彼は、教皇の間のある教皇殿の一室を、牢代わりに与えられていた。
さほど広くはないが、陽光がふんだんに降り注ぐ 明るく清潔な部屋である。
ローマ皇帝の宮殿の部屋のように無意味なほど過剰な装飾はないが、寝台や椅子等、必要な家具は すべて揃っており、彼のための着替えも用意されていた。
彼は ここに捕らわれた時のまま、埃にまみれた麻の長衣と 獣の匂いのする帯を脱ぐ気はないようだったが。

彼の“神”が敵視している神に囚われているというのに、彼は取り乱した様子を瞬に見せなかった。
だが、それは、彼が豪胆なのではなく、落ち着いているからでは更になく――アテナが言っていたように、ただ生気が失われているだけのように、瞬の目には映った。
あれほど陰鬱な気分にさせられる脅迫に日々さらされていたのでは 彼の生気のなさも当然のことだろうと、瞬は思ったのである。

「あなたは、あなたの神の言う、死後の――最後の審判というのを、本気で信じているの?」
『もちろん信じている』という答えが即座に返ってくるものと思っていたのに、彼は瞬に問われたことに答えを返してはこなかった。
“神”の命令に従って聖域に侵入してくるほどなのである。
彼は もちろん、彼の神が説く死後の世界の存在を信じているのだろう。
だが、もしかしたら、彼の心の中のどこかには『信じたくない』という思いがあるのではないかと、彼の無言に接して 瞬は思ったのである。

「死後の世界って、天上と地下とか、光の国と闇の国とかいうように明瞭に分かれているわけではないよ」
「知っているように話すんだな」
「知っているといえば知ってる……かな」
冥府の王には何度も世話・・になっている。
なぜ彼が、言ってみれば ありふれた一つの魂にすぎない自分にこだわるのかは、瞬自身にもわからなかったが、この地上に生を受けるたび、ハーデスは瞬に関わってきた。
おかげで瞬は何度も死者の国――冥界というものを、その目にしていたのである。
もちろん、聖域と冥界の戦いが再開されるたびにアテナの聖闘士たちが赴く冥界が、アテナの聖闘士たちに見せるために冥府の王によって作られた世界だということは、瞬にもわかっていた。
自分の知っている死後の世界が、真実の死者の世界だとは、瞬も信じてはいなかったのだが。

「人間には――人間は善だけの心でできている人も悪だけの心でできている人もいない。天の国に行ける人と 地獄に落ちる人を明快に分けることは不可能だよ」
「……それは、善悪 両方の心を持つ人間が想像する死後の世界だからで、真の死後の世界は――」
「あなたの神様は、それをあなたに見せてくれたの?」
「生きている人間に死後の世界を見ることはできない。まだ神の審判を受けていないんだから」
「じゃあ、そういう世界が本当にある証拠はないんだ」
「……」
彼がまた沈黙の答えを返してくる。
彼とて善悪両方の心を持つ人間。
であれば、彼にも、善悪両方の心を持つ人間に想像できる死後の世界しか想像できない――ということになる。
彼はただ、彼の神を信じるために、彼の神を信じようとしているだけなのかもしれなかった。

「あなたの信じる神様は 間違いを犯さず、善の心だけか悪の心だけでできているの? だとしたら、あなたの神様は 人間を理解することはできないよ。そして、あなたの神の審判の結果を、善悪両方の心を持つ人間は理解も納得もできない。あなたは そう思わない?」
「……」
「絶対のものを求めすぎるのは危険だよ」
「……」
「隣人を許し愛するのはいいことだと思う。でも、それは、隣人を傷付けたり苦しませたりしたくないという心が動機であるべきだ。自分が死後の世界で永劫の苦しみを負いたくないから隣人を愛するなんて、それはその人への本当の愛じゃない。自分を愛しているだけだよ」

アテナに『優しく』と言われていたのに――瞬は、まるで責めるように彼に畳みかけてしまっていた。
瞬は、信じるものを持っているはずの人間の 暗く陰鬱な表情や眼差しを、冷静な気持ちで見ていることができなかったのである。
彼は、今、誰が見ても不幸な人間そのものの姿をしていた。

「おまえは そうやって俺の中に 主への疑念を生じさせ、俺を堕落させようというのか。その手に乗るものか! 主を疑うことは罪だ。それこそ、最も重い罪。悪事は実際に行動にしなくても、考えただけで罪なんだ。俺は考えない。ただ信じる。邪神の徒などに騙されるものか!」
初めて彼から反駁らしい反駁を受けた時、だから瞬は むしろ ほっとしたのである。
彼はすべてを諦めて完全に無気力にはなっていないようだ――と。

「あなたは、あなたと一緒に聖域に乗り込んできた人たちのように死ぬことなく、あなたの神の言葉を信じていない僕たちのところにいるけど、あなたの神はそれを許してくれるの?」
「許さないだろう。だが、俺にはやらなければならないことがある。それを遂行できれば、あるいは……いや、わからない――」
彼の顔に、初めて はっきりした表情が浮かぶ。
その表情は、苦悶、苦渋としか言いようのないものだったが、しかし それらは彼が生きていること――彼の心や感情が まだ生きていることの証でもあるだろう。
瞬は少し嬉しくなって、更に彼を挑発した。

「あなたはあなたの神様のことを思って苦しんでいるのに、冷たい神様だね」
「俺に触るな、悪魔め!」
「僕に、あなたの神様の居どころを教えてくれませんか」
「その口を閉じろ! 退け、悪魔め!」
落ち着いていたのか 気力を失っていたのかは ともかく、最初のうちは冷静だった(あるいは冷静な振りをすることができていた)彼が その声を荒げることになったのは、彼の中に多少なりとも彼の神への疑いがあったからなのだろう。
彼が心底から彼の神を信じていたのなら、彼は瞬に何を言われても泰然としていられたはずなのだから。
そして彼は、彼の神を信じ切れずにいる自分に立腹しているのだ。
おそらくは、神を信じ切れないことを罪と考えて。

それはさておき、彼の怒声は部屋の外にまで響いてしまったのだろう。
こつこつと壁を叩く音が瞬の耳に届けられる。
瞬の説得が終わるのを待っている氷河が、部屋の外で、狂信の徒の大声と 入室を許されない自分自身に苛立っているらしい。
瞬が部屋の扉を開けると、そこには、不機嫌そうに肩を怒らせ、焦れたように唇と眉を引きつらせた氷河がいて、彼は いかにも室内に入りたそうな素振りを瞬に見せた。

「外にいて、おまえから お呼びがかかるのを待っているだけというのは間抜けだし、精神衛生上よろしくない。俺も同席させろ」
「でも、アテナは この件を僕に任せてくれたんだし、氷河は短気だから、きっと彼の言い分を聞いたら腹を立てて、彼を怒鳴りつけて恐がらせて、かえって何も喋ってくれなくなるようにしちゃうよ」
瞬自身、アテナに任された仕事を首尾よく こなしていたとは言い難い状況だったのだが、瞬は氷河の要求を却下した。
怒って黙らせてしまうより、怒らせて怒鳴り声をあげさせている方が、まだ情報を引き出せる可能性があるのだ。
苛立っている氷河を室内に入れるわけにはいかなかった。
が、氷河が気にかけていたのは、アテナの命令の成否とは全く違うことだったらしい。

「しかしだな! 力のない ただの人間でも、男は男だ。おまえと二人きりでいて、変な考えを起こさないとも限らないだろう!」
「なに馬鹿げた心配してるの。彼は何もしないよ。できない。氷河、僕を何だと思ってるの」
「……」
氷河とて、瞬が 指1本で岩を砕くこともできるアテナの聖闘士だということを忘れていたわけではなかっただろう。
『だが、これはそういう問題ではないのだ』と言いたげな顔を、氷河は作った。
そういう顔を作っただけで、氷河は思ったことを言葉にすることまではしなかったが。
遅ればせながら自分もアテナの聖闘士だということを思い出したのか、とりあえず氷河は アテナの聖闘士らしいことを、瞬に尋ねてきた。

「……白状しそうか?」
瞬が、首を横に振る。
「彼、僕のことを、自分を堕落させようとしてる悪魔だと思ってるみたい」
「それで、『退け、悪魔』か。『地上で最も清らか』と 神のお墨付きをもらっているおまえを 悪魔呼ばわりとは、身の程知らずというか、恐いもの知らずというか、見る目がない男だな」
自分以外の男に見る目がないことは、氷河には不愉快なことではないらしく、そう告げる氷河の口調は どことなく弾んでいた。
そんな氷河とは対照的に、瞬の声からは抑揚が消えていく。

「もう……。その『地上で最も清らか』っていうの、やめてよ。そんなことあるわけないでしょ。たとえば、あの人の信じてる神は、絶対にそんなこと言わない。きっと、あの人と同じように、僕を 悪魔だって言うんだ。同じ神なのに」
「“自称神”だろう。俺には、おまえを悪魔だなんて ぬかす奴が神だとは思えんな。おまえに敵対する者の中に正義があるとも思えん。あの男も、あの男が信じている自称神も、悪党に決まっている。悪を善だと信じ込んでいるだけの狂人だ」
「そんな単純なことのはずないでしょ。僕は、人間には善と悪の心があるものだから、彼の神様が言うように、死後の人間を二つに分けることはできないって、彼に言ってきたばかりなの。それを否定するようなことを氷河が言わないでよ」
「おまえの中にも悪の心があるのか」
「それは当然あるでしょう。僕は人間なんだから」

瞬は確信をもって断言したのだが、氷河は そんな瞬に疑いの目を向けてきた。
氷河のその疑いに瞬は反駁したかったのだが、今はそんなことを討議している時ではない。
部屋の中にいる男のために、瞬は その眉を曇らせた。
「彼の信じている神って、すごく危険なもののような気がするんだ。人間に絶対を求めすぎていて――人間は正しいことだけをして、正しいことだけを考えていなきゃだめだって言ってるようなんだ。どんな小さな悪事も、想像しただけで罪だと言ってるみたい。どんな悪いことを考えても、それを行動に移さなかったら、それは立派な理性の働きだと、僕は思うんだけど……。なのに、彼の神は、人間に絶対的な善であることを求めてる。よくないことを考えることさえ罪だと言われたら、人間は誰もが自分を罪人だと思わずにいられなくなるでしょう。そこに、死後 神の審判があるなんて言われてしまったら――そんなことを言う神を信じてしまったら……」
「民衆を支配しようとしている者たちには都合のいい教えだな。死後は天国にいけるから、生きている数十年間は あらゆる欲望を抑えて、どんな不遇も耐え忍び、従順でいろと命じることができる」
「そういう利用の仕方をする人も出てくるかもしれないね。自分の上に形式的に“神”を置くことを我慢すれば、その支配者は民衆を何も考えない従順な奴隷にしておくことができる――」

何も考えずにいれば、その者に死後の永遠の安寧を約束してくれる神。
それは何という危険な神だろう。
部屋の中にいる男が信じている神の真の恐ろしさに気付いて、瞬は大きく身体を震わせた。






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