ラウンジに向かった氷河と星矢は、そこで、複雑怪奇な顔をしてソファに腰をおろしている紫龍の姿を見い出すことになった。 彼の目の前にあるセンターテーブルの上には大きなダンボール箱が一つ置かれており、どうやら そのダンボール箱にグラードの食品部門が開発した新商品が収まっているらしい。 そして、その新商品が紫龍の顔を複雑怪奇なものにしている原因のようだった。 「紫龍、なんで おまえ、そんな顔してんだよ? これ、みんな食っていいのか?」 大量の食べ物を前にして笑顔になれない人間というものが、星矢には理解できない存在だったのだろう。 彼は、心底から不思議そうな目を龍座の聖闘士に向けた。 紫龍に“そんな顔”の訳を尋ねながら、星矢の心は既にダンボール箱の中に収まっている大量のおやつの上に飛んでいっているようだったが。 そんな星矢の様子を見て、それでなくても複雑怪奇な様相を呈していた紫龍の顔は更に いびつの度合いを増した。 「これが嬉しそうにしていられるか。沙織さんが俺たちに食わせようとしているものは、なんとチョコレートでコーティングされた納豆なんだ。『外はスィート、中はねばねば。奇跡の香りのハーモニー』とかいうのがキャッチコピーらしくて、箱の蓋を開けた途端、強烈なチョコレートと納豆の匂いに襲われた。どうすれば、まともな味覚と嗅覚を持った人間に 納豆とチョコレートを組み合わせようなんて恐ろしいことを考えることができるんだ。俺には そもそも そんなことを考えつく人間の存在が信じられん」 「チョコレートと納豆? 実に凶悪な組み合わせだな」 氷河は紫龍に同調したが、星矢は グラードの新商品に臆する様子は見せなかった。 氷河と紫龍の嫌そうな顔を見て、星矢は むしろ自分の取り分が増えたことを喜び、凶悪な組み合わせの おやつが入っているダンボール箱に弾けるように飛びついていったのである。 「おまえら、おかしいんじゃねーの? チュコと豆なんて、すっげー普通の組み合わせじゃん。嫌なら俺が全部 食ってやるよ!」 言うなり、星矢はダンボール箱に手を突っ込んで問題のブツを取り出し、プラスチック包装容器をびりびりと音を立てて破って、“一見したところはチョコボール、しかし匂いは別の何か”なそれを張り切って食し始めた。 紫龍が最初にダンボール箱の封を切った際に、箱の中にこもっていた匂いは ある程度拡散していたのか、星矢がチョコ納豆の個包装の袋を破っても、ブツの匂いは 氷河が想像していたほどにはひどいものではなかった。 それでも氷河は、嬉々としてチョコ納豆に貪りつく星矢の近くにいたくなくて、速やかにラウンジの窓際に避難したのであるが。 そして、氷河は、 「これ、フツーに美味いぜ? おまえら、食わず嫌いはよくねーって」 とか何とか言いながらチョコ納豆を頬張る星矢に、嫌悪の視線とも尊敬の視線ともつかない視線を、避難場所から向けたのだった。 「階段を下りながらのピーナッツの投げ食いのあとは、チョコ納豆か。俺も、おまえのようにダンゴムシ並みの食い意地があればよかった。そうすれば、瞬に心配してもらえたのに」 氷河は、自分が星矢の食欲を嫌悪しているのか尊敬しているのかが、自分でもわかっていなかった。 ただ、彼は星矢を羨んではいたのである。 瞬にどう思われるかに屈託することなく自由に振舞ったあげく、当たりまえのように瞬に気遣ってもらえてしまう星矢の天衣無縫を。 まずは200グラム1袋分のチョコ納豆を平らげた星矢が、氷河のぼやきを聞き逃さず、仲間に尋ねてくる。 「何だよ、そのダンゴムシ並みの食欲って。フツー、ブタ並みとか言わねーか? つーか、ダンゴムシって、そんなに食い意地張ってんのかよ?」 「おまえの上をいくだろうな。ダンゴムシは、肉も食えば、葉っぱも食う。ピーナッツの投げ食いはしないだろうが、チョコ納豆くらいなら平気な顔をして食うだろう。なにしろ、コンクリートを食うくらいだからな」 「コンクリートぉ !? それ、うまいのかよ?」 「知るか。俺はダンゴムシじゃない。階段を下りながらピーナッツの投げ食いをして すっ転ぶような阿呆でも恥知らずでもないしな」 「……」 ダンゴムシの食欲に言及しながら、氷河は ピーナッツの投げ食いにこだわり続ける。 事ここに至って、星矢はやっと気付いたのだった。 氷河の不機嫌は、仲間のゾウリムシ並みの食欲のせいではなく、先ほどの瞬の無用な親切と心配のせいなのだということに。 瞬が 自分以外の男に 「瞬に心配してもらったり助けてもらったりしたいなら、ピーナッツの投げ食いなんかしなくても、何もないところで すっ転んでみせればいいだけのことだぜ。瞬は、すぐに駆けつけてきてくれる」 落下、転倒、つまみ食い――各種失敗をして瞬に助けてもらうことが習慣になっている星矢が、今ひとつ素直でない氷河に、瞬に心配してもらうための極意(?)を伝授する。 しかし、氷河は、星矢の助言を にべもなく撥ねつけた。 「何もないところで すっ転ぶなんて、瞬の前で そんな格好の悪いことができるか」 「おまえ、なに言ってんだ? おまえが今更 瞬の前でカッコつけようなんて、思うだけ無駄だろ。これまで散々、瞬にカッコ悪いとこ見せてきてるんだから」 「俺がいつ 瞬の前で格好の悪いことをしたというんだ」 「へ?」 2袋目のチョコ納豆に挑むべくダンボール箱の中にのびかけていた星矢の手は、氷河の反駁に驚いたせいで、その動きを止めることになった。 否、星矢の手は、むしろ氷河の言葉の発する凍気に凍らされてしまった――と言った方が より正確な表現だったかもしれない。 星矢にとって、氷河の言葉と現実の乖離は、チョコレートと納豆の組み合わせの100倍も あり得べからざるものだったのである。 「おまえ、してないつもりなのか? 瞬の前でカッコ悪いこと?」 「だから、俺がいつ――」 少なくとも 自分は投げたピーナッツをキャッチし損ねて階段を転げ落ち、床と熱烈なキスを交わしたことはない。 それが、氷河の認識だった。 「おまえ、つくづく大物だよなー……」 氷河の大物振りに呆れて、星矢が嘆息の中に逃げ込む。 星矢の代わりに、氷河が瞬の前でしでかした格好の悪いことを、氷河に思い出させる仕事を取りかかったのは某龍座の聖闘士だった。 「言いたくはないが……」 紫龍が そう前置きをしたのは、言いたくないことを言わなければならない状況に龍座の聖闘士を追い込んだのは あくまでも白鳥座の聖闘士であることを 氷河に知らしめておこうとする用心――ではなかっただろう。 彼は本当に言いたくなかったのだ。 仮にも自分の仲間である男の尋常ならざる格好の悪さについて。 「おまえは、いつも星矢より派手に転んでいるだろう。双児宮でも天秤宮でも、おまえの すっ転び方は、星矢など足元にも及ばないほど大胆かつ派手だった。そして、おまえは そのたび瞬に助けてもらってきたわけで、あれを格好のいいことだと言う人間は、世界中探しても一人もいないと思うぞ」 「う……」 自分の派手な転倒事故を思い出し、氷河は一瞬 言葉と声を失うことになったのである。 氷河は、星矢と違って それらの失敗失態を 平和な日常生活の中で ふざけて犯したわけではなかった。命をかけた戦いの中で、極めて真剣に、大真面目に、氷河は転倒し、失敗し、失態をさらしてきた。 そのため、それらの転倒事故は、悲劇や不幸ではあっても、決して格好の悪いことではなかったのである。氷河の中では。 しかし、それらの失態が悲劇中でのエピソードであれ 喜劇中のエピソードであれ、格好のいいものではないという事実は、氷河自身も認めないわけにはいかない、冷酷非情な現実だった。 星矢とは比べものにならないほど派手な失敗で 瞬に助けられてばかりいた自分に気付かされた氷河が黙り込む。 そんな氷河に、紫龍は、あくまでも言いたくなさそうに、長広舌を振るい始めた。 「ダンゴムシには、交替性転向反応という習性がある。前進していて、分岐路や障害に当たったら、まず右に曲がり、次に左に曲がり、そのまた次には右に曲がりと、曲がる方向を左右交互に変更する性質だ。ダンゴムシは、前回 自分がどちらに曲がったかを覚えていて、次には違う方向に曲がる。同じ方向にばかり曲がっていると、元の場所に戻ってしまう可能性があるから、それを避けるためらしいが、つまり、ダンゴムシには記憶力と学習能力があるんだ。同じような失態を繰り返しているおまえより、ダンゴムシの方が よほど利口かもしれんぞ」 白鳥座の聖闘士はダンゴムシ以下だと、情け容赦なく言ってのける紫龍に、氷河はむっとしなかったわけではない。 自分という人間に対する、そこまで厳しく辛辣な評価を 喜んで受け入れることができたなら、その人間は真性のマゾヒストだろう。 だが、氷河は、紫龍の厳しい評価に反論することはできなかったのである。 同じ方向にばかり曲がって、同じような失敗ばかりを繰り返してきた自分を、他ならぬ氷河自身が誰よりも よく知っていたから。 とはいえ、紫龍が彼の仲間に対して そこまで厳しい評価を口にしたのは、彼が真性のサディストだったからではなく、 「さっさと瞬に好きだと告白して、専属契約を結んでおいた方がいいぞ。おまえの転び方は、星矢も真似できないくらい派手で、瞬にしか助け起こせない」 という忠告を氷河に与えるためだったらしい。 そして、紫龍が氷河に そう忠告(むしろ挑発)したのは、それこそが 氷河が直近で成し遂げなければならない彼の人生の大事業だと考えていたから。 つまり、紫龍は氷河の背中を押してやったつもりだったのである。 星矢に低次元の焼きもちを焼いているくらいなら、さっさと自分の為すべきことを為せ――と。 当然 紫龍は、仲間の忠告(むしろ挑発)に対して、氷河は それなりのリアクションを示してくるものと思っていた。 が、氷河は、相変わらず 仲間たちの前で黙り込んだまま。 氷河のノーリアクションを怪訝に思い、紫龍は眉をひそめることになった。 氷河が なぜ この場面でノーリアクションなのか。 その訳に、紫龍より先に気付いたのは、野生の勘と根性だけを武器に自らの戦いを戦い、勝利を得ることを得意技としている某天馬座の聖闘士だった。 「したのか !? 告白!」 星矢は なぜ、こうも勘がいいのか。 そう思っている空気を、氷河が自らの周囲に漂わせる。 その空気を読めば、氷河の告白が首尾よく運んだのでないことは明瞭明白。 にもかかわらず、 「で? 瞬の返事は?」 と訊いてしまえるところが、星矢の星矢たる ゆえんである。 そして、すぐに答えを返してこない氷河に、 「振られたのかよ !? 」 と、大声で確認を入れてしまえるところが、恋を知らない男の無邪気な残酷さだった。 「なんだよ〜。ほんとに振られたのか?」 星矢が気抜けしたような――むしろ、振られた仲間を責めるような声で、氷河の傷口を更に えぐってくる。 ここで沈黙を守り続けていたのでは、自分は星矢に致命傷を負わされてしまう。 氷河が重い口を開いたのは、そう考えたからだった。 瞬にならともかく、星矢に殺されるような事態だけは どうあっても避けなければならないと思ったから。 「振られる以前の問題だ。俺が瞬を好きなのは、錯覚だと言われた」 「へ? 錯覚? 錯覚って、どういうことだよ?」 「まあ、いくら可愛くて優しいと言っても、瞬は男なんだ。瞬がそう思う気持ちは わからないではない――いや、むしろそう思うのは当然で自然なことだろう。瞬は、氷河に比べれば はるかに常識人だ」 それは 振られた男への いたわりなのか、それとも、紫龍は失恋男の傷口に塩を塗り込もうとしているのか。 なかなかに判断の難しい紫龍の言に、氷河は首を横に振ってみせた。 「いや。そういう意味で言っているのではないようだった」 「じゃあ、どういう意味で瞬はそんなこと言ったんだよ?」 「わからん。このことは互いに忘れて、今まで通りの俺たちでいようと言って、あれ以来 瞬は本当に俺に告白されたことを忘れたように振舞っている」 「……」 瞬の真意は、瞬ならざる身の星矢には――紫龍にも――当然のことながら、わからなかった。 瞬がこの場にいれば、星矢は持ち前の無邪気な無神経さで、瞬にその言葉の意味するところを尋ねていっていただろうが、残念ながら 今 瞬はこの場にいない。 星矢は、だから、今の彼に確かめられることを確かめることをしたのである。 つまり、瞬に振られた(らしい)男に、 「で? 諦めるのか?」 と尋ねることを。 その質問に対する氷河の返事は、 「まさか」 という即答。 氷河の迅速かつ短い答えに、星矢と紫龍は深く頷いた。 諦めが悪いのが、アテナの聖闘士の身上。 諦めがよくては、アテナの聖闘士などという激務は誰にも務まらない。 もっとも、星矢たちが氷河の返答に頷いたのは、氷河の諦めの悪さを是とする思いの他に、色よい返事をもらえなかったからといって、すんなり『では次の恋に』と気持ちの切り替えができるわけではない氷河の不器用さを、彼等がよく知っていたせいでもあったろう。 氷河の答えは、氷河の仲間たちには至極納得のいくものだったのだ。 「専属契約の約束手形をもらえるまで、瞬はおまえに つきまとわれるわけか。瞬も大変だなー」 「氷河に惚れられたのが運の尽きというわけだ」 「でも、瞬の奴、なんで氷河を振ったんだ? 瞬の奴、氷河を好きだよな? 俺の勘はそう言ってるぜ」 星矢は、決して、振られた男を慰めるために そんなことを言ったのではなかったろう。 星矢は、義理一編の慰めなど言える男ではない。 星矢は、そんな気遣いはしない――できないのだ。 そして、氷河が、 「おまえの勘など……」 『信用できない』と言いかけた言葉を途切らせたのは、そんな気遣いのできない星矢を知っていたからではなく、星矢の勘が信頼できないものではないことを知っていたから。 星矢の勘が、外れたことはなかった。 考えて導き出した結論が見当違いであることはあっても、星矢の勘はこれまで いつも、星矢と彼の仲間たちを正しい答えに導いてきていたのだ。 そして、紫龍の論理的思考も。 「あろうことか、おまえに対する これまでの瞬の言動を観察し、洞察判断して導き出される俺の答えも 星矢の勘と同じだ。俺の感情は、なぜ瞬が よりにもよって瞬の前で すっ転んでばかりいるおまえを好きにならなければならないんだと わめくんだが、瞬の態度はどう見ても おまえを好きな者のそれだと、俺の理性は主張する」 義憤という感情に支配され ぶち切れた時の紫龍が唱える理屈は いつも超論理的で聞くに耐えないが、冷静な時の紫龍の洞察力、判断力は、滅多に誤ることがない。 更に言うなら、冷静な時の紫龍は、情より義を重んじる男。 お座なりの慰撫など無意味と考える男だった。 そういう二人の仲間が、星矢は直感で、紫龍は理詰めで、瞬は白鳥座の聖闘士に特別な好意を寄せていると主張してくるのである。 楽観でもなく、うぬぼれでもなく、希望的観測に突き動かされてのことでもなく――氷河は、星矢と紫龍の言葉を信じずにいることができなかった。 「そうだな……。ピーナッツどころか、コンクリートも食うダンゴムシ並みの食い意地を持つ星矢なんかと違って、瞬はおくゆかしく控えめなんだ。きっと何か遠慮しているか、恥ずかしがっているんだろう。俺が情熱的に迫り続ければ、瞬もいずれは――」 いずれは、白鳥座の聖闘士を受け入れることが、自分が幸福に至るための唯一の道なのだと認めてくれるようになるだろう。 そう、氷河は思ったのである。 そう思う以外に、今の彼にできることはなかったから。 瞬は いずれは白鳥座の聖闘士の思いを受け入れてくれるだろう――と。 万一 そうならなくても――今の氷河には、他に道は与えられていなかった。 今の氷河には、他の道は見えていなかったのである。 右に曲がる道も左に曲がる道もない。 瞬に向かって まっすぐにのびる、ただ一筋の道しか。 |