「氷河は元気か。幸せでいるか」 「元気です。でも、氷河が幸せでいるのかどうかは――僕は氷河ではないので、氷河の気持ちはわかりません」 確信できないことは口にできない。 自分の耳にも素っ気なく聞こえる声で、瞬はカミュにそう告げた。 幻影の姿をしたカミュは、そんな瞬を見詰めて、 「慎重だな。氷河に見習わせたいくらいだ」 と、悪意の全く感じられない口調で呟いた。 悪意は持たなくてもいいが、せめて負い目くらいは感じていてほしいと、瞬は、いかにも善良そうな水瓶座の黄金聖闘士の目を見て思ったのである。 氷河が幸せでないのは誰のせいなのか。 それくらいのことは自覚していてほしいと。 「氷河は、いつも思い詰めたような目と表情をしているんです。氷河は、あなたやマーマや、大切な人たちを自分のせいで死なせてしまったと思っているから。自分が生きていることを 氷河が心から楽しめているのかどうかは、僕にはわからない。僕はずっと氷河と一緒に――命をかけた戦いを戦い続けてきたのに」 「思い詰めたような?」 「ええ」 「いつからだ」 「僕が氷河と初めて会った時からずっと。十二宮での戦いのあとは なおさら」 「初めて会った時から? ああ、君は、私より先に氷河に出会っているのだったな。氷河は、当時はどんな子供だったのだ?」 なぜ彼は 話をそこまで遡らせるのか。 瞬には、カミュが自分の為したことの責任を逃れようとしているようにしか思えなかった。 少しく苛立ちを覚えながら、問われたことに答える。 「昔から綺麗でしたよ。マーマが大好きで、よくマーマの思い出を話してくれた。マーマは優しくて、綺麗で――どんな声で話してくれたか、どんなふうに氷河を抱きしめてくれたか……。僕は、そんな氷河が羨ましかった。ちょっと悲しくもありましたけど。僕には、あまり母親の記憶は残っていなかったので。僕だけでなく、城戸邸に集められた子供たちは ほとんどが母親の記憶のない子供たちばかりだったから、氷河はだんだんマーマのことを話さなくなりました。きっと僕たちのために――」 「君 「ええ。氷河は小さな頃から優しかった」 「……」 その氷河に あなたは何をしたのか。 たとえ彼が氷河の師であり、黄金聖闘士であっても、瞬はそう言って彼を責めていただろう。 彼が生きてさえいたら。 だが彼は死んでいるので――今更 反省されても後悔されても無意味だから――瞬は懸命に、自分が“本当に言いたいこと”を喉の奥に押しやったのである。 「あの子は笑わない子供だったのか」 「城戸邸に連れてこられた最初のうちは。でも、だんだん――時々 笑ってくれるようになりました」 「それはよかった」 「でも、僕たち、一緒にいられた時間は そんなに長くはありませんでしたから……。すぐに それぞれの修行地に送られて別れ別れになった。僕はアンドロメダ島、氷河は――」 「氷河は私のところにきた」 「ええ。氷河はシベリアではどんなふうだったんですか?」 聞いても楽しい答えは返ってこない。 シベリアでの氷河の様子をカミュに尋ねてしまってから、瞬は尋ねたことを後悔した。 彼がどんなふうに氷河を慈しみ育てたのか、そんな不愉快な話を聞かなければならない事態に、自分で自分を追い込んでしまったことを。 「この家にいた頃と同じだ。君たちと別れたせいで沈んでいて――いつも むすっとしていて、愛想もないし、私は なんて子供らしくない子供だと思ったものだ」 「笑わない?」 「徐々に笑うようになってくれたがね。あの子は、生きる場所が変わるたび、同じことを繰り返しているようだな。その場所に慣れるまでは警戒心の強い猫のように振舞う」 「でも、そこで出会った人に信頼を抱くようになると、今度は忠実な犬のように その信頼を捨てない」 「ははは。的確な表現だ」 カミュがまた、悪気なく 楽しそうな笑い声をあげる。 それが瞬の癇に障った。 「氷河が笑うようになったのは、あなたが氷河を慈しんでくださったからだと思います。氷河に、その気持ちが通じたから」 それが わかることが苛立たしい。 瞬の苛立ちに気付いた様子もなく、カミュは相変わらず 悪意のない善良な黄金聖闘士の姿と表情を保っていた。 「だといいが」 「そうに決まってます。でなかったら、十二宮での戦いのあと、氷河があんなに悲しむことはなかったでしょう」 カミュが初めて、目で見てとれるほど はっきりと暗い顔になる。 彼の瞼が翳りを帯びる様を見て、瞬の心臓は、細く鋭い針で刺し貫かれたような痛みに襲われた。 自分がこれほど意地悪な気持ちになるのは、嫉妬のせいなのか。 瞬は、悪意のないカミュを嫌う以上に、悪意の塊りのような自分自身を嫌いになってしまいそうだった。 「すみません」 仲間が彼を 彼は氷河が愛した人、氷河の大切な師だった人なのだ。 氷河のために、瞬は彼に謝罪した。 「謝る必要はない。私は、アテナを見誤った愚かな黄金聖闘士だ。私はあの時、なぜ氷河の言葉を信じなかったのか――」 「え……」 彼の言葉を聞いて、瞬は一瞬、自分の中にあった悔いを忘れた。 彼の後悔が、意外に思われたから。 彼は彼の愚かさに気付いておらず、それどころか、自分を 信念を曲げずに最後まで戦い抜いた だが、どうやらそうではなかったらしい。 そうではなかったらしいことが、瞬の気持ちを少しだけ、攻撃的でなくした。 「それは、だって、急に見知らぬ少女を連れてこられて、彼女がアテナだと言われたわけですから。あなたは慎重だっただけなのでしょう」 「慰めは結構。私は頑迷で、柔軟性に欠けていた。そして、取り返しのつかない過ちを犯した。その報いとして、命を落とした。私が今 氷河に会うことができないのは、言ってみれば自業自得だ」 「――」 彼は、彼の犯した愚行を正しく愚行と自覚している。 となれば、当然 彼は彼の自業自得を正しく苦しんでいるはず。 瞬は、初めて彼に憐憫の情を抱くことになった。 形ばかりでも 彼の過ちを否定してやりたいと思ったのだが、そうするための理屈を思いつけない。 瞬は結局、彼の傷に それ以上触れない道を選んだ。 「でも、だからといって、あなたが氷河を愛してくれていたことに変わりはありません」 それは瞬にも疑いようのない事実だった。 そして、カミュ自身にも否定できない事実のはずだった。 現に彼は、瞬が告げた その言葉を否定しなかった。 ただし、『その通りだ』と認めることもしなかったが。 彼は、アンドロメダ座の聖闘士の目を見詰め、感心したように低い唸り声を洩らした。 「なるほど。君は、無心に咲いている花のような姿をしているのに、実に聡明だ。その上、強い自制心も備えているようだ。言わずにいた方がいいと思うことは言わずにいることができる」 カミュは、暗に『“本当に言いたいこと”は他にあるのだろう?』と言っているようだった。 瞬の自制心を皮肉るように。 あるいは責めるように。 もしかしたら彼は 彼の弟子の仲間が彼に向けている憎しみに気付いているのかと、瞬は疑ったのである。 そのこと自体は構わない。 瞬が恐れているのは、それが氷河の知るところとなることだった。 そんなことになったら、氷河は、彼の仲間と彼の師のために嘆きを深くするだろう。 幸いカミュは、アンドロメダ座の聖闘士の悪意を 彼の弟子に告げ口するつもりはないようだったが。 告げ口するどころか――彼は その場から去る意思を瞬に知らせてきた。 「ああ、君の眠る時間を奪ってしまう。私はそろそろ消えなければ」 「えっ」 瞬はまだ、カミュが氷河に本当に伝えたいことがわからないままだったので、彼の言葉に ひどく慌てたのである。 水瓶座の黄金聖闘士が“氷河に本当に伝えたいこと”――おそらく氷河にとって有益な情報。 瞬は、それを知らなければならなかった、 瞬の驚き慌てる様を見て、彼がすぐに首を横に振る。 彼は“氷河に本当に伝えたいこと”を伝えることを諦めたわけではないようだった。 「明日も来ていいか。私は、ぜひ、私が“本当に伝えたいこと”を君に気付いてもらいたいのだ」 「はい」 カミュのその言葉に安堵して、瞬が頷く。 「私のことは氷河には言わずにいてくれ」 「わかりました」 それは瞬の望みとも合致すること。 瞬は、再び彼に頷いた。 それで彼は 今夜は消えてくれるのだろうと、瞬は思ったのだが、彼は瞬の首肯を確かめても、すぐには その姿を消さなかった。 しばしの沈黙のあと、 「アンドロメダ。君は私が嫌いなのか」 と尋ねてくる。 嘘を言っても仕方がないので、瞬は、 「ええ」 と答えた。 今夜 初めて言葉を交わしたような相手に嫌われようが疎まれようが、彼は傷付くこともないだろう。 彼にとってアンドロメダ座の聖闘士は、彼の大切な弟子の仲間であること以外、どんな意味も価値もない青銅聖闘士風情にすぎないのだ。 そう考えて。 彼は実際、瞬の言葉に傷付いたような素振りは見せなかった。 それどころか、彼は、 「そうだろうな。よかった」 と言って、瞬の前で嬉しそうに微笑んでみせた。 「……」 その言葉と微笑が全く意想外のことだったので、瞬は瞳を見開き、そして息を呑んだのである。 それはいったいどういう意味なのかと、瞬が尋ねる前に、瞬の前からカミュの姿は消えてしまっていた。 |