個人と個人の喧嘩なら、可愛らしい子供に『やめて』と言われれば、気色ばんでいた大人たちも気を取り直して冷静になり、喧嘩をやめることもあるかもしれない。 だが、徒党を組んだ者たち同士の戦いとなると、そうはいかない。 集団同士の戦いでは、その戦いが自分にも他人にも不利益しか もたらさないとわかっていても、意地や勢い、時には対外的な見えのせいで、やめられなくなってしまうということが往々にしてある。 町を二分し、更には近隣の町村まで巻き込んで 大ごとになってしまった いさかいが、はたして幼い子供一人に止められるものなのか。 止められたとしても、それは一時的局地的なものにしかならないのではないか。 そもそも その子供は、今も変わらず 人の闘争心を消し去る力を有しているのか。 たとえ 今なお その力を有していたとしても、子供の可愛らしさなどというものは 大人になれば失われるもの。 それは永遠に有効な力ではないだろう――。 そんなことを考えながら、アテナの血で守られた聖衣を身に着けて、氷河は冥界に下っていったのである。 もとより気乗りのしない任務。 そして、懸念。 絶望の門に刻まれた『我をくぐる者は 一切の希望を捨てよ』の銘文は、既に重すぎるほど重かった氷河の心を更に重くすることにはならなかった。 氷河はむしろ、その門に出会って、安堵の息を洩らしたのである。 天に太陽がなく、それゆえ進むべき方向の判断が難しい冥界において、それは一つの道標であったから。 絶望の門をくぐったら、そのまま まっすぐ進め。 その先に、生者の世界に戻ることを諦めかけた“生きている”人間が一人いる。 ――と、氷河はアテナから指示を受けていたのだ。 そこに至るまでに、白鳥座の聖闘士の行く手を遮る者が多数 現われるのではないかと氷河は懸念していたのだが、ハーデス麾下の冥闘士たちはアテナの聖闘士の前に姿を現わさなかった。 まるで、氷河が そこに至ることは定められた運命で、邪魔をすることに意義はないとでもいうかのように。 順調な道行きは、だが、あまり気分のいいものではなかったのである。 陽光がないのに真闇ではない世界というものは、光あふれる地上に慣れた者には 居心地の悪さ、落ち着かなさだけを運んでくるものだったから。 そんな冥界で花を見ることがあろうとは――というのが、最初に そこに足を踏み入れた際の氷河の率直な感懐だった。 陽光のない天の下に広がる花園は どこか紛い物めいていて、氷河には さほど美しくは感じられなかったが。 いずれにしても、その場で氷河を最も驚かせたものは、色とりどりの花ではなく、そこで白鳥座の聖闘士を出迎えた者が聖衣を着けた一人の若い男だったこと――どう見てもアテナの聖闘士だったこと――だった。 「ああ。あの子を連れ戻しに来たのか」 その男は、氷河の姿を見るなり、そう言った。 「アテナが、冥界に生きている人間がいると言っていたが、まさか聖闘士だったとは……。貴様――いや、あなたがオルフェか」 「聖闘士ではない。僕はもう聖闘士ではないだろう……」 氷河の呟きに、彼は力なく首を横に振った。 「もし 自分を許せる気持ちになっているなら地上に戻ってくるようにと、アテナからの伝言だ」 アテナの伝言を伝えても、彼は 亡霊のように手応えのない反応を示すばかりだった。 だが、氷河が、 「あなたは と問うと、彼は それには はっきりと頷き返してきた。 アテナの力になれるのなら、それは己れの本意本懐だというかのように。 「あの子は 煉獄の第一冠にいる。しかし、あの子は――ハーデスがひどく気に入って、育つのを待っているから、連れ帰るのは難しいと思う。あの子が地上に帰りたいと心底から望まない限り」 「地上に帰ることを心底から望まない? そんなことがあるはずがないだろう。自分の生まれた世界だぞ。死んでもいないのに、こんな薄暗い偽の光しかないところにいたがる人間がいるものか」 「そうだな……。死んでもいないのに、こんなところにいたがる人間はいない……」 姿は若い男のそれなのに、声もまた若い男のそれなのに、口調は年老い疲れきった老人のように生気がない。 いったい彼は 死んでもいないのに なぜこんなところにいるのかと、当然のことながら氷河は訝ることになったのである。 彼は 自分の事情を氷河に語るつもりはないらしく、当人が語りたがらないものを 氷河も根掘り葉掘り尋ねる気にはなれなかったが。 「僕は、ハーデスのお情けで冥界にいることを許されている身なので、表立って君に協力することはできない。僕にできることは、君に幾つかの忠告を与えることだけだ」 「協力など期待していない。俺は子供の居場所さえ教えてもらえれば、それで十分だ」 協力など期待していないという氷河の言葉に、オルフェは寂しげに笑い、 「さすがは、あの人の聖闘士」 と、また老人のような口調で呟いて、その瞼を伏せた。 が、すぐに顔を上げ、氷河に言う。 「ハーデスは、アーレスのような粗野な単細胞とは組まない。彼はアーレスを利用しているだけだ。彼の目的は冥界に死者を増やすことではなく、あの子。あの子を、高慢な心を持たない清らかな人間に育てあげ、自分の魂の器にして、地上を死の世界にすることがハーデスの最終目的なんだ。アテナはその事態を避けたいのだろう。ハーデスが魂の器を手に入れると、聖戦が始まってしまうからな」 「 アテナは、氷河に そんなことは一言も教えてくれていなかった。 どうして そんな大事なことを教えてくれなかったのかと、氷河は舌打ちをしてしまったのである。 アテナは 今はまだ可能性にすぎないことを彼女の聖闘士に知らせて不安を募らせるようなことはしたくなかったのかもしれないが、可能性にすぎないことでも教えてもらえていたなら、『たかが子供の お迎え』と馬鹿にせず、自分はもっと気合いを入れて この冥界に下りてきたのに――と。 「僕からの忠告だ。あの子はハーデスによって 高慢の心を持つことを禁じられてしまった子だ。だから、自分が美しいとか可愛らしいとか、そういったことを全く自覚していない。その事実を自覚させない限り、あの子は地上に帰りたいとは望まないだろう」 「なに?」 それは もしかしたら非常に得難い忠告なのかもしれなかった。 だが、氷河には、オルフェの忠告の意味するところが、まるでわからなかったのである。 その子供が美しいとか美しくないとか、美しいことを自覚しているとか していないとか、そんなことに どんな意味があるというのだろう。 この場合 重要なのは、問題の子供の美醜や その自覚の有無ではなく、地上が美しいか否かということだろう。 冥界より地上は美しい。だから地上に帰りたい。 問題の子供に そう思わせることが肝心で肝要。 地上に帰る当人の美醜など どうでもいいことである。 そもそも自分の顔など、所詮 人間は自分の目で直接見ることができないのだ。 せいぜい鏡や水面に映る虚像を見ることができるだけで。 だが、氷河は、少し考えて得心した――得心できたような気になったのである。 その子供の美醜や 美醜に関する自覚の有無は、子供当人の心には どんな意味も意義も持たない瑣事にすぎないが、その子供を自らの魂の器にしたいハーデスには重大事なのだろう――と。 「つまり、その子供に 自分が美しいことを自覚させ、高慢や うぬぼれの心を持たせれば、ハーデスの望む清らかさが その子から失われ、ハーデスは その子供を自分の魂の器として利用できなくなるということか」 「……」 オルフェは、氷河のその言葉に首肯しなかった。 だが、そういうことなのだろうと、氷河は理解した。 問題の子供が美しかろうが醜かろうが、それはどうでもいいこと。 とにかく『綺麗だ、可愛い』とおだててあげ、その子に驕りの心を抱かせてやればいいのだ。 それで、ハーデスは その子供を 己れの魂の器として利用することができなくなる。 アテナの聖闘士が小さな子供相手にそんなことをしなければならないというのは、実に気の進まない仕事だったが、その子供の心一つに 聖戦が始まるか否かがかかっているのだ。 いかに不本意でも、それは やり遂げなければならない仕事である。 必要な情報は手に入った。 氷河は、貴重な忠告を与えてくれたオルフェに謝意を告げ、彼に会う以前にはなかった使命感を その胸に抱いて、問題の子供がいるという煉獄第一冠に向かったのである。 |