「冬がくると、あの庭も雪で覆われて、花も見られなくなってしまうんです」
侍女が残念そうに そう言うのを聞いて、シュンは翌日も庭に出た。
シュンは雪というものを 話でしか聞いたことがなかったので――自分の目で見たことがなかったので――、雪で覆われた庭というものにも興味がないではなかったのだが、雪が降れば当分 花を見ることはできなくなると教えられ、今のうちに可憐な花々を楽しんでおこうと考えたのである。
そのつもりだったのだが――。

昨日は素晴らしく美しいと思った花々を、今日は さほど美しいと思うことができない。
花々は、昨日と同じ場所で、昨日と同じ風情で 健気に優しく咲いているというのに、何かが足りない。
そう感じてしまう自分を、シュンは訝った。
「どこも 昨日と変わったとこなんかなく、綺麗だよねえ……」
シュンは薄紫色の小さな花に尋ねてみたのだが、北国の花は遠慮深いたちらしく、シュンに頷き返してくることはなかった。
むしろ、シュンの真似をするように首をかしげる。
きっと この庭の花たちも 自分と同じ気持ちでいるのだと、シュンは思った。

「今日は来ないのかな……」
シュンが、小さく呟く。
その呟きをシュンが最後まで言い終わらないうちに、その人の姿が庭に現われ、途端に庭の花たちは昨日より更に美しくなった。
「花が好きなのか」
ヒョウガ王子に問われたシュンは、すぐに彼に頷こうとした。
だが、シュンはそうすることができなかった。
ヒョウガ王子の青い瞳に映っている自分から目を逸らすことができなかったせいで。
頷くことはせずに、
「ここには、見たことのない花がたくさん咲いてます」
と答える。
シュンの姿を映しているヒョウガ王子の瞳の青は、少し気遣わしげな色に変わった。

「その割りに、詰まらなそうな顔をしていたが。国に帰りたくなったか」
「綺麗だけど、物足りないって思っていたの。王子様が来たら、物足りなくなくなりました」
庭の花たちは、今は美しく咲いている。
花たちは昨日より美しくなっていた。
この庭に、何が足りなかったのかがわかって、シュンの声と胸は弾んだ。
光が足りなかったのだ。
だが、その光は今日もまた来てくれた。
その光を受けて、花たちだけでなく、自分までが生き返ったような気がする。
意識したわけではなかったのだが、シュンの“詰まらぬ顔”は 今はすっかり笑顔になっていた。

ヒョウガ王子が、シュンのそんな様子に戸惑ったのか、2、3度 瞬きを繰り返す。
そうしてから彼は、突然思いついたようにシュンに命じ、尋ねてきた。
「あー……俺のことはヒョウガと呼べ。俺もアンドロメダと呼びたい。それとも、エスメラルダの方がいいか? アンドロメダ・アタルガディス・エスメラルダというのが、おまえの正式名なんだろう? 随分 大袈裟な名だ」
ヒョウガ王子の言う通り、それは随分 大袈裟な名前だった。
アンドロメダは『人間を支配する女』の意味、アタルガディスは大地母神の名、エスメラルダは もちろん、エティオピアでは王族しか身につけることが許されていない緑色の宝石のこと。
シュンは『アンドロメダ姫』と呼ばれるたびに、それはいったい誰のことなのだと戸惑ってから、『はい』と返事をしていた。
大層な意味を持つ その名に、いつまで経っても呼ばれ慣れない。
だからシュンはすぐに、そして 気負い込むように、
「シュンがいい!」
と、ヒョウガ王子に訴えていたのである。

「シュン?」
それはどこから出てきた名なのだと、ヒョウガ王子が視線で問うてくる。
自分は、エティオピアの王女アンドロメダが口にしてはならない名を口にしてしまったのかもしれない――と、シュンは慌て、悔やんだ。
だが、ヒョウガ王子に偽りの名ではなく本当の名で呼ばれたいという思いは、その後悔の念よりも強かったのである。
「今、思いついたの。男の格好をしてるのに、アンドロメダだのエスメラルダだの、そんな重くてきらびやかな名を名乗っているは変だもの」
「確かに『アンドロメダ姫』よりはずっと呼びやすいな。――シュン」
「はい!」

ヒョウガ王子が――本当なら、出会うことはおろか、その名を知ることもなく一生を終えていたかもしれない北の国の王子様が――彼の国から遠く離れた南の海で 毎日海に潜り真珠を採って暮らしていた貧しい親無し子の名を口にする。
今の今まで 単なる呼び名にすぎないと思っていた その名が、ヒョウガ王子が口にすると、特別な価値を持った上等な何かであるように感じられて、シュンは胸がどきどきした。
「じゃあ、僕も。……ヒョウガ」
そして、ヒョウガ王子の名を自分が口にすると、その名もまた、この世に二つとない大切な宝物の名のように聞こえて、シュンの胸は更にときめいた。
――のだが。

シュンに『ヒョウガ』と呼ばれた途端に、ヒョウガ王子は急に その顔を不機嫌そうに強張らせてしまったのである。
たとえ『ヒョウガと呼べ』と言われても、高貴な姫君は その言葉に従ってはならなかったのだろうか。
ふいに むっとして唇を引き結んでしまったヒョウガ王子の前で、一度 口にしてしまったものを消し去ることもできず、シュンは戸惑い途方に暮れてしまったのだった。






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