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戦いにおける栄誉や知的計略を司る女神アテナ。
戦場での殺戮と狂乱と破壊の象徴、軍神アーレス。
共にオリュンポス12神の1柱、そして、同じ戦いの神でありながら、2柱の神は求めるものが全く違っていた。
知恵の女神でもあるアテナは、平和を得るための戦い、もしくは 戦いの果てに得られる平和を求めており、アーレスは永遠の殺戮と破壊を欲していた。
だから、アテナは その子供を愛していたし、逆にアーレスは その子供が気に入らなかったのである。
大いに気に入らなかった。
アーレスは、人の心を荒ぶらせ、すさませ、地上を争乱で満たしたかったのである。
だというのに、たかが人間の、5歳にも満たない小さな子供が、彼の野望を いちいち邪魔するのだから。

その子供は、戦の争乱で両親を失い、同じ境遇の子供たちを集め育てる施設で暮らしていた。
だから、戦いが嫌いらしかった。
人と人は互いに争うことなく生きていける、傷付け合わなくても生きていけるのだから、自ら敵を作り、我が身を傷付けたり、傷付けられたりする可能性を増やすことはない――という考えの持ち主のようだった。
僅か5歳の幼子が、実際にそんなことまで考えてそういうこと・・・・・・をしているのかどうかまでは、荒ぶる神には わからなかったのだが、その子供がしていることは正しくそういうことだった。

「喧嘩なんかしないで。そんなことしてどうなるの」
「戦争なんか行っちゃ だめだよ。剣で刺されたり、弓矢が当たったりしたら痛いでしょう」
もちろん幼い子供のこと、その子供は 大きな戦争を起こしている国の王や、強力な軍隊を指揮する将軍たちに そんなことを主張できたわけではなかった。
その子供の周囲で、怒り、気が立っている大人たちに訴えかけるのが せいぜいである。
だが、大人たちは、その子供に そう言われた途端に 誰もが、自分の中にあった争いに向かう気持ちを すぐに握りつぶし、忘れてしまうのだ。
その子供が可愛らしいから。
あまりに無邪気に、あまりに澄んだ目で そう訴えてくるから。
対立し合い 傷付け合うことを始める寸前だった二人も、その子供に そう言われてしまうと、あっという間に争いの心が萎え、代わりに その子供の可愛らしさに目を細めてしまう。

だから、その子供の周囲では、どんな争い事も起きなくなってしまった。
その子供の住む町では、どんな いさかいも起きなくなってしまったのである。
その町は、大神ゼウスのそれよりも知恵の女神アテナのそれよりも大地母神デメテルのそれよりも家庭の守り神ヘラのそれよりも壮麗で巨大な神殿を 軍神アーレスのために建て、彼を崇め奉っているギリシャで唯一の町だったというのに。
争乱と破壊の神を崇め、争いに勝つことに最大の価値を置く、気の荒い住人たちで満ち満ちていた町が、争い事の全くない ギリシャで最も平和な町になってしまったのだ。
争いと憎悪で満ちた その町に目を向けるたび、これまでアーレスは大いなる満足を得ていた。
その町が、今では他の何よりもアーレスに屈辱を与え、彼を苛立たせる町になってしまったのである。

アーレスは、その子供が作り出した平和に 大いに誇りを傷付けられた。
そして、彼は、彼の屈辱の元である その子供を、彼の町から、この地上から 取り除くことにしたのである。
アーレスは、自分の行動が『仮にもオリュンポス12柱の1柱が、たかが人間の幼い子供に 本気で対抗するとは』と、他の神や人間たちに嘲られるものになるかもしれないなどということに考えの及ばない神だった。

アーレスは、町の人々の前から その子供をさらった。
おかげで、彼の町は また争いで満ちるようになった。
大人たちは、その子供がいれば容易に抑えることのできた怒りを抑えられなくなってしまったのである。
その事態に困惑したのは、町の女たちだった。
争いがない頃は、毎日が楽しく、心穏やかに過ごしていられた。
家では亭主は優しく、外で亭主や子供が 争い事に巻き込まれて怪我をする心配もせずに済んだ。
そんな穏やかな日々が どれほど幸福なものであるか、よいものであるかを知ってしまった彼女等は、平和の恩恵を知らなかった頃には戻れなかったのである。

それでも、彼女等は耐えた。
争いを止める術を持たなかったという事情もあったが、一つの希望にすがって、彼女等は耐えた。
希望というのは他でもない。
今は 争う気持ちを抑えられなくなっている男たちも、平和だった頃のことを憶えている――忘れてはいない――という希望である。
荒ぶる気持ちのまま いさかいを起こし、そのせいで怪我をしたり、まかり間違って命を落としたりするようなことは“損”だということ、皆の心が穏やかで家の外にも内にも笑顔があふれていた頃には何もかもがうまくいっていたことを、自分の夫や父や息子は いずれ思い出してくれるだろうと、彼女たちは信じていたのである。

だが、男たちは、なかなか そのことを思い出してはくれなかった。
否、一日の仕事を終えて家に帰り 妻や娘や母の顔を見ると思い出すことはあるようなのだが、翌朝 隣人や商売敵に出会うと、男たちは すっかりそのことを忘れてしまうらしい。
彼等の苛立ちは実際の言い争いや喧嘩になることも多く、男たちは毎日 不機嫌な顔をして――時には馬鹿げた怪我をして家に帰ってくるようになった。
そんな夫や父や息子たちを、妻や娘や母たちも、いつも にこやかに出迎えてはいられない。
結局、一時はギリシャで最も平和だった町は、以前の殺伐とした争いの絶えない町に戻ってしまったのである。

それだけならまだしも。
まるで 毎日 誰かと争うことのできる状況を求めるように――恒常的な敵を求めるように――やがて町は二つの陣営に分かれ、いさかい合うようになってしまった。
その上、それぞれの陣営が 自分たちの味方になるように近隣の町や村を説いて対立。
一つの町の中だけのものだった対立は、周辺の町や村を巻き込み、拡大激化していったのである。

普通なら こういう時、町の長なり国の王なりが調停に乗り出すものなのだが、その町に対して最も強い影響力を持っていたのは 殺戮と破壊の神。
彼は その対立を煽ることしかしなかった。
こうなってはもう、武器を取って戦いを始めるしかない。
対立し合う陣営の一方が――あるいは双方が――滅び去るまで戦い続ける以外、対立を消し去る術はない。
町は、そういう状態にまでなってしまっていたのである。

もはや戦は避けられない――。
町がそこまで追い詰められた時、それまで じっと耐えることを続けていた町の女たちの忍耐は限界に達した。
この戦を止めなければ、夫が父が息子が傷付き、命を落とすことになるだろう。
全面戦争になれば、男たちだけでなく女たちも――町そのもでさえ無傷ではいられず、最悪の場合、町も町の住人も すべてが地上から消え去ることになりかねない。
だが、だからといって、武器を取って男たちの戦いを止めようとするのは本末転倒。
考え悩み抜いた彼女等は、そうして、もう一柱の戦いの女神にすがることにしたのだった。
彼女等は、アテナの神殿に祈りを捧げたのである。
どうか、我々の町に あの子を連れ戻してください――と。






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