俺が初めて瞬に会ったのは、見知らぬ国、見知らぬ町、見知らぬ家の春の庭だった。 俺は、9歳――いや、10歳になっていたかもしれない。 その数日前まで、俺はたった一人で、雪と氷に覆われた白くて寒い国にいたんだ。 名前も出自も名乗らない大人たちに引きずられ、小突きまわされ、事情も説明されずに、どこに向かうのかもわからない大きな、だが古い船の陽の光も射さない船倉に投げ込まれて数日。 暗くて、寒くて、じめじめしていて――1週間以上そこに閉じ込められていたら、たとえ十分なパンを与えられても絶対に悪い病気になっていただろう船倉から、俺は突然 その庭に放り出された。 明るく、暖かく、優しい色のたくさんの花たちが声のない微笑のように咲いている春の庭。 俺は、自分は あの船の中で死んで 天国に来たんだと思った。 目の前に天使がいたから。 花のように可愛い天使だ。 今の俺なら、いのいちばんに その天使に名を尋ねていただろう。 だが、あの頃の俺は まだ そういうことに気のまわらない馬鹿なガキだったから、目の前にいる可愛い天使より、ここでなら会えるはずの人のことの方が気になった。 天国ならマーマがいるはずだと考えた俺は、その天使に 天使の名じゃなく、マーマはどこにいるのかと訊いたんだ。 その天使は、『マーマはここにはいないけど、代わりに僕と仲良くして』と言った。 その天使が瞬だった。 瞬が天使でないことには、まもなく気付いたんだがな。 天使は、ほころびを繕ったあとが何箇所もある古い服なんか着ていないだろうから。 ああ、でも、あの時の瞬の瞳はとても澄んでいて、本当に綺麗で、俺は 自分が瞬を天使と見間違えたことを とんでもない失敗だとは思わなかった。 天使が地上に下りてきたら、その天使はこういう目をしているに違いないと思ったから。 その見知らぬ家は、ある種の能力に秀でた人間を育成するための施設を備えた豪邸で、俺と同じ年頃の子供が何十人も集められていた。 その子供たちのほとんどは身寄りのない孤児だったんだが、それでも、それだけの数の子供に飯を食わせ、服を着せ、寝場所を提供するには相当の金がかかっていただろう。 それほどの多大な投資をしても、手に入れたい特殊な力。 だというのに、そこで子供たちの監視をしている大人たちは、その力がどういうものなのかが全くわかっていなかった。 せいぜい“敵を捻じ伏せ屈服させる力”“敵に勝利する力”程度の認識しか持っていなかったんだろうな。 奴等は、それを腕力や運動能力の一種だと思っていて、だから そこにはその手の運動器具が一通り揃っていた。 筋力や持久力を養うための器具、格闘技の試合ができるようなリングやマットもあったな。 よりにもよって、そんなところに、天使が一人 紛れ込んでいたんだ。 大天使ミカエルのように戦うことが仕事の天使もいるだろうが、瞬はそういう天使じゃない。 仲間と戦い勝利することを求められて、瞬はいつも泣いていた。 俺はどうだったのかって? それが、よく憶えていないんだ。 多分、適当にやってたんだろう。 俺が憶えているのは瞬のことだけだ。 瞬が いつ、何のせいで、誰のせいで、どんなことがあって、どんなふうに泣いたか。 楽しいことも美しいものも皆無といっていいような境遇の中で ささやかな喜びを見付けて――それはせいぜい 綺麗な花や青い空に出会うくらいの、本当にささやかなものだったんだが――嬉しそうに輝く瞬の瞳。 瞬が みんなのために無理に作る笑顔。 俺たちが怪我をしたり喧嘩をしたりするたび、切なげに俺たちを見詰める瞬の心配顔――。 あそこに集められていた子供たちは皆、身勝手な大人たちの理不尽な暴力によって 望まぬ環境に置かれた者たちだった。 だから俺たちは、多かれ少なかれ 大人というものを憎み、そういう理不尽が許されてしまう世の中に拗ねていたんだが、瞬だけは違っていた。 瞬の瞳は、いつも澄んでいて――そして、素直で まっすぐだった。 涙で潤んでいることが多かったのも事実なんだがな。 瞬はいつも本当に可愛かった。 マーマが俺の側にいないことを、俺に忘れさせるくらいに。 俺がマーマのことを思い出したのは、瞬と引き離されたからだ。 その家で、俺が瞬と一緒に過ごしていられたのは1年足らず。 やがて俺たちは、聖闘士になるための修行をする場所に――世界中のあちこちに――ばらばらに送り込まれることになった。 俺は東シベリア、瞬はインド洋に浮かぶ絶海の孤島。 直線距離で数千キロ。 冗談も大概にしろと、俺は思ったな。 |