「男の格好をしてる時は、『シュン』って呼んで。アンドロメダ姫なんて、呼びにくいでしょ」 そう言って 男のアンドロメダ姫が語り始めた彼の事情は、エティオピアという国を ほとんど知らなかったヒョウガには、実に奇矯で奇天烈で突飛なものだった。 それは、アンドロメダ姫ことシュンの身の上話であると同時に、エティオピアという国の身の上話とも言える話だったかもしれない。 メデューサの首を手に入れてからでないとエティオピアに行っても意味がないと考え、故国アルゴスから グライアイの魔女たちの住むゴルゴーンの国に直行したヒョウガには、シュンの話のほとんどが 初めて知ることばかり。 そもそもヒョウガは、エティオピアが 代々 女王が治める国だということすら知らずにいたのだ。 もちろん、ヒョウガが知らなかっただけで――気にしていなかっただけで――事実は事実でしかありえないのだが。 エティオピアは代々 女王が治めている国、女王が治めている限り繁栄し続けると言われている国――なのだそうだった。 今の国王も数年前に亡くなったカシオペア女王の入り婿で、アンドロメダ姫が成人し王位に就くまでの 繋ぎの王にすぎないらしい。 アンドロメダ姫が夫を迎えれば、即座に現国王は退位し、アンドロメダ姫が女王に即位、同時に その夫が共同統治者としてエティオピアの王位――正確には、副王の地位――を継ぐことになっているのだそうだった。 「それは……亡きカシオペア女王が、王位継承をつつがなく行なうために、本当は男子だった子供を女子と偽ったということか」 「ええ。まあ、そういうことです」 シュンは、当然のことだろうが、実に嬉しくなさそうにヒョウガの質問に頷いた。 ヒョウガなどは、大切な息子の人生を偽りに満ちたものにしないために、女でないと王位に就けないという国法を変えればいいだけのことなのではないかと思ったのだが、事は そう簡単なものではないらしい。 「エティオピアには――建国の時に、統治者が女王でないと国に苦難が降りかかるという神託があったそうで、国民は今でもそれを信じているの。今だって、親政していないだけで、エティオピアの形式上の王は僕ということになってる」 どちらにしても現在のエティオピア王国は女王に治められていないのだが、ともかくエティオピアの国民は、アンドロメダ姫が夫を得て、1日でも早く女王としての親政を始めることを願っている――のだそうだった。 「その……母には父と結婚する前から愛していた人がいて、その人との間には子供もいたの。でも、母の恋人は身分の低い兵士で――彼との間に子供を成しても、二人の結婚は許されなかった。その子が女の子だったら、また状況は変わっていたかもしれないけど、そうではなかったから……」 「それは――その子が女の子だったら、カシオペア女王は自分の恋を成就できていたかもしれないということか? 他の国では考えられないことだぞ。女系王家というのは すさまじいものだな。いや、哀れというべきか……」 「哀れ……そうですね。そうかもしれない。母の恋人は子供と一緒に王宮から追放され、母は泣く泣く、エティオピアの有力貴族の一人だった僕の父と結婚した。そして、僕が生まれた。僕は難産の末に生まれた子供で、母は次の子は望めないだろうと言われたの。国のため、国民のため、血統のいい後継者を得るために、母は自分の恋と恋人と子供を諦めたのに、結局 すべては裏目に出た――」 「で、カシオペア女王は、国のために 王子を王女と偽ったわけか。幸い、生まれた王子はびっくりするほど美しい子供だった」 責める口調ではなく同情的な口調で、ヒョウガは呟いた。 カシオペア女王の気持ちが わからないでもなかったから。 恋と恋人と実子を 国のために諦めたのに、そうまでして結局 何も得られなかった――のでは、彼女の犠牲の意味、彼女の苦悩の意味、悲しみの意味、人生の意味が失われてしまう。 そんなことは、一国の女王でなくても、受け入れ難いことだろう。 「僕は――自分に父親違いの兄がいることを、2年前まで知らなかった。2年前、母が死ぬ時に、そのことを 僕にこっそり打ち明けてくれて――僕は父には内緒で兄を探し、王宮に迎え入れたんだ。兄のお父上は、母が亡くなる数日前に亡くなってた。僕には、まるで示し合わせでもしたかのような二人の死が、愛し合っていながら 別れを余儀なくされた恋人たちが、人間の法や しきたりの力の及ばないところで結ばれようとした心がもたらしたことみたいに思えたよ。僕の父が母に愛されていなかったことは つらいけど、こればっかりは……法も国も、人の心だけは変えられないから。僕の父は、血筋と人がいいことだけが取りえの人だし――」 シュンが、その瞼を伏せて、悲しそうに呟く。 血筋と人がいいことだけが取りえの父親と、自分の父以外の人を思い続けていた母親を、それでもシュンが愛していることが感じられて、ヒョウガは一瞬間、何物にも変えられない“人の心”というものを、強く憎んでしまったのである。 それは仕方のないことかもしれないが、悲しいことでもある。 「だからといって、おまえが両親に愛されていなかったということにはならないだろう」 少しでも この哀れな姫君(改め王子様)の傷心を癒し慰めたいという思いに突き動かされて、ヒョウガはシュンにそう言った。 だが、シュンが悲しんでいるのは、自分が愛し合う両親の間に望まれて生まれてきた子供ではないということではなかったらしい。 「あなた、綺麗なだけじゃなく優しいね」 いかにも無理をして作ったとわかる微笑を浮かべ、小さな声で そう呟いてから、シュンは縦にとも横にともなく首を振った。 「僕は、愛してもらった。父にも母にも。ただ、僕の父は――母が好きだったの。それこそ女神に対するように母を敬愛していた。母が亡くなった今も、父は母を思い続けてて――それが ちょっと悲しいだけ」 「……」 このシュンの実母なら、当然美貌の持ち主だったのだろう。 女王として一国を治めていたのなら、聡明でもあったに違いない。 一国の王という地位を自分に与えてくれた女性だから――という理由を抜きにしても、シュンの父が その妻を愛する理由は いくらでもあったのだ。 しかし、彼女が本当に愛していたのは、別の男だった――。 「切ない話だな」 シュンの父も母も、おそらくはシュンの母が愛した男も、望んでいたのは幸せになることで、誰かを不幸にすることではなかったはずである。 誰もが幸せになるために、そして、愛する人の幸せを願って 懸命に生きただけなのに、その結果は あまりに切なく、やるせない。 ヒョウガは、シュンのための慰撫の言葉も思いつけなかった。 溜め息と共に、ただ『切ない』と言うことしかできなかった。 ヒョウガの溜め息につられたように、シュンがしょんぼりと肩を落とし、その瞼を伏せる。 だが、シュンは、かなり前向きな少女――もとい、少年――であるらしく、すぐに その顔をあげ、ヒョウガを見詰めてきた。 「同じ男子なら、兄の方が年上だし、兄のこれまでの苦労に報いるためにも、僕は兄にエティオピアの王位を譲りたいの」 「おまえの兄も王女と偽れるほどの美形なのか?」 ヒョウガが尋ねると、シュンは なぜか 一瞬呆けた顔になり、それから盛大に吹き出した。 懸命に笑いを こらえながら、首を横に振る。 「それは無理だと思うよ。僕の兄さんは とても男らしい外見をしてるから。兄さんには今、王女付きの近衛の兵の職務に就いてもらってるんだけど、近習の兵士用の刺繍が施された衣装や宝石の飾りがついた剣でさえ、惰弱の極みだって言ってるくらいで」 それでは打つ手がないではないかと、ヒョウガはシュンに言おうとした。 彼がそうすることができなかったのは、ヒョウガの目の前で、シュンが まるで我が子の成長を喜ぶ母親のように温かい笑みを浮かべたから。 こんなに優しい笑みを浮かべることのできる人間が本当に男なのかと、大いに戸惑ったからだった。 「兄さんを王女に仕立て上げるのは、どう考えても無理だよ。でも、僕には、半年だけ年上の従姉がいて、その二人が恋に落ちた――」 「へ?」 「その従姉はエスメラルダっていう名の姫君で、もちろん、エティオピア王家の血を引いている。その上 エスメラルダは、僕が男子とばれそうになるたびに身代わりを務めてくれていたくらい、僕にそっくりなの」 「……」 シュンが軽快な口調で語る話を聞いていたヒョウガの眉が 徐々に引きつっていったのは、自分の弟にそっくりな少女に恋をする兄というものを、どこかおかしいのではないかと疑ったからではなかった。 もちろん疑いはしたのだが、それだけではなく――それ以上に、シュンと同じ貌を持つ人間が この地上に もう一人いるというシュンの話が、ヒョウガには信じ難かったのだ。 否、ヒョウガはむしろ その話を信じたくなかったのかもしれない。 ヒョウガはシュンに、他の誰にも他の何にも感じたことのない種類の“可愛さ”を感じ始めていたから。 シュンは他の誰とも違っていなければならない。 シュンは特別な人間でなければならない。 ヒョウガは、そういう気持ちに囚われ始めていた。 「僕の秘密は、僕の他には、母とエスメラルダしか知らなかったの。母が亡くなった今、その秘密を知ってるのは僕とエスメラルダだけ。そのエスメラルダが兄と恋に落ちて――僕は、これは天の采配だと思ったんだ。兄がエティオピアの王位に就くことを、神々が望んでいるんだって」 「天の采配?」 なぜ そういうことになるのかが、ヒョウガは今ひとつ合点がいかなかったのである。 アンドロメダ姫によく似た王族の姫と、表向きは一介の兵士にすぎないことになっているシュンの兄が恋に落ちた。 二人が めでたく結ばれたとしても、それは決して シュンの兄がエティオピアの王位に就く正当な理由にはならないではないか。 「だから!」 自分の考えをヒョウガが理解してくれていないことを見てとって、シュンはじれったそうに肩を怒らせた。 「だから、エスメラルダにアンドロメダ姫になってもらうの! そして、兄と結婚して、二人にエティオピアを治めてもらう。そうなれば、僕は王女の振りをしなくてよくなって、男子として生きていけるようになる。いいこと尽くめでしょう?」 「それはまあ……そうできるものなら」 そうできるものなら、確かにそれは“いいこと尽くめ”の事態と言えるかもしれない。 だが、それは本当に実現可能なことなのか。 シュンの計画には 色々と無理がありすぎる――ように、ヒョウガには感じられた。 その無理の第一は、何といっても、アンドロメダ姫になったエスメラルダ姫が ただの近習にすぎないシュンの兄と結ばれることができるのか――という問題だった。 エスメラルダ姫のままでいるなら――エティオピアの女王になる予定のないエスメラルダ姫のままでいたなら――それは可能なことなのかもしれない。 だが、エスメラルダ姫がアンドロメダ姫になれば、シュンの母がそうだったように、彼女は もっと身分の高い男との結婚を強いられることになるのではないか。 彼女はシュンの母の悲劇を繰り返すことになるのではないか――。 そうなる可能性に、シュンは考え及んでいるのか。 自分の計画に落ち度などないと信じているようなシュンの表情に、ヒョウガは多大なる不安を覚えてしまったのである。 「エスメラルダは、でも、そういう権力欲って全然ないんだよ。だから ここは強硬手段に出るしかないって思って、僕は誰にも内緒で 着々と城を出る準備をしてたんだ。そんな時に、僕が男だってことを知らない父が、僕を それは、ヒョウガもよく知っていた。 知っているから、ヒョウガは、メデューサの首を手に入れることを決意して、故国アルゴスから メデューサの居場所を知っているグライアイの魔女のいる、このゴルゴーンの国までやってきたのだ。 海神ポセイドンの呪いの言葉を聞いて慌てふためいたアンドロメダ姫の父ケペウスは、すぐにデルポイの予言所に向かい、予言の神の神託を仰いだ。 そこで下された神託が、エティオピアに、メデューサの首で海魔ケイトスを退治する英雄が現われるだろうというもの。 予言の神からの神託に希望を見い出したエティオピア王ケペウスは、その英雄をアンドロメダ姫の夫として迎え、女王と共にエティオピアを治める権利を与えるという宣言を出したのだ。 「最初は、どうして そんな馬鹿なことして僕の計画を台無しにしてくれるのかって、父をちょっとだけ恨んだの。でも、すぐに考え直した。これはエティオピアに降りかかった災難じゃなく、オリュンポスの神々が僕に与えてくれた祝福なんじゃないかって。僕はそんな英雄と結婚なんかできないでしょ。なんていったって、僕は男なんだから。だから僕は、普通に頼んだらエティオピアの女王になんか絶対になってくれないエスメラルダに、アンドロメダ姫になってって頼むことができる。エスメラルダは優しいから、ほんとに優しいから、僕の命を救うために僕の身代わりになってくれるよ。でも、エスメラルダは海魔ケイトスに命を奪われたりしない。そんなことは僕がさせない。僕は必ずメデューサの首を手に入れて、それを兄さんに渡して、エスメラルダを救ってもらう。兄さんだって、ケイトスの生け贄に捧げられてるのがエスメラルダだって知れば、否やは言わない。兄さんは神託の英雄になって、エスメラルダの夫としてエティオピアに迎え入れられる。それですべては丸く収まるの。言うことなしの大団円だよ」 シュンの杜撰な計画が、予言の神の神託によって完璧に近いものに補強されたのは事実だった。 シュンの計画を聞いたヒョウガが懸念した考慮不足は、確かに その神託によって 案じる必要のない事柄になった。 デルポイの神託はもちろん、海神ポセイドンがエティオピアに下した災難すら、偽りの性で生きることを強いられていた不幸なアンドロメダ姫への オリュンポスの神々による祝福なのかもしれない――というシュンの考えを頭から否定することは、ヒョウガにもできなかった。 だが、ただ一つのほころびもなく完璧なのは“計画”だけである。 その完璧な計画を現実のものとするためには、取り除かなければならない障害が多すぎるのではないかと、ヒョウガは思ったのである。 その障害の最たるものは、メデューサの首の確保。 その姿を見た者すべてを物言わぬ石に変えてしまうというメデューサの恐るべき力が、最大の障害と言えるだろう。 メデューサは、少し腕に覚えがある程度の男に成敗できるような怪物ではない。 かなり腕に覚えのあるヒョウガでも、この冒険に挑む決意をするには、それなりの覚悟を要した。 だというのに、シュンは、メデューサの首は簡単に自分のものになると信じ、それを前提に“完璧な”計画を立てているのだ。 「それで、おまえは、自分でメデューサの首を手に入れようとして城を抜け出てきたのか」 「どこの誰とも知れない英雄の出現なんて待ってられないもの。そんな人に出てこられても困る。僕は同性の夫を持つ気なんかありません。それに、僕は自分の命くらい自分で守りたい。エスメラルダの命も、エスメラルダと兄さんの幸福も、僕が守りたい――」 「その気持ちは わからないでもないがな。なら、おまえの兄が自分でメデューサの首を手に入れればいいじゃないか。その方が、まだ可能性がある。つい昨日まで 安全で贅沢な お城の奥で お姫様をしていたおまえが、その細腕でメデューサを倒すことができると、おまえは本気で思っているのか」 「僕、エスメラルダに僕の身代わりを押しつけて 城を抜け出てきたの。兄さんにはエスメラルダの側にいてもらわなきゃ。エスメラルダは僕みたいに図太くないから、側にいて支えてくれる人が必要なんだよ」 自分が図太い人間だということは、シュンも自覚しているらしい。 ついでに、自分が非力で無茶で無謀で無鉄砲で向こう見ずなことも自覚していてくれたら なおよかったのにと、ヒョウガは心の底から思った。 それは、シュンが既に城を抜け出て ここにいる今となっては遅きに過ぎる、願っても詮無い願いだったが。 「とにかく、僕の考えた計画がいちばんいいの。アンドロメダになったエスメラルダと、兄さんが結婚して、エティオピアを治める。王家の血は守られるし、神託も実行されるし、僕は兄さんの苦労に報いることができて、国民を騙さなくてもよくなって、僕自身の自由も手に入れられるんだ」 「まあ、おまえの その計画が完璧に遂行されるのなら、おまえにとっては それがいちばんいいことなんだろうが」 「でしょう? なのに、あなたは僕からメデューサの首を横取りしようとしてるんだ。ひどいよ!」 「ひどい――って……」 ヒョウガの皮肉が、シュンには通じなかったらしい。 ヒョウガは、『後から来て横取りしようとしているのは、おまえの方だろう』と、シュンに言い返してやりたかったのである。 『ひどいのはどっちだ』と。 ヒョウガがシュンにそう言わなかったのは、彼が遅ればせながら、 「いや。ちょっと待て。てことは、俺がアンドロメダ姫を助けても、意味はないということになるのか?」 ということに気付いたからだった。 シュンが、あっけらかんとした顔で、 「僕は男だし、エスメラルダには他に好きな人がいるし、そういうことになるかな」 と答えてくる。 業腹なことだが、シュンが言うことは、ヒョウガも認め受け入れざるを得ない事実だった。 ここでメデューサの首をシュンに横取りされずに済んでも、結果は ヒョウガにとって あまり芳しいことにはならないのだ。 |