新生






「助けて!」
あの一言さえ言わなければよかったのだろうか――と、思う。
「助けて、兄さん! 氷河は……氷河は僕の命だ!」
と。
「ならば、助けよう。氷河なしでは おまえも生きていられないというのなら」
兄は、抑揚のない無感動にもとれる声で そう答え、弟の願いを叶えるために、白鳥座の聖闘士が敵と対峙している場所に向かって駆け出した。

『行かないで!』
その一言を言えばよかったのだろうか――と、思う。
『兄さんが行っても、氷河はもう助からない』
と。
しかし、兄に救援を求めなければ、氷河は確実に死んでいただろう。
そして、氷河を失った自分も死んでいた。
だが、氷河が助かりさえすれば――彼が生きてさえいれば、自分も生きる力を得られると、瞬は思ったのだ。

氷河は、敵――アテナと対立する神――に命を奪われかけていた。
もはや戦うことはできそうにない瞬に とどめをさそうとしていた神の目を自分に向けるため、既に満身創痍だった氷河は その身を敵の前に投げ出したのだ。
瞬自身も意識を失わずにいるのが奇跡にも思える ありさまで、その場で動けるのは瞬の兄だけだった。
瞬が動ける状態にあったなら、瞬がその一言を口にしなくても、あるいは瞬の兄は あの時 アテナの聖闘士の中で最も死に近い場所にいた氷河を助けに行っていたのかもしれない。
しかし、その時、瞬はかなりの重症――右脚が膝から千切れかけている重傷を負っていて、既に相当量の血を失い、放っておけば瞬も死んでいた。
死が目前に迫っている仲間と、死にかけている弟。
瞬が、その一言を口にしなければ、兄は弟の許に留まっていただろう。
だが、弟がその一言を口にしてしまったために、彼は“瞬の命”を救うために その場を去り、そして、そのせいで命を落としてしまったのだ。

天馬座の聖闘士と龍座の聖闘士が戦場に駆けつけた時、彼等がそこで見たものは、仲間の命を救うために神に命を奪われた鳳凰座の聖闘士、一輝の死後に命を断たれたと思われる白鳥座の聖闘士、そして、兄と氷河の命が消えたことを知り、絶望によって命の火を消されたアンドロメダ座の聖闘士の亡骸だった――。



瞬が その記憶を取り戻したのは、薄闇に包まれた死者の国で ハーデスに対峙した時だった。
ハーデスが一時的にとはいえ、瞬の身体を支配した時。
冥府の王は、自身の力の強大を誇示するためではなく、瞬から冥府の王に抵抗する力を奪うために そんなことをしたのだったろう。
前世・・で、鳳凰座の聖闘士と白鳥座の聖闘士、アンドロメダ座の聖闘士の命を奪ったのは彼ではなかったのだから。
彼ではない、別の神だったのだから。

そなたの謳う正義など、その程度のもの。
そなたの信望する愛など、ただの身勝手。
愛する者の命を守るために、そなたは平気で他の命を犠牲にする。
そこに正義はあるのか。
それは愛と呼んでいいものなのか。

瞬に前世の記憶を蘇らせ、そう訴えることで、ハーデスは瞬から冥府の王に抗する力を奪った。
アテナの血の熱さに耐えかねて瞬の中から去る時も、
彼は、『それで、そなたは、これからも 自分に正義があり、愛があると信じて戦い続けるのか?』
と皮肉のような思念を、瞬の心に残していった。
それは正しく不正義であり、ただの身勝手だろう――と。

ハーデスがエリシオンでアテナに屈し、崩れ落ちる冥界を逃れ、光あふれる地上に戻っても、ハーデスによって蘇らされた前世の記憶は瞬の中に留まり続けた。
それが今からどれほど前のことなのか――100年前か1000年前か、今から何代前に起きたことなのか――1代前か10代前なのか――は、瞬にはわからなかった。
わかるのは、確かにそんなことがあったという記憶の“感じ”だけ。
それは本当にあったことだと思う“感じ”だけだった。
だが、瞬には それだけで十分だったのである。
自分が犯した罪の感触を感じることさえできれば。
罪が犯されたことを感じることさえできれば、贖罪に努めることはできるのだから。






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