すぐに目を覚ましてくれるものと思っていた瞬王子は、けれど、なかなか その瞼を開けてはくれませんでした。
もっとも、何かを待っている人間の時間というものは 殊更ゆっくり流れるもので、なかなか目を開けてくれない瞬王子に氷河王子が不安を覚え始めた時、氷河王子はまだ たったの5分しか待っていなかったのですけれどね。
でも、そのたった5分が、氷河王子には1年にも10年にも感じられたのです。
初めて見る瞬王子の寝顔は とても頼りなげで、まるで眠りの魔法をかけられたお姫様のように 微動だにしません。

氷河王子は瞬王子の髪に触れたり 頬に触れたりして、少しでも温かみが戻ってきたことを確かめようとしたのですが、瞬王子の頬はいつまで経っても――6分経っても――冷たいまま。
でも、その寝顔は本当に綺麗で可愛らしいのです。
瞬王子の目覚めを待って7分が過ぎた頃には、氷河王子はなぜか そわそわし始めていました。
8分後には、氷河王子は、
「これは、す……少しでも、瞬が温まればと考えてのことで――」
と自分に言い訳していました。
そうして、更に1分ほど ためらい、瞬王子の目覚めを待ち始めてから10分後、氷河王子は眠っている瞬王子にキスしてしまっていたのです。
瞬王子とカミュ国王のキスは あれこれ理屈をこねて妨害したくせに、本当に卑怯な氷河王子です。

「瞬。俺は……俺は、本当はおまえが――」
ですが、キスは目覚めを誘うもの。
氷河王子の卑怯な行為は、この場合は、適切な対応だったのかもしれません。
瞬王子の瞼が 微かに震え、氷河王子は慌てて 瞬王子の上から身を引きました。
意識を失っていたうちに唇を奪われたことに気付いていない瞬王子が、氷河王子の強張った顔を見て、瞳に不安の色を浮かべます。
瞬王子は、自分が奇跡を起こしたことに まだ気付いていませんでしたから。

「瞬、ありがとう。叔父は蘇生した。おまえのおかげだ。心から感謝する」
「ほんと……? よかった……」
瞬王子が成し遂げた奇跡を氷河王子が知らせると、瞬王子は やっと その目許と唇に安心したような微笑を浮かべました。
そして、寝台の上に上体を起こし、氷河王子を見詰めてきました。
その瞳がとても綺麗で、とても幸せそうだったので、氷河王子は瞬王子の前で どぎまぎしてしまったのです。

「お……俺は、約束は守るぞ。おまえの望みは何だ。何でも望むことを言え」
どもりながら、氷河王子は瞬王子に尋ねました。
けれど、瞬王子は小さく首を横に振っただけ。
「僕は氷河のお母様から命をもらいました。そのご恩返しができて嬉しい」
「それは望みじゃないだろう」
「他に望みはないの」
「そんなはずは――」
そんなはずはありません。
瞬王子は、氷の国の王妃になることを望んでいるはずです。
他に望みはないと言う瞬王子に、氷河王子は慌てて探りを入れました。

「おまえは、俺を幸せにしたいと――俺に一生仕えたいと言っていた。それがおまえの望みなら、俺は 一生おまえの顔を見ていることも我慢するぞ」
我ながら ひねくれた言い方だと思ったのですが、ただ一人の肉親の命の恩人に対して、まさか『おまえの狙いは氷の国の王妃の座なんだろう』と問い詰めることは、氷河王子にはできなかったのです。
氷河王子は、今では、それでも構わない、むしろ その方が嬉しいと思うようになっていましたから、なおさら。
だというのに、瞬王子は悲しげに微笑して、
「無理しないで」
と言い、涙をためた瞳で氷河王子を見詰め、静かな声で言ってきたのです。

「氷河にそんな無理を強いるつもりはないの。僕は氷河に幸せでいてほしい。僕が氷河の側にいることが、氷河の心を傷付けることだというのなら、僕は氷河の側にいられないことにだって耐えてみせる」
それは、氷河王子の幸せを願うゆえの、瞬王子の健気な決意なのでしょう。
瞬王子が そんな決意をするに至った経緯が容易に想像できてしまったからこそ、氷河王子は慌ててしまったのです。
氷河王子は、瞬王子にそんな決意をされても、少しも幸せになれそうにありませんでしたから。

「いや、それはその……しかし、おまえは俺を……その……好きなんじゃなかったのか?」
「え?」
「あ、いや……俺はよくわからんのだが、皆が口を揃えて そう言っていた。おまえは俺に恋焦がれていて、俺以外の男は目に入っていないようだと――」
「それはもちろん好きだけど……」
「だったら、その――おまえは、俺の妻とか……恋人になりたいとは思わないのか?」
「は?」
心底意外そうな目をして氷河王子を見詰め返してくる瞬王子の瞳が、まるで人語を理解できない子犬のそれのようなことに、氷河王子は困惑しました。
瞬王子は、氷河王子の恋人になりたいなんて考えたこともないような目をしていたのです。
そんなはずはないのに。

「僕は氷河のことが大好きだけど……それは無理だと思います」
「なぜだ」
「なぜって……僕は男子ですから」
氷河王子はいったい何を言っているのか。
瞬王子は、そう思っているようでした。
瞬王子はいったい何を言っているのか。
実は、氷河王子こそがそう思っていたのですけれどね。

「男子というのはどういう――だん……だん……おと……おと……おとこーっ !? おまえがーっ !? 」
瞬王子が告げた言葉の意味を理解できた氷河王子を立派というべきか、そんなことで驚かれてしまった瞬王子を気の毒というべきか。
この場合は、でも、やはり瞬王子に同情すべきでしょうか。
瞬王子は いつも男子の服を着ていましたし、自分を王女と言ったことは一度もありませんでした。
にもかかわらず、一国の王子がナチュラルにお姫様だと思われていたという事態は、十分 同情に値することですからね。

「王子なんですから、男に決まっているでしょう」
「王子……って、し……しかし、その顔、その姿――おまえが女でなかったら、世界中から女が消えてしまうだろう! どんな女だって、おまえより綺麗じゃないし、おまえより可愛くないし、おまえよりガサツだし、おまえより優しくないし、おまえより綺麗な目もしてないし――氷の国の王宮には、おまえを男だと思っている者は一人もいないぞ。叔父上だって、おまえが俺の妻になってくれたらいいのにと言っていた」
「え……」

それは瞬王子には初めて知らされる衝撃の事実でした。
それはそうでしょう。
氷の国の王宮で、瞬王子が王子だということを知っている人間が、瞬王子一人きりだったなんて。
そんな事態は滅多に現出する事態ではありません。
何がどうなっているのか全く理解できず、瞬王子は混乱していたのですが、残念ながら瞬王子は ゆっくり混乱してもいられなかったのです。
瞬王子が男子だという事実を知らされた氷河王子が、瞬王子より 一瞬早くパニック状態に突入してしまったせいで。

「い……今更、そんなことを言われても困る! こんなに好きになってしまってから、今更 男だと言われても、ああそうですかと心を変えられるわけがないだろう! おまえは なぜ、いつもいつも不都合ばかり運んでくるんだ!」
「そんな……」
そんなことを言われても――と、瞬王子は本心では思っていました。
瞬王子は最初から 男子として氷の国にやってきましたし(そのつもりでしたし)、自分を王女だと言ったことも一度もなかったのです。
かといって、氷河王子の取り乱しようを見ると、その本心(と事実)を告げて、(気の毒な?)氷河王子を責めることも、瞬王子にはできませんでした。
瞬王子は、今自分がどうすべきなのか、氷河王子に落ち着いてもらうにはどうすればいいのかが、皆目わからなかったのです。

そこにやってきたのが、一輝国王。
彼は、寝台の上に上体を起こしている瞬王子の姿を見て、ほっと安堵の息をつき、満面の笑みを浮かべて瞬王子の側に歩み寄ってきました。
「よくやったぞ、瞬。カミュ国王は 今回の騒ぎの経緯を聞いて、おまえに どれほど感謝してもしたりないと言っていた。どこぞの馬鹿な王子が何を画策しようと、両国の友好はこれまで通り――いや、以前にも増して深くなるだろう」
それでなくても可愛い弟が、国のために立派な働きをしてみせたのです。
一輝国王は 瞬王子を大層 誇らしく思い、それゆえ大層 機嫌もよかったのです。
氷河王子が、
「一輝! いや、一輝国王陛下。瞬を……瞬を、俺にくれ!」
と、悲鳴のような声で火の国の王に懇願してくるまでは。

瞬王子を溺愛している一輝国王の目は、何よりもまず最愛の弟の姿を映すようにできていました。
ですから、氷河王子に断末魔のような声で そう訴えられて初めて、一輝国王はそこに氷河王子がいることに気付きました。
気付いても、彼は あまり嬉しそうな様子は見せませんでしたけれど。
むしろ、何か胡散臭いものを見るような目で、一輝国王は氷河王子を見やりました。

「ほう。氷の国の王子は 心を入れ替えたのか? 貴様が本当に心から反省しているというのなら考え直してやらぬこともないぞ。火の国と氷の国の友好のための使節として両国の橋渡しをしたいというのは瞬の望みだったし、それ相応の待遇を約束するなら、瞬を氷の国への親善使節として正式に派遣することも――」
「そうではなく、妻として……は無理でも、恋人として、瞬を俺にくれ! 世界に二つとない宝石のように――いや、俺自身の命より心より大切にする。瞬を俺にくれ。俺は瞬を愛しているんだ!」

「へっ?」
一輝国王が、大国の王にふさわしからぬ素頓狂な声をあげたのは致し方のないことだったでしょう。
一輝国王は瞬王子の実兄で、父親代わり。
その姿がどんなに少女めいていても、瞬王子が歴とした男子であることを、一輝国王は ちゃんと知っていましたから。
「しゅ……瞬。この男は何を言っているんだ?」
「それは、僕にもよく……」
「俺は瞬が好きなんだ! 瞬なしでは生きていられない……!」
「氷の国の王子は気が狂っているのか。氷の国も大変だな。こんなのが次期国王とは。瞬、立てるか? こんなところに長居は無用だ。帰るぞ」
「あ……はい、兄さん」
「火の国の王の心は絶対零度の凍気より冷たいのか! 瞬なしでは生きていけない男の許から 瞬を連れ去ろうとするとは! 瞬、行かないでくれ!」

パニック状態から脱しきないまま、氷河王子は 必死の目をして 火の国の王と王弟に訴えました。
それこそ、本当に気が違ってしまったのではないかと思われるほどの形相で。
ですが。
両親を早くに亡くした瞬王子にとって、兄君の一輝国王は父親のようなもの。
その決定に逆らうことは、(基本的に)瞬王子にはできませんでした。
それに氷河王子の言うことも よくわからなくて、瞬王子は このまま氷河王子の側にいることが ちょっと恐くなりかけていたのです。
瞬王子を愛していると叫び訴える氷河王子の表情は、まさに『鬼気迫る』という表現がぴったり。
瞬王子が大好きだった――今でも大好きな――優しく美しかった氷の国の王妃様には ちっとも似ていなかったんですもの。






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