煉獄の山は、冥界の辺獄と言っていい場所に そびえ立つ台形の山だった。 その麓に、瓦礫と、葉に鋭い そこが、問題の子供のいる煉獄第一冠だった。 もとより楽園とは表し難い景観なのだが、さほど悲惨陰鬱な印象を受けないのは、その荒地にいる者たちの多くが若い男女で、身にまとっている衣装も豪奢(もしくは派手)なものばかりだったせいかもしれなかった。 煉獄第一冠は、傲慢の罪を犯した者たちが堕とされる場所。 中でも この界隈は、どうやら 生前 己れの美貌を鼻にかけていた者たちが集まっているらしい。 妙に顔立ちの整っている多くの男女が、地に足がついていないように ふらふらと さまよい漂っている様子は、一種異様な光景だった。 顔の造作が整っているのに 彼等を美しいと感じられないのは、(亡者なのだから当然ではあるが)彼等の表情に生気が感じられないから。 それだけでなく、彼等は誰もが 身体の動きが奇妙だった。 まるで重心の置き場に迷ってでもいるかのように、身体が――特に上半身が――浮つき、こころもち前のめりになっているような姿勢で辺りを徘徊しているのだ。 氷河が様子を確かめるために周辺を ひと渡り見回した ごく短い時間の内に、幾人もの亡者たちが地面に転がっている瓦礫にぶつかって転び、また、茨の群れに足を踏み入れては悲鳴を響かせていた。 ここにいる者たちに、いったい自分は なぜ これほど奇妙な印象を受けるのか――。 氷河のその疑念を晴らしてくれたのは、氷河が立っている方に ふらふらと漂ってきた一人の若い女だった。 ミュケーナイもしくは その周辺のポリスの市民だったらしく、その首から胸までをアルゴリス地方特有の黄金の胸飾りで覆っている。 その女が氷河の方に ふらふらと歩み寄ってきたかと思うと、そのまま正面から氷河にぶつかってきたのだ。 『おまえは目が見えていないのか!』と怒鳴りつけそうになった氷河は、寸前で その怒声を喉の奥におしやることができた。 彼女は、実際 目が見えていなかったのだ。 彼女の眼球は、白色の勝った鼠色をしていた。 「目が……」 氷河の呟きを聞いた女は、ぶつかったことを謝りもせず、氷河の顔の方に その手をのばしてきた。 「もしかして、新入り? ここに送られてくる者は皆、視力を奪われるのよ。誰も教えてくれなかったの?」 「あ……ああ」 彼女は、氷河も目が見えていないと思っているようだった。 その眼球の白目部分と瞳部分の境界がはっきりしていないせいで、ほとんど白目を剥いているように見える。 生きている時には美しい女だったのかもしれないが、瞳がない(ように見える)だけで、その美貌は、見る者をぞっとさせる容貌に変わってしまっていた。 「ここに送られてくる者たちは、生前 自分の美しさにうぬぼれ、その美しさを利用して益を得た者たちなの。あなたも身に覚えがあるでしょう? あなたは傲慢の罪の報いで視力を奪われ、ここに堕とされたのよ」 「視力を奪われて?」 「ええ。そのせいで 私たちは自慢の美貌を見ることができなくなるわけ。ひどい話……本当に ひどい話よね」 自慢の美貌を見ることができない。 そんなことが罰になるのかと、正直 氷河は思ったのだが、それはどうやら立派な(?)罰になるらしい。 我が身に与えられた罰を『ひどい』と評する彼女の声は、視力を奪われるくらいなら 氷地獄に投げ込まれる方がよほどましと言いたげな響きをたたえていた。 問題の子供も ここにいるのだろうか――いるとは思えない――と、氷河は訝り考えることになったのである。 僅か5歳の子供が 自分の美貌にうぬぼれることなどできるとは思えないし、オルフェの話では、問題の子供は自分の美しさを自覚できていないということだった。 いずれは自分の魂の器にしようと考えるほど気に入っている者を、ハーデスが罪人しかいない地獄煉獄に放っておくということも考えにくい。 やはりエリシオンに向かおう――氷河が そう考え、踵を返しかけた時だった。 ゆらゆらと気味悪く揺れている亡者の群れの中で、何かが素早く動き、そして それは、茨の群生に頭から倒れ込みそうになっていた若い男の亡者の身体をすんでのところで立て直させた。 動きが、他の者たちとは完全に違っている。 その敏捷な動作は、どう考えても 目の見えている者のそれだった。 そして、もしかしたら生きている者の。 海底で揺らめく海藻のような亡者たちの動きが不快で、船酔いでもしそうな気分になっていた氷河は、つい嬉しくなり、揺れる海藻たちを掻き分けて、その人間(?)の側に駆け寄っていったのである。 「おい、おまえ」 自らの肩に置かれた手に驚き弾かれたように、 しかし、二人の出会いで より驚いたのは、氷河の方だった。 明るく輝く瞳。 傲慢や うぬぼれの感情など、存在することすら知らぬげに澄んで美しい瞳。 その瞳が、異界からの訪問者の姿をはっきりと映している。 一目見て、氷河は、それが問題の子供だと わかったのである。 わかって――氷河は、アテナを深く恨んだ。 アテナは なぜ教えてくれなかったのだろう。 5歳になる問題の子供が アーレスによって さらわれ、ハーデスの支配する冥界に隠されたのが、何年前に起こった出来事だったのかを。 町の女たちが、無益な争いを何年の間 耐え、平和の時の再来を何年の間 待ち続けていたのかを。 問題の“子供”が生まれ育った町から姿を消してから、おそらく 少なくとも10年の年月が経っていた。 今 氷河の目の前にいるのは、10代半ばの、花も欺く美少女だった。 上着もつけていない簡素な白い短衣。 すらりとのびた 滑らかな手足。 面立ちは文句なく端正で、だが、冷たい印象はない。 それは瞳が大きいからで、その瞳は奇跡のように澄みきっていた。 「誰」 まるで彼自身が亡者になったように呆然としている氷河の顔を、美少女が見上げ、尋ねてくる。 その可憐清楚な姿にふさわしく、声も澄んで可愛らしい。 これだけの美少女に、この澄んだ瞳で『喧嘩はしないで』と訴えられたら、大抵の人間は、自分が誰とどんな理由で争っていたのかということも、一瞬で忘れてしまうだろう。 彼女の どんな願いでも叶えてやりたくなるに決まっている。 今の氷河が、まさにそうだった。 『アテナの聖闘士なんて、危ないからやめて』と彼女に言われたら、氷河は何も考えずに ふらふらと頷いてしまいそうだった。 あとで正気にかえることはあるにしても。 『あなたが最適』『あなたなら、絶対 連れ戻したくなる』とアテナが言っていたのは こういうことだったのだと、氷河は今やっと理解することができた。 つまりアテナは、氷河の好みを熟知していたのだ。 知恵の女神の肩書きは伊達ではない。 『さすがアテナ』と、氷河は内心で 彼の女神の深慮に心から感嘆してしまったのである。 「お……俺と一緒に地上に戻ってくれ」 愚かな人間たちの争いなど どうなっても自業自得だと思うが、 陽光の中に立つ この美しい少女の姿を見たい。 アテナの命令や、彼女の聖闘士としての務め、人間としての大義――ではなく、完全に個人的な願望に突き動かされて、氷河は かすれた声で そう言っていた。 言ってから、知恵の女神ともあろうものが、彼女の聖闘士に“問題の子供”改め“絶世の美少女”の名を教えてくれていなかったことに気付く。 「名は」 氷河が問うと、美少女は、そんなことはどうでもいいこととでも言うかのように、 「瞬」 と名乗り、その百倍も熱がこもっているような声で、夢見るように呟いた。 「僕が 子供の頃に見た お陽様の色がこんなだった……。花の上で きらきら光って跳ねるの。そして、空が――お陽様がある世界の空は青かった……」 呟きながら瞬の目が見詰めているものは、氷河の髪と瞳。 そして、その呟きに、氷河は力を得たのである。 瞬は、地上が美しかったことを憶えている。 地上を懐かしく恋しく思っている。 これなら、世にも稀なる美少女を明るい光の中で見られる時は そう遠い未来のことではないだろう――と。 「そう、そのお陽様と青い空のあるところに帰ろう。俺は そのために――おまえを地上に連れ戻すために、命ある身で、ここに来たんだ」 瞬は さぞかし可愛らしい笑顔で 白鳥座の聖闘士の言葉を喜んでくれるに違いない――という氷河の期待は、しかし、あっさり裏切られることになった。 氷河の冥界来訪の目的を知らされるなり、瞬は 悲しげに瞼を伏せ、そのまま顔までを俯かせてしまったのだ。 あげく、瞬は、氷河が自分の耳を疑わずにいられないような言葉を、その唇から洩らしてきた。 「それはできない。僕は醜くて……あまりに醜いせいで地上の世界にいられなくなって、ここに連れてこられたんだから……」 「なに?」 それは本当に耳を疑いたくなるような発言だった。 もちろん、どんなものを美しいと思い、どんなものを醜いと感じるか、美醜の判断基準は人それぞれである。 金色に光る黄金虫の緑色の体を美しいと感じる者もいれば、薄気味悪いと感じる者もいるだろう。 黄金虫が人間の姿を美しいと感じているかどうかは、更に怪しく難しい問題である。 しかし、人間が人間の美醜を判断する時、環境や社会的価値観によって多少の差異はあるにしても、そこには万人に共通した、ある程度の基準がある。 たとえば、呼吸が円滑に行なわれるように鼻梁はまっすぐな方がいい。 目を守るために睫毛は適度な量と長さを有している方がいい。 見るべきものを見るに適した目、会話や食事に適した唇、生存に必要な運動を為すに向いた肢体、筋肉のつき方、姿勢、清潔な肌等々。 そこに個々人の経験的心情や価値観が加わって、人は対象物が美しいか否かを総合的に判断するのだ。 人類共通の美醜判断の基準に照らし合わせると、瞬は文句なく美形に類する姿を持っていた。 そこに氷河個人の判断基準、好み、価値観を加えると、瞬は人類の中でも最上等の美少女だった。 瞬を醜いと感じる者がいたら、それは人間とは違う美醜の基準を持った生き物である。 でなければ、その者は――ハーデスは――何らかの作意もしくは悪意をもって、瞬の耳に 事実とは異なる嘘を吹き込んだのだ。 「ハーデスがそう言ったのか」 氷河の問いに、瞬が小さく頷く。 瞬の誤解の原因はハーデスの作意だと、氷河は確信した。 「僕は、ここにいるしかないの。ここにいれば、僕の醜さが他の人の気分を悪くさせることもない。僕が ここにいることが、人のためになるの。だから、僕は、ここでしか幸せでいられない」 「……」 たとえ瞬の清らかさを損なわないため――瞬に傲慢の罪を犯させないためだとしても、ハーデスは何という残酷な嘘を瞬の心の中に吹き込んだのだろう。 『他の人間が気分を害するほど おまえは醜い』と、冥府の王はどんな顔をして、この瞬に言うことができたのか。 悲しげな瞬の声と震える細い肩が、会ったこともない冥府の王への抑えようのない怒りを、氷河の中に運んできた。 「だから、僕は ここでしか生きていられないの……」 「ここでしか? 馬鹿なことを言うな。もし おまえが本当に醜かったとしても、人はどこででも生きていられるものだろう」 「生きるだけなら そうかもしれない。でも、僕は、人に迷惑をかけずに生きていたいし、できるなら、人の役に立てるものとして生きていたい。ここでなら――ここは、目が見えなくて 僕の醜さを気にしない人たちだけがいる場所だから。だから、みんなが僕を受け入れくれる。転びそうになった人に 僕が手を貸すと、『ありがとう』って言ってくれる。でも、僕が地上に行ったら、目が見える人たちは僕を見て不快になって、僕を取り除こうとする。だから……ハーデスは、僕の身の安全を守るために、僕をここに連れてきてくれたんだって」 「……」 ここは傲慢の罪を犯した者たちが堕とされる煉獄第一冠。 堕とされた者たちは視力を奪われ、自慢の美貌を見ることができなくなるという罰を受けている。 そうなのだと、氷河は思っていた。 だが、事実は少し違っていたのかもしれない。 ここは、目の見えない者には、外見の美しさなどというものは何の意味もない――という事実を学ぶための場所なのかもしれなかった。 そして、瞬は、そういう場所だからこそ、自分は心安らかに生きることができ、幸福でもいられる――と言っているのだ。 それは、ここでは、至極当然で自然な考え方、感じ方なのかもしれない――と思わないでもない。 だが、それでも瞬は間違っていると、氷河は思わないわけにはいかなかったのである。 もし瞬が本当に二目と見られぬほど醜い人間だったとしても、瞬はここにいるべきではない――と。 |