瞬は、それが紫龍だから命をかけて彼を救ったわけではない。
紫龍でなくても、瞬はそうしただろう。
紫龍が瞬に命を救われることさえなかったら、紫龍にとって瞬は今でもただの・・・大切な仲間だったろう。
紫龍が瞬に命を救われることさえなかったら、紫龍は、瞬を特別に大切な仲間として見るようにはならず、瞬が ほだされるような働きかけもしなかった。
紫龍が瞬に命を救われることさえなかったら、二人の恋は そもそも生まれることはなかったのだ。

十二宮の戦いを、やり直すことができたらどんなにいいか。
自室に帰り、更けていく夜の中で、氷河は そう思った。
真夜中だというのに、冷ややかな怒りのために、眠りに就くことができない。
運命に対する この怒りが胸の中にある限り、自分は一生 眠りという安らぎから見放されることになるのではないかと、氷河は半ば本気で思っていた。

今夜は、時の進み方が異様に遅い。
氷河が、自分がもう10年も この怒りの中で目覚め続けているのではないかという、馬鹿げた疑いを抱き始めた時だった。
「おまえの願いを叶えてやろうか」
という、低く暗く重い声が氷河の耳に届けられたのは。
否、もしかしたら それは“声”ではなかったかもしれない。
もし それが“声”だったとしたら、それは氷河の脳に直接響いてくる声だった。

「誰だ」
声に出して誰何すいかしたつもりだったが、氷河はすぐに『声を発した』という自分の認知が正しいものなのかどうかを疑うことになったのである。
自分は声を発することはなく胸中で そう問うた――そんな気がして。
それが声を用いての会話だったのか、それとも心話と呼ぶべきものだったのかは、氷河にはわからなかった。
ただ、氷河と その低く暗く重い声の主は“言葉”を交わすことができた――それだけは厳然たる事実だった。

不吉に謎めいた声の主は、自分を 時の神クロノスと名乗った。
オリュンポスの神々が生まれる はるか以前、この世界が生まれた時、混沌カウスの中から生まれた原初の神だと。
オリュンポスの神々も人間も、それどころか この世界そのものを生んだ神。
偉大すぎ巨大すぎて 誰にも知覚できない存在なのだと。

「おまえの願いを叶えてやろう。おまえは聖域で行なわれた あの戦いをやり直したいんだろう?」
「だったらどうだというんだ。そんなことができるわけが――」
「余は時間を自由に操ることができる。人と人の心を操ることはできないが、時間は余の意思通りに流れ、止まり、逆流し、逆巻く」
「たとえ どれほど力のある神でも、そんなことができるはずがない」
「余には それができる」
時の神クロノスは、至極あっさりと そう言った。
まるで時を操ることのできる自分の力を詰まらぬものと思っているかのように軽々しく。

だが、時を操る力などというものが、たとえ神にでも持ち得るものだろうか。
氷河は、自分は夢を見ているのだと思ったのである。
声を出さずに会話が成立しているように感じるのも、それが夢の中の出来事なのであれば、さして奇妙なことではない。
ならば――これが夢の中での出来事なのであれば、何を言っても何をしても許されるだろう。
そう考えて、氷河はクロノスに問うたのである。
「オリュンポスの神々より偉大で巨大な神サマとやらが俺の望みを叶えて、それで、貴様にどんな得があるというんだ?」
「得? さて……」

まるで自分の意思を持つ人間のように、時の神が言葉を淀ませる。
短い沈黙の“時”のあと、クロノスはまた、自分の意思を持つ人間のように氷河に答えてきた。
「そうだな。おまえの願いを叶えることは、人間の運命を簡単に変えることのできる余の力を証明することになる。そして、余は、人間の存在の卑小や貪欲や醜悪を見て、悦に入ることができる。それが余の“得”かな」
「悦に入る? それだけか」
「それだけだ。余には――時には、“世界”のあらゆる存在の運命を支配する力がある。その事実を確かめて、余は余の力に満足し、悦に入る。それだけだ。それだけのことが、余には楽しい。おまえは、真に偉大な神が誰であるのかを知り、余の力を恐れ震えながら一生を過ごすことになるだろう。あるいは、余に感謝して一生を生きるか。いずれにしても、これほど楽しいことはない」

馬鹿馬鹿しい――と、氷河は思ったのである。
瞬を失いかけているからといって、自分は何と馬鹿馬鹿しく壮大な夢を見ているのか――と。
「やれるものなら、やってみろ」
そう言って、氷河は、オリュンポスの神々より巨大で偉大な神を鼻で笑った。






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