その前日まで、氷河はシベリアに赴く予定があるような話はしていなかった。 特にシベリアを懐かしむ様子も見せていなかった。 その氷河が なぜ急に――本当に突然――シベリアに帰ると言い出し、実際に帰ってしまったのか。 もしかしたら、昨夜、気付かぬうちに 自分は氷河の気に障るようなことをしてしまったのではないか。 他に、突然 氷河がシベリアに帰ると言い出すことになった きっかけが思いつかず、瞬は 氷河のいなくなってしまった城戸邸で 鬱々とした時間を過ごしていた。 考えても詮無いことと思い、何か別のことを考えて気を紛らせようとも思ったのだが、適当な“別のこと”を思いつけない。 瞬が その奇妙なものに気付いたのは、氷河がシベリアに発った その日、彼が今ここにいない理由を半日近く考えて過ごしたあとだった。 それは手紙―― 一通の封書だった。 ラウンジのセンターテーブルに置かれた桜色の封筒。 奇異に思って手に取る。 手紙には しっかり封がされていたが、宛名も差出人の名も書かれていなかった。 「こんな手紙、いつのまに……」 シベリアに向かう氷河を見送って玄関からラウンジに戻ってきた時、テーブルの上にそんなものはなかった。 その後、自室に戻ったり図書室に足を向けたりして 幾度かラウンジを出ることはしたが、いったい いつ、どのタイミングで その手紙がラウンジに入り込んだのか、瞬は思い出せなかった――気付いていなかった。 ラウンジといいながら、そこは青銅聖闘士たち専用の居間のような部屋だった。 氷河が城戸邸にいない今、このラウンジを使うのは、瞬の他には星矢と紫龍しかいない。 青銅聖闘士たちの他に そこに入室することがあるのは、城戸邸のメイドたちと、せいぜい この邸の家主くらいのものである。 「誰が置いたのかな……」 そして、いったい誰のために? 瞬が首をかしげた時、ちょうど星矢と紫龍がラウンジに入ってきたので、瞬は彼等に訊いてみたのである。 「ここに この手紙を置いたのは星矢たち?」 と。 残念ながら、彼等は その手紙を、瞬以上に奇異なものを見る目で見詰めてきたが。 「手紙? んなもんが俺たち宛てに来るはずないだろ。俺たちが手紙なんか出すことは なおさらない。誰宛てなんだよ」 「それが……宛名が書かれてないんだ」 「へ?」 奇妙な顔をして、星矢が瞬の側に歩み寄ってくる。 問題の手紙を瞬から手渡された星矢は、表を見、裏面を見、瞬の言葉が事実であることを確かめると、おもむろに両の肩をすくめた。 「何だよ、これ。宛名がないんじゃ、どうしようもないじゃん。郵便局に戻すしかないんじゃないか」 再び瞬の手に戻ってきたそれを見て、紫龍が星矢の言に左右に首を振る。 「切手が貼られていない。これは郵便局から配達されたものではないだろう」 「じゃあ、これから宛名を書いて出そうとしていたのかな……」 「そう考える方が妥当かもしれないな。あるいは、誰かが郵便システムを使わずに直接 手紙を誰かに手渡そうとしていたか」 「桜色の封筒……どう考えても女性からの手紙だよね。沙織さんかな」 「それはないだろう。沙織さんは手紙を出す時には専用の封筒を使う。これは ごく普通の市販の封筒だ」 「あ、そっか……そうだね」 確かに紫龍の言う通り、これが沙織の手になる手紙であることは考えられなかった。 封筒の件もさることながら、それが私的なものであれ、グラード財団総帥の立場で書かれたものであれ、彼女は自分が書いた手紙を不特定多数の人間の目に触れる場所に置き忘れるような迂闊なことはしない女性だった。 「今時 年賀状でもないだろうし、寒中見舞いっていう感じでもないよね」 封筒には ほとんど厚みがない。 中に入っているのは、どう考えてもカードの類ではなく、便箋――それも ごく薄いものが せいぜい1、2枚、へたをすると一筆箋が1枚程度――である。 この手紙が 込み入った事務用件を伝えるために用意された手紙でないことは確実だった。 「じゃあ、いったい、誰が誰に――」 何といっても、手掛かりが少なすぎる。 この手紙が誰によって誰のために記されたものなのかを突きとめることは不可能と、瞬が諦めかけた時だった。 星矢が いつもの彼らしくなく、実に鋭い考察を彼の仲間たちに披露したのは。 「年賀状だの寒中見舞いだのって、おまえ、なに寝とぼけたこと言ってんだよ。ピンクの封筒だぜ、ピンク。ラブレターに決まってるだろ!」 「え? ラ……ラブレター……?」 決して寝とぼけていたわけではなかったのだが、星矢の提示した視点は、瞬には目からウロコが落ちる気持ちになるものだった。 「そうかもしれない……」 「へっ」 瞬が ふざけた響きのない声で そう呟くのを聞いて驚いたのは、それをラブレターと断じた星矢 その人だった。 実は星矢は、宛名のない その手紙をラブレターだと、120パーセント冗談で言ったつもりだったのだ。 だというのに、宛名の書かれていない手紙を手にして、瞬は至って真面目に、相当の覚悟を決めているような気配さえ漂わせて、 「この手紙、絶対に届けてあげなくちゃ!」 と言ってみせるのである。 自分の冗談を真に受けてしまったらしい瞬に、星矢は大いに戸惑った。 「と……届けるって、誰に?」 「もちろん、この手紙を出そうとしていた人か、この手紙を受け取るべき人にだよ。 「そ……そりゃ そうかもしれないけど、んなこと、俺たちに わかるわけないだろ。勝手に封を切って中身を見るわけにもいかないし」 「そんな失礼なことはしないけど、そんなことしなくても、この手紙に関わってる人はかなり絞り込めるでしょう。そもそも この屋敷に出入りする人間は全部記録されているんだし、この部屋に入れる人間は もっと限られてる。僕たちが差出人でないことは確かなんだから、あとは ここのメイドさんとか お掃除担当の人とか……他に ここに入れる人っているかな……?」 瞬はどうやら本気で 宛名のない手紙の差出人もしくは受取人を突きとめる気でいるらしい。 そんなことをして何の益があるのだと、星矢は呆れて首を横に振った。 「他には いないだろ。城戸邸のセキュリティシステムをかいくぐって 誰にも気付かれずに ここまで入り込むのは、普通の人間には まず無理な話だし。あ、でも、貴鬼みたいにテレポーテーションの能力を持ってる奴とか、他の特殊な能力を持ってる奴なら可能か……。貴鬼なら 俺たちに挨拶の一つもしてくだろうから――となると、これは敵からの果たし状か決闘状――」 「どうして そんな殺伐とした方に考えが向くの!」 ラブレターが、一転 果たし状。 その変わり身の早さに――この場合は、手紙ではなく、星矢の思考の――瞬が異議を唱えてくる。 半ば以上 本気で腹を立てているような瞬の様子に、星矢は軽い頭痛を覚えることになった。 「でも、そう考えれば辻褄が合うじゃん。宛先が書かれてないのも、特定の個人宛じゃなくアテナの聖闘士全員に向けたものだからでさ」 「そんな……。果たし状だの決闘状だのを、こんな綺麗な桜色の封筒に入れたりなんかする人がいるはずないでしょう。だいいち、この手紙がラブレターだって 最初に言ったのは星矢じゃない!」 『まさか そんな冗談を真に受ける おめでたい人間が アテナの聖闘士の中にいるとは思わなかったんだ!』とは、口が裂けても言えない。 もちろん星矢は賢明な沈黙を守ったのである。 本当のことを言って 瞬を怒らせるのが恐いから――というのではない。 そうではなく、むしろ瞬に泣かれるのが恐かったから。 この宛名のない手紙を必ず本来の所有者に手渡すのだという決意を示す瞬の声と眼差しには、それほどの――尋常でないほど必死の思いが込められていたのだ。 |