冥界には太陽がない。
冥界に来て どれほどの時間が経ったのか、その時間の流れは、はたして 地上のそれと同じ速さで流れているのか――を、氷河は知らなかった。
空腹も覚えず、眠くもならないせいで、その判断は非常に難しい。
だが、この冥界でも時間が過ぎ流れているのは確かなことだった。

少なくとも、氷河に出会うと瞬が必ず微笑んでくれるようになるだけの時間、氷河が瞬の手や肩に触れても 瞬が怯える様子を見せなくなるだけの時間――氷河の主観で数日――が経ったある時、ふいに瞬が氷河の髪に指をのばしてきた。
そんな些細なことでも、瞬が自分から氷河に接触を試みてきたのは、それが初めてのことで、氷河は瞬の その行動に少なからず驚いたのである。
氷河が見せた驚きの表情を 不快に根ざしたものと思ったのか、瞬はすぐに氷河の髪に触れていた手を引き、その瞼を伏せてしまったが。
「ご……ごめんなさい。氷河が綺麗で――懐かしくて、触ってみたくなったの……」
「……」

瞬は、光であふれていた地上が美しかったことを憶えている。
地上の陽光を懐かしく恋しいと思っている。
それがわかるだけに、氷河は、瞬の臆病が焦れったくてならなかった。
「俺なんかより、おまえの方がずっと綺麗だ。俺の言葉を信じてくれ。勇気を出してくれ」
「僕が氷河の百分の一でも美しかったら、地上に帰る勇気を持てていたかもしれない……。でも――」
瞬の中で何かが変わってくれたのかもしれない――という氷河の期待は裏切られた。
瞬は相変わらず、怯える必要のないものに怯えていた。
なぜ人は、自分の目で自分の顔を見ることができないのか。
これまで不都合と思ったこともなかった その事実に、氷河は腹が立ってきてしまったのである。
本当に どうしたものかと、氷河は頭を抱えたくなった。

アーレスがそうしたように、瞬を無理矢理 冥界からさらっていくわけにはいかない。
かといって、あまり悠長に構えてもいられない。
地上では 愚かな人間たちが愚かな戦いが始めてしまうかもしれない――もしかしたら、その戦いは既に始まっているかもしれない――のだ。
アテナの聖闘士らしく(?)戦ってどうにかなることなら対処の術もあるのに、瞬と戦い、瞬を倒しても問題は解決しない。
氷河は、溜め息を禁じ得なかった。

「俺は、アテナの聖闘士になってから――いや、それ以前も、戦ってばかりいた。戦いしか知らない男だ。俺はおまえを連れ戻しに来たのに、どうすれば おまえに俺の言葉を信じてもらえるのか、 どう言えば おまえを説得できるのかも わからない。自分がこれほど不器用な男だとは思ってもいなかった……」
「戦いしか知らない……?」
「地上には、言葉や理屈では 戦いの無益をわかってくれない馬鹿者共が多いからな。俺は そういう奴等を力で説得する役目を負った者なんだ」
「氷河は、そういう人たちと戦ってばかりいたの? これまでずっと?」
「ああ」

アテナの聖闘士がどういうものなのかを知った上で、自らの意思でアテナの聖闘士になったのだから、戦いに明け暮れる日々や 戦いに勝つことを求められる日々を つらいと思ったことは、氷河はこれまで一度もなかった。
しかし、その合間に、せめて女を口説く術くらいは身につけておくべきだったと、氷河は今は後悔していたのである。
そうすれば、瞬に その美しさを自覚させ、瞬を説得して地上に連れ帰ることも、もう少し上手くできていたのではないかと。
確かに後悔は先に立たないものである。
戦い三昧で過ごしてきた これまでの日々を、氷河は今は後悔していた。

「氷河、かわいそう……」
小さな声で そう呟いて、瞬が氷河の頬に触れてくる。
戦いのない この冥界で長く過ごしてきても、戦いを恐れ厭う気持ちは、5歳の時と変わらず、瞬の中にしっかりと残っているらしい。
氷河が過ごしてきた戦いの日々を我がことのように つらく感じているような目をして、瞬は氷河を見詰めてきた。

「おまえは優しいな……」
何の益にもならない戦いを始めようとしている人間たちで あふれている地上に、この瞬を連れて帰ることは、瞬の美醜とは関係のないことで 瞬を苦しめることになるかもしれない――。
そういう不安に、氷河が囚われかけた時だった。
「え……?」
瞬が、ふいに、ぽっと その頬を上気させたのは。
これまで幾度『おまえは綺麗だ』と言っても、決して氷河の言葉を信じようとせず、ただただ悲しげな様子しか見せてくれなかった瞬。
その瞬が、初めて、悲しみではない反応を見せる。
『おまえは優しい』という言葉に、瞬は、恥ずかしそうに、嬉しそうに、そして可愛らしく はにかんだ。

その瞬間に、氷河は悟ったのである。
どうすれば、瞬を説得し、すっかり頑なになっている瞬の心を変えることができるのか。
どうすれば、瞬に勇気を持たせることができるのかを。
なぜ これまで気付かずにいたのかと思う。
瞬の美点は、外見の美しさだけではないのだ。
その優しさ、素直さ、清らかさ。
そういった美点に比べたら、外見の美しさなど、燃え盛る太陽に対する蛍の冷光ほどにも価値のないものだった。
瞬は、自分が美しいことなど知らなくてもいいのだ。

その真理に辿り着いた途端、氷河は自分の中にあった不安や ためらいを すっかり忘れ、張り切って、これまで以上の熱意をもって瞬説得に取りかかったのである。
「おまえが自分を醜いと思うなら、それでもいい。そんなことは、おまえが優しい心の持ち主だということに比べたら、小さな綿埃ほどの意味も重みもないことだ。俺はおまえが好きなんだ。おまえと ずっと一緒にいたい。だから、俺と一緒に地上に帰ってくれ。もし おまえを醜いと そしり、おまえに つらく当たる者がいても、俺が必ず おまえを守るから」
「あ……の……」

あまりの楽しさに氷河が笑い出したくなるほど、瞬の反応は わかりやすく あからさまだった。
瞬は、氷河が驚くほど――それこそ耳まで真っ赤に染めて、氷河の前で もじもじし始めたのだ。
「ひょ……氷河みたいに綺麗な人が僕なんかと一緒にいたら、氷河まで馬鹿にされるよ……」
「言いたい奴には言わせておく。俺が好きになったのは、おまえの姿形ではない。おまえの その澄んだ瞳だ。綺麗で優しい、その心だ」
「ぼ……僕は、そんな、氷河が言うような――」
「俺は地上に帰らなければならないんだ。いつまでもここにはいられない。だが、俺は おまえと別れてしまいたくない。頼む、俺と一緒に地上に帰ってくれ……!」

本心では、瞬もそれを望んでいることは明白だった。
おそらく、瞬にとって 氷河は、初めて瞬の美点に気付き、認め、言及した人間なのである。
瞬は氷河によって、初めて人に褒められるという経験をした。
それだけで、瞬にとって氷河は かけがえのない人間になってしまったのだろう。
氷河にとっては、実に幸運なことに。
「氷河……でも、僕……」

それでも、ためらい、怖気おじける瞬の首筋に手をまわし、指で顔を上向かせ、氷河は瞬の唇に唇を重ねていった。
瞬がキスの意味を知っているのかどうかは、氷河にはわからなかったが、それが特別な親愛の情を示すための行為だということくらいは、瞬にも察することができたのだろう。
これで瞬は白鳥座の聖闘士の言うことをきくようになる。
ほとんど そう確信して、瞬を更に強く抱きしめようとした氷河は、だが、突然 瞬の激しい抵抗に会ってしまったのである。

「だ……だめっ。氷河みたいに綺麗な人が、僕みたいな醜い人間に……!」
叫ぶように そう言って、瞬は氷河の胸を押しのけようとしてきた。
瞬はもう自分のものだと確信しかけていたところだっただけに、氷河には それは思いがけない抵抗だった。
悪いのはハーデスだと思いはするのだが、どれほど言葉と誠意を尽くしても 素直になってくれない瞬にも腹が立つ。
恋人のキスより 自分の醜さの方が、瞬には重大事だとでもいうのだろうか。
思い切り機嫌を損ねて、氷河は瞬を責めることになった。

「おまえは俺の外見しか見ていないのか!」
「え……」
「俺の姿が二目と見られないくらい醜かったら、おまえは俺を不快に思い、優しくしてくれず、嫌い、こうして話をすることさえしてくれないのか!」
「そ……そんなことあるはずないでしょう……!」
氷河のために彼を突き放そうとした瞬には、氷河の憤りは 思いもよらないことだったのだろう。
氷河の剣幕に、瞬は驚き、怯える素振りをさえ見せた。
肩を小刻みに震わせ始めた瞬に、氷河はつい憐憫の気持ちを覚えることになったのだが、そんな自分を内心で叱咤して、氷河は あえて瞬を責め続けたのである。

「人の目にどう見えるのかは知らない。だが、俺の目には、おまえが美しく見える。ここにいる誰より、地上で会ったことのある誰より。それだけでは足りないと、おまえは言うのか!」
「そ……そうじゃなくて……。氷河は優しいから、そんなこと言ってくれるんだよ。そんな氷河が僕のせいで人に見下されるようなことになったりしたら、僕……」
「ああ、もういい。おまえが救い難いほど卑屈な人間だということは、よくわかった。もういい」

傲慢の罪と卑屈の罪。
その二つは ほとんど同じ害悪だと、氷河は思ったのである。
それらは どちらも、自分だけが特別だと思う心から生まれてくるものなのだ。
腹立たしいほど根の深い瞬の卑屈。
それでも瞬の本質は優しさなのだと思うから、氷河は、瞬を嫌い見限ってしまうことができなかった。

「俺も醜くなればいいんだな? ああ、ついでに目も見えなくなってしまえばいい。そうすれば、おまえは、自分より醜い者がいることに安心して、卑屈でいることをやめ、俺の心を信じてくれるようになるんだ。そうしなければ、信じてくれない――」
「氷河……何を……」
足元にあった矢じり状に尖った石英に似た石を、氷河が拾いあげる。
氷河は、自分の顔の造作になど大したこだわりはなかったし、目が見えなくなっても自分は常人と変わらぬ生活をしていけるだろうという自信もあった。
だから彼は完全に本気だった。
顔を切り裂き 目を傷付けることで瞬を手に入れることができるのなら安い物だと、氷河は本気で思っていたのである。
しかし、瞬にはそうではなかったのだろう。
氷河が何をしようとしているのか。
それを察するや、瞬は震え上がって、鋭い凶器を握りしめている氷河の手に飛びついてきた。

「だめっ! 氷河、そんなことしないで! 僕は氷河を信じられないんじゃないの! ただ……ただ、恐いだけなの……!」
そうなのだろう。
瞬は、おそらく嘘は言っていない。
自分が醜いことも、そのせいで自分が人に傷付けられるかもしれないということも、それは本当は瞬には重要な問題ではない。
瞬はただ、勇気を持てずにいるだけなのだ。
他の誰でもない氷河のために。

それがわかるから、氷河は手にしていた石を地に投げ捨てた。
そして、努めて優しい声を作り、瞬に告げる。
「瞬。俺と一緒に来てくれ。俺はおまえが好きなんだ」
「氷河……」
「俺は、おまえなしでは生きていられない。おまえと離れたら、俺はきっと死んでしまう」
死者の国で言う台詞かと思ったが、氷河は本気でそう思っていたし、瞬も氷河のその言葉を笑うようなことはしなかった。
氷河の命は、瞬には 自分の未来よりも大切なものだったらしく、氷河のその訴えを聞いて、瞬はやっと氷河の望む決意をしてくれたのである。

「僕、氷河と一緒に地上に行く。恐いけど、勇気を出す」
ついに手に入れた瞬の決意。
それは、氷河には 恋の告白より深く重く感じられる言葉だったので、彼は 甘い言葉でもなく優しい言葉でもなく、
「ありがとう」
という言葉を、瞬の前に差し出したのだった。






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