「というわけで、あなたが呼ばれたわけなのよ」 「何が『というわけで』なんですか」 アテナの意図がわからず、氷河は彼の女神に問い返したのである。 聖域と(滅多に全員が揃うことはなかったが)88星座の全聖闘士を統べる知恵と戦いの女神が、彼女の神殿に白鳥座の聖闘士を呼びつけた訳が、もちろん氷河には わからなかった。 それも、他の仲間と共にというのならまだしも、氷河一人だけを。 氷河はアテナの聖闘士なのである。 彼にできることは、邪悪と戦うことだけ。 二分された町の勢力のどちらかが邪神の意に従っているというのであれば、もう一方の勢力の側に立って戦うこともできるだろうが、たった今 アテナから聞かされた説明によれば、事態は そう単純なものでもないらしい。 少なくとも、そこに、一方が邪悪、もう一方が正義という、わかりやすい図式は描かれていない。 しいていうなら、そこに描かれているのは、双方が邪悪、双方が愚か――という図式。 当然、アテナの聖闘士が どちらかの陣営について戦うことのできる状況ではない。 かといって、戦いをやめさせることが目的なのであれば、氷河ほど その役目にふさわしくない者もいなかった。 氷河が得意なのは戦うことであって、敵対し合う者たちの仲裁調停ではないのだ。 そして もし、軍神アーレスを倒すことで この事態を解決しようというのがアテナの意思であるならば、彼女がここに氷河一人を呼び出すはずはなかった。 仮にもオリュンポス12神の1柱に挑むのである。 黄金聖闘士を数人――ことによったら全員――召集するのが妥当だろう。 「話を聞いた限りでは、そんなところに俺が行ったところで どうなるものでもない。もちろん、無益な戦いを始めようとしている馬鹿な人間共を皆 殴りつけてこいというのでしたら、その ご命令には従いますが、それは根本的解決にはならないし、あなたの好みでもない。かといって、まさか俺に、行方知れずになっている その子供を探し出せと言うのでもないでしょうし――」 「まさか。迷子探しをするのなら、あなた一人だけを呼んだりはないわ」 「ごもっとも。行方不明の子供を探し出すことが目的なら、俺一人だけでなく、動員できる聖闘士全員に――」 「探し出す必要はないのよ。どこにいるのかは わかっているから」 「は?」 アテナが氷河に下そうとしている命令は、愚かな人間を全員 懲らしめろというものではないようだった。 そして、一介の青銅聖闘士一人に対して 強大な力を持つ神を倒せなどという無考えなことを、良くも悪くも知恵のまわるアテナが命じるはずもない。 迷子探しなら、人海戦術を採るのが妥当。 となれば、いったいアテナは白鳥座の聖闘士に何をさせようとしているのか――。 彼女の意図を探るつもりで、アーレスに さらわれたという子供の話を持ち出しただけだった氷河は、『子供の居場所はわかっている』というアテナの言葉に目を剥いてしまったのである。 ここまで大ごとになってしまった町の住人の対立が、一人の子供の可愛らしさで治まるはずがない。 アテナにすがってきた町の女たちは それを求めているようだったが、事態は既に そんなことでは収まりがつかないところまできている――というのが、氷河の認識だった。 当然アテナも同じ認識でいるだろうし、となればアテナが その子供の探索に取りかかるのは、何とかして町の住人たちの戦いを終結させてからのことになるだろう――と、氷河は思っていたのである。 だというのに、アテナは既に その子供の居場所を突きとめ済みだったとは。 アテナは彼女のすべきことの優先順位を間違えているのではないかと、正直、氷河は彼の女神に不信感を抱いてしまったのである。 しかし、アテナは、自分が間違いを犯しているとは考えていないようだった。 「アーレスが人間たちを煽ったのは事実でしょうけど、これは あくまで人間たちが起こした争いよ。当然、彼等は自分たちの力で事態を収拾しなければならないわ。それが道理。彼等の義務。私は、邪悪な野心を抱いている神が首魁になっているわけでもない戦いに、私の可愛い聖闘士たちを動員してやるほど 甘い神でも お節介な神でもないわ」 「それは……よく知ってますが――」 「でも、私は、馬鹿な男たちが起こした戦いのせいで苦しんでいる女性たちを見捨てるほど冷酷な神にもなれない。だから、その子供を町に連れ戻すことくらいはしてあげようと思うの。子供をさらったのは神であるアーレスで、そこは人間たちには責任のないことだから」 「筋は通っているような気はしますが……」 「で、その子供を連れ戻してきてほしいのよ。私の代理として、あなたに」 筋は通っていると思わないでもない。 これは、邪悪な神が何かを欲して――たとえば、地上の支配権や人類の滅亡といったものを欲して――始めた戦いではない。 アーレスは、そんな大それた野心を抱いてはいない。 彼は、そんな深大な野望を抱く神ではない。 ただ、少し気分を害されたから、自分の気分の修復を試みて、小さな争いの種を撒いただけ――否、平和の芽を取り除いただけ――なのだ。 争いを始め、その争いを ここまで大きくしてしまったのは、愚かな人間たちなのである。 責任を負うべきは人間。 これは、わざわざ神が介入し 収めてやらなければならないような争いではない。 しかし、争いのきっかけを作ったのは神であるアーレスであるから、同じ神として、争いのきっかけとなった“子供の喪失”という事態だけは旧に復してやってもいい――。 それは、『平和を手に入れるために戦う者には力を貸すが、自分の望みを叶えるために努力をしない者を甘やかし救ってやるつもりはない』という姿勢を貫いてきたアテナらしい対処法だった。 その点に関しては 氷河も得心できたし、馬鹿な人間たちを無条件で救うことをよしとしないアテナの考えには、大いに同感もできた。 だが、その子供を連れ戻すという仕事が、なぜ自分に任されるのか。 それが氷河には得心できなかったのである。 居場所がわかっているのなら、アテナは、町の平和を望む者たちに『自力で連れ戻してこい』と言えばいい。 子供の居場所を突きとめ教えてやるだけで、この争いに無関係な神として、アテナは破格の親切を示してやったことになるではないか。 その子供の許にアテナの聖闘士を差し向けることまでするのは、過ぎる親切――むしろ、人間に対する甘やかしだろう――と、氷河は思った。 そう思わないわけにはいかなかったのである。 「俺は、戦いを生業としている聖闘士で、子守りでは――」 「その子がいるのは冥界なの」 子供の扱いは 子供の扱いに慣れた者にさせるべきで、そんな特技を持つ者は聖域にはいない。 そう言おうとした氷河の言葉を、アテナが遮る――却下する。 が、アテナが氷河の意見を退けたのは当然のことだった。 「冥界? 冥界にいるんですか、その子供は」 冥界。 そこは、天に神々が生まれ 地上に人間たちが生まれた時から、地上の支配権を巡ってアテナと聖戦を繰り返してきた、言ってみれば アテナの宿敵が支配する世界。 普通の人間が遊山気分で赴くことのできる場所ではないのだ。 「ええ。地上から戦いがなくなるということは、その分 死者が減るということ。死者の国の支配者には都合が悪かったのでしょうね。ハーデスとしては、自分が支配する人間はいくらでも増やしたいところでしょうし」 「で、ハーデスとアーレスがつるんだというわけですか」 「理に適っていると言われれば、それは確かに その通りなのだけど、意外な組み合わせでもあるわね。粗野粗暴な戦いの神アーレスと、我儘な唯美主義者のハーデスなんて。いずれにしても、普通の人間を迎えにやることはできないのよ。これは聖闘士にしかできない、重要で危険な任務なの」 アテナが人間を甘やかしているのではないことは わかった。 それでも、『なぜ俺が』という疑念は、氷河の中から消えることはなかったが。 「……戦いをやめてとお願いされると、誰もが戦いをやめてしまうほど可愛い子供――ですか。そんな子供がいたら、聖闘士なんて不要になるな」 「ええ。聖域に、顧問役として 「で、なぜ、そんな役目が俺にまわってくることになったんです」 「知恵の女神が熟考した結果、あなたが最も適任という結論に達したのよ。あなたなら、絶対に その子を地上に連れ戻したくなると」 「なぜ そんな結論に至ったのか、俺には全く合点がいかない。俺は、自分が生意気な子供だった頃のことを よく憶えているせいで 子供は嫌いだし、子供に好かれる いいお兄さんでもない」 「まあ。あなたは知恵の女神の判断が誤っていると言いたいわけ?」 「そうは言いませんが――」 アテナは どうあっても、その重要な任務を、子供嫌いの白鳥座の聖闘士に任せるつもりでいるらしい。 それが女神の命令だというのなら、断固拒否するつもりはなかったが、それは 氷河には 命を賭して務めあげようと意気込めるような任務でもなかった。 「しかし、誰もが“お願い”をききたくなるような子供なら、その子供が、地上に帰してほしいとハーデスに頼めばいいだけのことでしょう。その子供の力は 神には無効なんですか」 「それは何とも……。ハーデスにそう頼むこと自体、思いつけずにいるのかもしれないわね。なにしろ、たった5歳の ろくな分別も備えていない子供が、突然冥界に連れていかれたのよ。生まれ育った町にいた時だって、その子は そうすることが正義だとか有益なことだとか、理屈で考えて大人たちの争いをやめさせていたのではなかったでしょう。ただ争い事は嫌だという感情に従っていただけなのだと思うわ。それに、冥界はハーデスの絶大な権力で治められているから、冥界内では争い事なんて起きようもなく――つまり冥界は平和な国なのよ。皮肉なことね。冥界には、その子の嫌いな争い事は存在していないの」 では、へたをすると その子供は、争い事のない平和な冥界を居心地のよい場所と感じて、離れ難く思っているということもあり得る。 そんな子供を説得しなければならないのだとしたら、それは子供嫌いの聖闘士には ますます荷の勝ちすぎた厄介な仕事だった。 「町は一触即発状態。いつ どんなきっかけで事が始まるかわからないわ。あまり時間はないの。急いでちょうだい」 「……はあ」 自分は、『争い事で満ちている地上になど帰りたくない』と泣き叫ぶ子供を 無理矢理 冥界からさらってくることになるのではないか――。 あまり楽しくない予感に心を重くして、氷河はアテナの命令に(しぶしぶ)頷いたのだった。 |