「おまえ、紫龍のことが嫌いなのかよ」
「そんなわけないでしょ。でも、僕は そんなつもりで紫龍を助けたわけじゃないし、こんなことになるなんて考えたこともなかったんだ……」
「そりゃそーだ」
瞬の言葉に星矢は頷いた――らしかった。
もちろん、瞬は報恩を期待して紫龍の命を救ったわけではない。
そんなことは、氷河にもわかっていた。
おそらく紫龍もわかっているだろう。
死にかけた仲間の姿を目の当たりにしたら、瞬は それが紫龍でなくても――氷河であっても星矢であっても、同じように命をかけて仲間を救おうとしただろう。
当然、“こんなことになる”のは、瞬には慮外のことであったに違いない。
だが、瞬が仲間のために為した行為は“こんなこと”を現出させてしまったのだ。
瞬には慮外のことでも、これは紛う方なき現実だった。

「紫龍は生真面目で、融通がきかない奴だからさー。おまえに振られたら、その傷を一生引きずるし 一生、他の奴を好きになったりしないと思うぞ。これまで考えたこともなかったんなら、これから考えてやればいい。逃げたりしないで、ちゃんと考えてやれよな。紫龍は本気でおまえを好きになったに決まってるんだから」
「紫龍が冗談で そんなこと言い出すような人じゃないことはわかってるよ。紫龍が本気で言ってくれてるってことは、ちゃんとわかってる」
「うん」

ドアに阻まれて、瞬の表情は見えない。
だが、だからこそ かえって明瞭に、氷河には感じ取ることができたのである。
『紫龍は本気だ』と告げる瞬の声が 艶を帯び、僅かに上擦っていることを。
瞬は、紫龍の好意を迷惑に思ってはいない。
それどころか、もしかしたら、自分に向けられる紫龍の好意を慮外の幸運と感じている――ということが。
氷河は、自分と瞬を隔てているドアの前で、音がするほど 強く奥歯を噛みしめた。
と、そこに。

「氷河、そんなところで何をしているんだ」
氷河の上に、彼が今 最も会いたくない男の 腹立たしいほど 穏やかで平和な声が降ってくる。
「あ、いや」
氷河は慌てて、自分の怒りの表情と怒りの小宇宙を消し去った。
自分が龍座の聖闘士に 尋常でない憤りを覚えていることを 紫龍に知られてはならない――と、氷河は思ったのである。
この怒りを、自分以外の人間に知られることは得策ではない――と。
だが、怒りは抑えられない。
抑えようとしても、腹の底から新たな怒りが次から次に湧き起こってくる。
その怒りを紫龍に気付かせないために、氷河はドアを押し開けてラウンジの中に入っていった。

「瞬……」
そこに自分が恋を告白したばかりの相手がいることに気付き、紫龍は、氷河の横で 僅かに戸惑った様子を見せた。
「あ……」
そんな紫龍を見て、瞬が ぽっと頬を上気させる。
その瞬間に、氷河の怒りと苛立ちは頂点に達した。
そして、それは一瞬で凍りついた。
そんな自分に、氷河は戸惑ったのである。
それは氷河には初めての経験だった。
怒りというものは熱く燃え上がり、その激しさが増せば いつかは爆発するもの。
そう彼は思っていたのだ――そういう怒りをしか知らなかった。

強すぎる怒りが、こんなにも人の心を冷ややかに冷静にするものだったとは。
それ以上 近付くでもなく、だが 二人の間にある距離を広げようともせず、言葉も交わさず、視線を合わせることもなく、ただ その意識だけを強く相手に向けている瞬と紫龍を、氷河は無言で見詰めていた。
冷ややかな視線、冷ややかな心で。
そんな氷河の側に星矢が こそこそと近寄ってきて、低い声で注進してくる。
「紫龍が瞬に告白したんだってよ。瞬って ほだされやすいから、あの二人がくっつくのは時間の問題だな」
「……」

星矢は、いかなる根拠もなく、ただの勘で言ってる。
だが、星矢が言うように、それが時間の問題だということは、氷河にもわかっていた。
自分に好意を抱いてくれている相手を拒むことは、瞬にはできない。
そして、瞬にとって紫龍は、命をかけた戦いを共に戦ってきた大切な仲間。
その上、義に篤く誠実な紫龍の人柄も知っている。
瞬にとって紫龍は、拒み傷付けることなど思いもよらない相手なのだ。
瞬は確実に、紫龍にほだされるだろう。
誠心誠意をもって働きかけられたなら、瞬は必ず その心を動かされる。
否、既に瞬の心は紫龍に傾いている。
そして、それが瞬の意思であり、望みであるなら、誰にも瞬の心を変えることはできないのだ。

紫龍が瞬に恋情を抱くようになる以前から――紫龍より早く、紫龍に先んじて、白鳥座の聖闘士が瞬への恋に支配されていた――という事実は、瞬の恋を妨げる権利を 氷河に与えるものではない。
瞬の心を変える力にはならない。
それがわかるから――氷河の心と身体は なお一層 冷たい憤りに支配されていったのだった。






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