いぞ、あの姫君は」 そう言うヒョウガとて、既に400年の長きに渡って この北の大国に君臨してきた王家の一員である。 奇抜に過ぎるアンドロメダ姫の思いつきを笑いながら語るヒョウガの無責任に、侍従は非難の目を向けてきた。 ヒョウガは、その目に気付かなかったのだが、すぐに、 「我が国がアテナイのように小さな都市国家だったなら、共和制を布くのも容易だろうが」 と、低い声で言葉を続けたのである。 ヒョウガの その呟きを聞くと、侍従は安堵したように短い吐息を洩らした。 ヒュペルボレイオスのように国土が広大で、国民の気質や価値観が地方によって大きく異なる国は、強大な絶対的権力で有無を言わさず支配しなければ、民の利害の対立によって、国としての意思を決定することができず 迷走することが目に見えている。 ヒョウガが ヒュペルボレイオスの実情をわかっていることに、侍従は安堵したらしい。 ヒョウガの目が正確に現実を見ていることを確認できたので、侍従はヒョウガの笑い話の相手を 気軽に務める気になったようだった。 「確かに変わった姫君のようですね。王子は楽しそうです」 「ああ。文句なく美しいし、全く邪気がなく素直で正直で、話していて楽しいのは事実だが……」 ヒュペルボレイオスの王子がエティオピアの王女と言葉を交わすことを楽しいと感じたのは事実だったが――はたしてエティオピアの王女はどうだったのか。 自分が楽しいことに浮かれていたヒョウガは、初めてアンドロメダ姫の気持ちに思いを至らせ、そして、憂鬱な気分になった。 「俺は楽しかったんだが、姫は俺を好きではないようだった……」 ヒョウガが、浮かぬ顔になる。 ところが、ヒョウガが浮かぬ顔になった途端に、侍従の方は、彼の主君とは逆に 明るい笑顔になった。 「そんなことはないでしょう。恋も知らないような少女には、王子のような方は夢に思い描く理想の恋人そのものです。少し優しくしてやれば、姫君は すぐに王子に恋するようになりますよ」 「少し優しく……?」 そんなことでアンドロメダ姫が自分と一緒にいることを楽しいと感じてくれるようになるのなら、少し優しくしてやるくらいのことはしてやってもいいと、ヒョウガは真面目に思ったのである。 |