皆さんが よく目にするものとは全く違う地図が使われている世界のお話です。 その世界には、氷の国と火の国という二つの大きな国がありました。 同じ大陸の北方に氷の国、南方に火の国。 二つの国のある大陸は 世界にまたがる とてもとても大きな大陸だったので、その北にある国と南にある国では気候が全く違います。 産業も、氷の国は鉱物資源や地下資源に恵まれている工業国、火の国は温暖な気候と 国民の気質も、氷の国の民は解けることを知らない氷雪のように閉鎖的で頑固、それに比して、火の国は暖かい陽光のように解放的で柔軟。 もちろん人間には、生まれ育った土地の全体的傾向の他に個体差というものがありますから、それは あくまでも大まかで相対的なものですけれどね。 氷の国と火の国は そんなふうに対照的な国でしたけれど、だからこそ 互いに足りない部分を補い合い協力し合うことによって、二つの国の民は豊かな暮らしをすることができていたのです。 その仲良しの国の間に、ちょっとした――いいえ、大変な事件が起きたのは10年前のことです。 二つの国の境には“命の山”という、それはそれは険しい山がそびえたっていました。 頂には立派な大理石の神殿が建っていて、神殿の中庭の中央には“命の花”が一輪だけ咲いています。 その花は死にかけた人間の命を救うことができる花。 病や怪我で死にかけている人間の心臓の上に その花を置くと、その人が その病や怪我を負わなかったら生きていられただろう歳まで、命を永らえさせることができる不思議な花なのです。 もちろん、その花の力は、誰もが使えるものではありません。 何といっても、命の山の頂に たった一輪しか咲いていない稀少な花なのですから。 その人はまず、心が清らかで、多くの人を幸福にする人でなければなりません。 そして、世界中のほとんどの人が、その人が生き続けることを望む場合にだけ、命の花の力は使うことができるのです。 命の花は1年中咲いていますが、1度手折ったら、1年間は次の花が咲きません。 その花を使っていいかどうかの裁定は、オリュンポスの神々によって話し合いが持たれたあと、最終的に掟の女神テミスが決定することになっていました。 とはいえ、人間界から『この人の命を救ってほしい』という願いがたくさん提出されてしまったら、それは神々に手間をかけさせることになりますから、神々に命の花の力を使う許可を求める場合には、更に事前に人間界で ある程度の話し合いが持たれるのが お約束になっていました。 いってみれば、談合ですね。 ですが、それは神々を煩わせるのは畏れ多いという気持ちから出たもので、特に法律に違反するものではないんですよ。 この命の花が必要になったことが10年前にありました。 氷の国の王妃様と火の国の王子様が 同時に命にかかわる病気にかかったのです。 それは命の力が少しずつ消えていって、最後には静かに衰弱死するという病気でした。 当然 人間界では 命の花の力の使用の許しを得るための話し合いが持たれたのですが、その話し合いは なかなか決議に至りませんでした。 それぞれの国にとって大切な人が、同時に瀕死の状態になるということは、それまで起こったことがなかったのです。 氷の国の王妃様は、とても美しく思い遣りに満ちた女性でした。 国民の暮らしをよくするために熱心に努められた方で、世界中の誰もが 氷の国の王妃様が生き延びることを望んでいました。 一方、火の国の王子様は、まだ4歳になったばかりの小さな子供でしたが、とても可愛らしい様子をしていて、幼い子供ながら その優しい気質は疑いようもなく、いずれ多くの民を幸せにするだろうと信じられていました。 もちろん、世界中の誰もが、小さな王子様が生き延びることを望んでいたのです。 ところで、氷の国と火の国がとても仲の良い国だということは、最初にお話しましたね。 命の力が消えていく病気にかかった王子様の名前は瞬といいましたが、実は、氷の国の王妃様は この瞬王子の名付け親だったのです。 友好国だった二つの国は、年に1度は王族の一人が相手の国を訪問し合う習慣があって、4年前に氷の国の王妃様が火の国を訪問していた時に、瞬王子は生まれたのでした。 火の国の当時の国王夫妻は、これは両国の友好を更に強いものにするための神々の計らいであるに違いないと考え、氷の国の王妃様に 生まれたばかりの王子の名付け親になってもらったのです。 生まれたばかりの王子様は、それはそれは可愛らしい王子様でしたので、氷の国の王妃様は もちろん大層喜んで、生まれたばかりの赤ちゃんの名付け親になったのでした。 氷の国の王妃様には その当時、瞬王子より2つ年上の氷河という名の王子様がいらっしゃいました。 二人の王子様たちが仲良く 両国の平和と幸福のために努めることになるようにと願いを込めて、氷の国の王妃様は 大切な お役目を お引き受けになったのです。 海に出ていた時の事故で、命の花の力を使う間もなく火の国の国王夫妻が亡くなってしまってからは、氷の国の王妃様は半年に1度は火の国を訪ねて、瞬王子の成長を見守り続けていました。 氷の国と火の国、氷の国の王妃様と火の国の王子様は そういう関係にありましたので、氷の国の王妃様は、命の花の力を使う権利を火の国の王子様に譲ったのです。 それで、4歳になったばかりの瞬王子様の命は助かったのですが、氷の国の王妃様は亡くなってしまったのです。 命の花を火の国の王宮に届けたのは、氷の国の王妃様でした。 命の花の使用を決定する掟の女神テミスが、その花を氷の国の王妃様の許に届けたからです。 「神々は、二人の命を共に救えないことを とても悲しんでいます。この花をどう使うかは、あなた自身がお決めなさい」 掟の女神テミスにそう言われた氷の国の王妃様は、すぐに船を用意させ、病をおして、命の花を火の国に運んだのです。 もう自分の足で立っているのも覚束ない状態だったというのに、瞬王子の枕元で、その心臓の上に手ずから命の花を置いて、氷の国の王妃様は言いました。 「もうすぐ私は死んでしまうでしょう。瞬ちゃんは、私の分も生きて、私がしてやれない分も 私の氷河を幸せにしてやってちょうだい」 まだ死ということの意味がよくわからなかった瞬王子は、でも、大好きな王妃様が目にいっぱい涙をためて告げる言葉の重みを直感で感じとり、王妃様に約束したのです。 「僕は、氷河王子様を幸せにするためなら どんなことでもします」 ――と。 弱った身体で 瞬王子の約束の言葉を聞いて氷の国に戻った王妃様は、それから1ヶ月後に、もうすぐ6つになる幼い氷河王子を残して、帰らぬ人となったのです。 「私はもうすぐ氷河の側にいてあげられなくなるけど、いつも氷河を見守っていますからね。マーマがいなくなっても、氷河は泣かずに強く生きるのよ。そして、人の心を思い遣ることのできる優しい子になって。そうすれば、氷河は必ず幸せになれます。今の私の願いはそれだけよ。私の代わりに生き延びた瞬ちゃんが 私の氷河と仲良くして、二つの国を幸福な国にしてくれますように」 それが、氷の国の王妃様の最期の言葉でした。 優しく美しい氷の国の王妃様は、その優しさ美しさを失わぬまま、最愛の氷河王子の手を握りしめて息を引き取ったのです。 「マーマ……!」 氷河王子は優しくて美しい お母様をとても誇りに思い、とても愛していました。 大切な お母様を失った氷河王子の悲しみは、それはそれは深いものでした。 亡くなった人の優しさだけでは埋めることができないほど。 ですから――お母様の最期の願いにもかかわらず、氷河王子は、自分から大切なお母様を奪ってしまった火の国の王子を恨むようになってしまったのです。 だからといって、氷河王子を なんて心のねじくれた悪い王子様なんだと思わないであげてくださいね。 氷河王子は、まだ生まれたばかりの赤ちゃんだった頃に、鉱山視察中の事故でお父様を亡くしていて、お母様ひとりに育てられたのです。 もちろん、王子様でしたから、王子様の世話をする家来や召使いはたくさんいましたけれど、家来や召使いが王子様に捧げる忠誠心と お母様が我が子に注ぐ愛情は 別のもの。 父王亡き後、お父様の弟――氷河王子の叔父君です――が、氷河王子が成人するまで王位に就くことになり、その叔父君もとても氷河王子を可愛がってくれました。 でも、やっぱり 小さな子供にとってお母様の優しさ温かさは特別のもの。 それを突然奪われたのですから、氷河王子が瞬王子を憎むようになったのは、悲しいことですけれど、致し方のないことだったかもしれません。 瞬王子が生まれてから、氷の国の王妃様は、 「瞬ちゃんには、お父様だけでなくお母様もいないのよ」 と言って、しばしば火の国に出掛けていました。 その間、幼い氷河王子は氷の国の王宮でお留守番。 いくら王宮にたくさんの人がいたって、お母様が側にいてくれないのは、子供にとっては心細くて寂しいもの。 お留守番のたび、氷河王子は、大好きなお母様を瞬王子に取られたようで、子供ながらに――いいえ、子供だからこそ――焼きもちを焼いていたのです。 氷河王子は、王妃様が命の力が失われる病にかかる前に、 「もう火の国には行かないで」 と、お願いまでしました。 その時、氷の国の王妃様は、氷河王子の髪を撫でながら、 「瞬ちゃんは、とっても可愛い子なの。氷河より小さいのに、もう人の心の痛みを思い遣れるような優しい子で、氷河もきっと大好きになるわ。瞬ちゃんみたいに可愛くて優しい子が氷河のお嫁さんになってくれたらいいのに。そうしたら、きっと氷河は世界一 幸せな王子様になれるわよ」 と微笑んでおっしゃいました。 そして、 「氷河も、もう長い旅ができるかしら。次に火の国に行く時は、氷河も一緒に行きましょう」 と約束していたのです。 その約束は、結局 果たされないまま、氷の国の王妃様は亡くなってしまったのですけれど。 |