シベリアでの修行は、それなりに つらかったと思う。
普通なら親の庇護のもと 小学校に通っている年頃のガキに、素手で氷の山をかち割れだの、氷点ぎりぎりの水温だから かろうじて凍っていない海を何キロも泳げだのと無理難題を言う師匠。
飢えて凶暴になっているだけで、どんな悪さもしていない北極熊を倒せと言われたこともあった。
俺は 毎日 生傷が絶えなかった。
だが、瞬に会えないことに比べたら、そんな修行は 大してつらいことじゃなかったんだ。
実際、毎日ぼろぼろになりながら、俺は何とか師の言う無理難題をこなせていた。

俺がつらかったのは、俺が氷の山や冷たい海水と格闘している まさにその瞬間、遠く離れた絶海の孤島の浜辺で泣いているに違いない瞬の側にいてやれないこと。
そして、瞬は つらい修行に耐え兼ねて死んでしまってるんじゃないかとか、瞬はまだ生きていてくれているんだろうかとか、そういうことを考えることだった。
考えるとつらいなら、考えなければいいと思うのに、俺は考えずにはいられなかったんだ。
俺は、まあ、殺されても死なないような生意気なガキだったし、だから俺は自分のことは心配していなかった。
他の奴等も俺と似たり寄ったりで、どいつもこいつも『死ね』と言われたって大人しく死ぬようなタマじゃない。
だが、瞬だけは――瞬にだけは、きっと生きて帰ってきてくれるという確信が持てなかったんだ、俺は。

体力も抵抗力もない子供なんて、俺を含めて誰だって簡単に死ねるものだ。
つらい修行を課されなくても、気候のいい安全な場所で親に守られて暮らしているガキだって、死ぬ時は風邪ひとつで すぐに死ねる。
他の奴等の生還は信じることができるのに瞬の生還にだけ確信が持てないというのは、単に俺が瞬以外の奴等のことを本気で心配していなかっただけのことだったろう。
実際、世界各地に送り込まれた100人近い聖闘士候補のうち、聖闘士の資格を得て日本に帰ってきたのは、たった10人だけだったんだから。
他の奴等は、修行中に命を落としたのか、あるいは逃亡を企てて成功したのか――ともかく、生きて日本に帰ってきたのは僅か10人だけだった。
その10人の中に瞬は入っていたのかって?
ああ、もちろんだ。
俺の心配は杞憂だった。

ずっと後になってから聞いたんだが、瞬は聖闘士になるための修行は さほどつらくはなかったと言っていた。
瞬が送られた修行地には、瞬に親切にしてくれる仲間もいて、瞬の指導に当たった師も温厚で 誰に対しても公平な人格者だったそうだから。
まあ、俺が俺の師に言われたのと同じくらいの無理難題は言う師匠だったらしいが、俺が何とか その無理難題をこなせていたように、瞬も与えられた課題は何とかクリアできていたんだそうだ。
クリアできてしまうから――瞬は、この程度のなまぬるい修行で 本当に自分は聖闘士になることができるのかと、疑うことさえあったそうだ。
瞬が つらかったのは、競争相手である仲間を傷付け倒さないと聖衣を手に入れられないこと。
それがわかっていたから、毎日の修行は なまぬるく感じられるものであったにもかかわらず 重いものだったと、瞬は言っていた。

ともかく、俺は、6年――いや、7年近かったのか。
それだけの時間を経て、瞬に再会した。
季節は春ではなく秋――もう冬になっていたかもしれない。
瞬は相変わらず小さくて細くて――もちろん離れて生きていた時間の分だけ、瞬の背は伸びていたんだが、それは俺も同じだったからな。
それは長い時間だったのに――子供が大人のそれに近い心を持つようになって当然なだけの時間が経っていたのに――瞬の瞳は相変わらず澄んだままだった。
懐かしい、澄んで綺麗な瞳に 俺の姿を映して、瞬は俺との再会を喜んでくれた。

東シベリアの奥地なんて、人のほとんどいないところで修行していた俺は、聖闘士としての戦闘能力はともかく、コミュニケーション能力に少々問題があったんだが、瞬は俺の不器用をわかってくれて、俺が無愛想にしていても、いつも にこにこしていてくれたな。
もっとも、日本に帰国してから、俺たちは息つく間もなく戦いに駆り出され、その戦いの日々の中で、俺が瞬の笑顔を見る機会は徐々に減っていったんだが。

瞬の力はひどく不安定だった。
強いのか弱いのかがわからなくて――聖闘士である俺にも、瞬の力がどれほどのものなのか、正確に把握することはできなかった。
聖闘士には小宇宙といって、戦闘能力や闘志や覇気のレベルを計ることのできる“気”のようなものがあるんだが、瞬は その小宇宙の力に大きな波があった。
運動能力や戦闘技術は高レベルのところで安定していて ムラはなかったんだが、戦いに対峙する瞬の気持ちは、臆病なウサギのように弱く小さかったり、飢えたトラのように強く激しかったりした。
瞬の力の不安定は、瞬が懸命に力を抑えながら戦っているせいなんだということに俺が気付いたのは、十二宮での戦いが始まってからのことだった。

そういえば、話していなかったな。
聖闘士というのが何なのか、肝心のことを。
聖闘士というのは、女神アテナの統率のもと、地上の平和と安寧を守るために邪悪と戦う闘士のことだ。
これほど瞬に似つかわしくない仕事もないだろうと思えるほど殺伐とした仕事をする肉体労働者だな。
戦いはいつも命がけで、瞬や仲間たちだけを見て戦っていた間は、俺も微力ながら それなりの戦力になれていたと思う。
だが、戦いの最中にマーマのことを思い出したのが運の尽き。
俺は、アテナをアテナとして認めようとしない敵に――といっても、それは俺を聖闘士に育てあげてくれた師匠だったんだが――倒されてしまったんだ。

倒されてしまったといっても、死んだわけじゃない。
今 こうして おまえに思い出話をしている俺は 幽霊なんかじゃない。
俺は絶対零度の氷の棺の中に閉じ込められて――つまり、氷づけの標本にされてしまったんだ。
肉や野菜を冷凍庫に入れて凍らせると、原子の運動レベルが低下して、腐敗も成長もしなくなるだろう。
ああいう状態だな。
ただし、絶対零度の低温の中では、原子の運動レベルは低下するんじゃなくて ほぼ完全に停止する。
俺は、俺の身体の全細胞があらゆる活動を止めた状態にさせられたんだ。
そのままの状態が長く続けば、活動が止まっているだけの細胞も やがては死に至り、再び生き始めることは不可能になっていただろう。

そうなるはずだったんだ。
カミュの――俺の師の凍気は絶対零度。
その凍気に犯された俺の身体と心は、どんな力をもってしても二度と熱を帯びることはないはずだった。

そんな俺を自分の命を捨てて助けてくれたのが瞬だった。
その時、俺は初めて気付いたんだ。
瞬は自分の力を使いたくなくて、時には意識的に、時には無意識のうちに、力を抑えて戦っていたんだということに。
たとえ それが自分の命を奪おうとしている敵であっても、瞬は人を傷付けたくはなかったんだろう。
だが、仲間の命を救うためになら、力を抑える必要はない。
瞬は、俺を生き返らせるために、おそらく聖闘士になって初めて、持てる力のすべてを解放した。

瞬が初めて全力をもって燃やした瞬の小宇宙は、強く、温かく、そして 信じられないほど美しかった。
その強さ、温かさ、美しさに惹かれて、俺は死の淵から生者の国に戻ってきたんだ。
生き返って、俺の傍らに倒れている瞬を見た時、俺は、まだ自分の身の上に何が起きたのかを はっきり認識できず ぼうっとしていたせいもあったろうが、瞬はこんなに美しかったろうかと、そんな呑気なことを考えた。
それまで瞬を綺麗だと思っていなかったわけじゃない。
いつだって、瞬ほど可愛くて健気な人間はいないと思っていたさ。
だが、それ以上に、瞬は小さくて、泣き虫で、優しくて繊細というイメージが強かったんだ。
だが、あの時、俺の傍らに横たわっていた瞬は美しかった。

それまで可愛い子だと思うともなく思っていた相手が、突然 奇跡のように美しく見えるようになってしまったんだ。
俺の心の中に どんな感情が生まれたのか――それは考えるまでもないことだろう。
そう、俺はその時から瞬を恋するようになった。
瞬を俺のものにしたくて たまらない男になったんだ。
もっとも、俺の恋路は ひどく険しいものだったがな。
戦いという邪魔者が、いつも俺の恋の成就を妨げてくれたから。

本当に、この世に 戦いほど腹立たしく鬱陶しいものはない。
戦いで忙しくて・・・・、俺は自分が瞬に避けられてるんじゃないかと思うことがあったくらいだ。
互いの多忙による すれ違い。
どこの共働きカップルの破綻理由かと笑いたくなるような恋の障害だ。
だが、平和の時はいつか来る。
俺は、その時にこそ、瞬に好きだと告白するんだと心に決めていた。

瞬との恋を実らせるために必要不可欠な平和の時を手に入れたい。
目的が明白だと、モチベーションは上がるようにできている。
戦って平和の時を勝ち取れば、瞬を この胸に抱きしめることができるんだと思えば、空しい戦いにも身が入るというもんだ。
ああ。俺は不満も言わずに戦ったさ。
戦って――戦い続けた。

だが、そうしているうちに、俺たちの前に ややこしい敵が現われた。
ハーデス――冥界の王。
死者の国を統べる神だ。

ああ、わからなくて当然だ。
生きている神や人間が支配している死者の国なんて、矛盾もいいところだ。
存在自体がややこしい上に、その冥府の王は、瞬の身体を使って、地上を滅ぼすことを企んだんだ。
地上を、太陽の光が届かない死の国にしようとした。
そんなことになったら、俺は、俺と瞬が幸せになるはずの世界を失い、瞬自身をも失うことになる。
ハーデスとの戦いは、俺にとって負けるわけにはいかない戦いだった。

どうなったか?
今、こうして俺とおまえがいる世界は光で満ちている。
そういうことだ。
ハーデスは倒され、地上世界は守られた。
不死の神であるハーデスの命を奪うことはできなかったが、奴は封印され、瞬は自由を取り戻した。

俺たち聖闘士は、冥府の王との戦いを 他の戦いとは区別して“聖戦”と呼ぶんだ。
この地上世界というのは、ある者たちにとっては よほど魅力的なものらしく、ハーデスに限らず 色んな人間や神々が神話の時代から地上の支配を目論んできた。
だが、いつの時代にも、最後の最も大きい戦いは、冥府の王ハーデスとの戦いだった。
ハーデスとの戦いは 死との戦いと同じこと。
それが人間にとって最重要の戦いなのは当然のことだろう。

ハーデスを倒せば、平和の時が来る。
ハーデスは生きている神でありながら、死そのもの。
神であるハーデスの命を絶つことは不可能でも、奴の実体を消し去って魂だけの存在にし、その力を封じ込めることはできる。
その封印とて永遠のものではないんだが、ハーデスを一度 封印することさえできれば、何百年後かにハーデスが復活するまで、地上には束の間の平和が約束される。
俺たちは、俺たちの時代の聖戦に勝ち、平和の時を手に入れた。

平和。
平和、平和、平和。
それが どれほどの価値を持つものなのかが、おまえにわかるか?
それがないと、人は おちおち恋もしていられないんだ。
もちろん、世の中には『戦下の恋』なんて言葉もあるさ。
しかし、俺の瞬は やたらと責任感が強くて、何よりも聖闘士としての務めを優先させる奴だった。
戦いの最中に、俺はおまえが好きなんだなんて言ったら、今はそれどころじゃないと返されるのが落ちに決まっていた。
いや、瞬は、もっと優しい言葉でそう言うだろうが。

だが、ついに平和の時が来たんだ。
ハーデスは封印され、万一 奴が蘇ることがあったとしても、それは数百年後。
数百年後に蘇るハーデスは、その時代の聖闘士たちがどうにかすればいいことだ。
俺たちは、聖闘士である俺たちに課せられた義務を果たし、ハーデスの力に脅かされることのない地上を取り戻した。
そうして――平和の時が来たと実感できた時、俺は、戦いの時とは全く違う緊張に支配された。

俺は、俺たちの戦いが終わったら、瞬に好きだと告げるんだと決めていた。
共に戦い、支え合ってきた瞬。
俺が今 生きていられる理由、戦い続けてこられた理由、そして、瞬は、俺がこれからも生き続けていくために必要な理由だ。
瞬に好きだと告げる。
そして、瞬を俺のものにする。
瞬に拒まれる可能性があることは 俺だってわかっていたが、俺は一生 瞬を諦めることはできないんだから、俺の夢が叶わないことはないと信じていた。

どこかの成功者が、『成功するにはどうしたらいいのか』と人に問われた時、『自分が成し遂げたいと思うことを、成功するまで続ければいい』と答えたんだそうだ。
諦めなければ 不成功が確定することはないという理屈だな、つまり。
俺はその通りにするつもりだったから、瞬はいつか俺のものになるんだと信じて疑わなかった。
もちろん、その偉大な事業を成し遂げる前に俺が死ぬようなことがあったら話は別だが、そんなことになりさえしなければ――俺は、瞬が俺に『僕も氷河が好きだよ』と答えてくれるようになるまで、『俺はおまえが好きだ』と言い続けるつもりだったんだ。
だが、俺はそうすることができなかった。






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