「好きだと告白するのをやめたの?」
氷河にそう尋ねてくる者は、瞬の顔をしていた。
庭に直接おりられるテラスに続くサンルームのドアは外に向かって大きく開け放たれ、室内に 春の陽光で温められた微風を招き入れている。
瞬が掛けている籐椅子はテラスではなく室内にあったのだが、挨拶もなく建物の内に入ってくる春の微風は、先ほどから遠慮する様子もなく瞬の足元で弾け、その頬を撫で、その髪を揺らしていた。

瞬の目の前には、優しい色の花であふれた春の庭が広がっている。
それは、氷河が初めて瞬に出会った、あの春の庭だった。
氷河にとっては、懐かしい大切な思い出のある場所。
そして、運命の場所。
だというのに、瞬は、春真っ盛りの庭の様子を見ても、心を動かされた様子をまるで見せなかった。
そこが、幼かった氷河が幼かった“瞬”に初めて出会った場所なのだということに 気付いていないかのように。
瞬は、そんなことより、氷河が語っていた“氷河と瞬”の物語の方が気になるらしい。

「どうして あなたは瞬さんに気持ちを打ち明けることができなかったの?」
“瞬”との恋の成就を妨げる何かが氷河の上に降ってきたのだろうと察しているからか、氷河に そう尋ねてくる瞬の表情は決して明るいものではなかった。
だが、その問い掛け自体が、恋を手に入れ損なった男の胸の傷をえぐるものなのだということに、瞬は考え及んでいないらしい。
気の毒そうに、だが 他意なく無邪気に、瞬は氷河に尋ねてきた。
『なぜ好きだと告白しなかったの?』と。

「それは……一時的にとはいえ、ハーデスにその身体を支配されたせいか、あるいは その野望の実現を阻止されたことへのハーデスの意趣返しだったのか――冥界での戦いでハーデスを倒し、俺たちが地上に戻ってきた時、瞬はすべてを忘れてしまっていたんだ。俺のことも、仲間のことも、これまで戦ってきた戦い、自分がアテナの聖闘士だったことさえ」
「すべてを忘れてしまっていた?」
「ああ」
「あなたのことも?」
「二人のことも全部」
「そんな……」
“すべてを忘れてしまった瞬”が自分自身であることにも気付かず、瞬が切なそうな目を氷河に向けてくる。
その瞳には、同情の色と疑念の色が半々の割合でたたえられていた。

「あなたは、瞬さんがあなたを忘れてしまったことに腹が立ったの? だから、好きだと告げることをやめてしまったの?」
“氷河”が自分の仲間だったことを忘れてしまっているからこそ、瞬は そんな馬鹿げたことを“氷河”に尋ねることもできるのだと、氷河は苦い気持ちで思ったのである。
「そうじゃない。瞬は忘れることを 自ら望んで忘れたわけではないんだ。俺が瞬に腹を立てる筋合いはないだろう」
「それはそうでしょうけど……」
「瞬は、記憶を失っても瞬のままだった。瞬の優しさ可愛らしさは、以前と少しも変わっていない。だが、俺たちが 命をかけた戦いを共に戦い 支え合ってきた仲間だったことを忘れてしまった瞬は、俺が好きになった瞬なんだろうかという疑念が俺の中に生じてきたんだ。自分が聖闘士だったことを忘れ、自分が戦いで傷付けた敵たちのことを忘れた瞬は、言ってみれば、それまで瞬を縛りつけていた聖闘士としての義務を忘れ、瞬を苛んできた罪の意識を持っていない瞬だ。そんな瞬に好きだと告白していたら、俺は、もしかしたら聖闘士としての自覚を持つ瞬に告白するより よほど容易に瞬のOKを手に入れることができていたかもしれない。だが、そんな瞬は俺が好きになった瞬なんだろうかと疑い始めたら、俺は どうしても 瞬に好きだと告げることができなくなってしまったんだ」

苦渋に満ちた呻きのような声で そう告げた氷河に、瞬が気の毒そうな眼差しを投げてくる。
そして、瞬は、独り言を言うように小さな声で、
「愛って、記憶の積み重ねだものね……」
と呟いた。
これまで積み重ねてきたものをすべて忘れてしまった瞬は、おそらく 氷河のために その言葉を告げたのだろう。
氷河の気持ちが揺らいだとしても それは致し方のないことなのだと、告白をためらわずにいられなくなった氷河の心を慰撫するために。

だが、その言葉は、氷河の心を慰めるどころか、かえって傷付けるもの――むしろ、神経を逆撫でするものだった。
氷河は つい、“瞬”に挑むような口調で言ってしまっていたのである。
「それはどうかな。世の中には、記憶を積み重ねずとも、一瞬で恋に落ちる一目惚れという言葉もあるようだぞ」
と。

氷河の挑戦を(?)、瞬は ゆるやかに、そして どこか悲しげに首を横に振って いなした。
「それは…… 一目惚れっていうのは、その人が これまでに積み重ねてきたものを一目で見抜く力を持った人が恋に落ちることを言うんじゃないのかな。よく わからないけど。僕は恋なんてしたことがないから。……多分」
「……」
瞬は、氷河の心を慰撫すると同時に、これまでに積み重ねてきたものを忘れてしまった自分自身を揶揄し自嘲して、愛は記憶の積み重ねだと言ったのかもしれない――。
悲しげな瞬の その言葉を聞いて、氷河はそう思ったのである。
そして、瞬の発言に反抗し挑むようなことを口にした己れの振舞いを後悔した。
少し、口調を穏やかなものに変える。

「愛は 記憶の積み重ねか。では、俺たちがこれまで積み重ねてきたものを忘れてしまった瞬は、やはり俺が好きになった瞬ではないということか……。おまえはどう思う?」
「さあ……」
「瞬は、俺のことを忘れてしまったんだ。自分が聖闘士だったこと、自分の名前、命をかけた戦いを共にしてきた仲間のことさえ。俺のことはともかく、瞬が これまでの自分の戦いのことまで忘れるなんて、本音を言えば、俺には信じられない。瞬は人を傷付けることが嫌いだった。決して 戦うことを喜んでいたわけじゃない。むしろ、自分が戦い続けなければならないことに、瞬はいつも苦しんでいた。だが、瞬には高い理想や実現したい夢があった。そのために、瞬は苦しみながらも戦い続けていた。少なくとも、俺はそう思っていた。瞬がこれまでの自分の戦いを忘れるということは、その理想や夢を忘れることと同義で……だが、その理想や夢は、瞬にとって 何にしがみついてでも、かじりついてでも忘れまいとするはずのものだったのに――」

俺は何を言っているんだと、氷河は自分を訝っていたのである。
俺は何が言いたいのか――と。
『忘れないこと』に正当性を持たせることで、『忘れてしまった瞬には罪がある』とでも言いたいのかと。
瞬が、忘れることを自ら望んで すべてを忘れてしまったはずはなかった。
人には そんなことはできない。
人は、忘れたいと望んでも、忘れたいことを忘れることはできないのだ。

「そんなふうに――戦うのが嫌いだったのに、瞬は懸命に戦い続けていたんだ」
「お気の毒に……」
瞬の顔をした者が、瞬に同情する。
それは奇妙なことだったが、至極自然なことでもあったろう。
自分を哀れんだり、自分に同情したりするようなことを、瞬は決してしなかったが、瞬は人に同情されるに十分なほどの つらさと苦しさと、そして矛盾とを、その心身に負わされていたのだから。

「瞬は……そんなにつらかったんだろうか。人を傷付けること、誰かと戦い勝利することでしか自分の夢を実現できないことが」
「誰かと戦い、人を傷付けることは、誰にとっても楽しいことではないでしょう」
「……そうだな。きっと つらかったんだろう。忘れてしまいたいほど。忘れないと、生きていけないほど」
そして瞬は、仲間たちのことを忘れても 自分は生きていけると信じたから、忘れてしまうことができたのだ。
彼の仲間たちのことを――白鳥座の聖闘士のことも。

「だが、俺は今でも瞬が好きだ。今の瞬に好きだと告げることはできないが、今でも瞬が好きだ。俺は瞬に忘れられてしまったのに――今の瞬は、俺と共に時と記憶を積み重ねてきた瞬ではないというのに。おかしな話だ」
「それは、これまで あなたが あなたの瞬さんと積み重ねてきたものが、あなたの中にあるからでしょう。人はそれを失いたくないの。好きだった人を忘れたり、嫌いになったりするのは つらいことだよ。好きだという気持ちを断念するのは難しい。好きっていう気持ちは 一朝一夕に積み上げられるものではないから。人を好きだと思う気持ちを諦めるのは、その人を好きになるまでに積み重ねられてきた時間を捨てることだもの。その時間は無駄だったと認めることだもの」
「そうだな……。好きだという気持ちを捨てることは つらい」
「でも、瞬さんの中にはもう あなたと積み重ねてきた時間の記憶が残っていないというのなら、そんな瞬さんに愛されても、あなたが満たされることはないでしょう」

瞬の姿をしか持っていない者には、瞬に恋する人を幸福にすることはできない――と、瞬の姿をした人が言い切る。
その声は、氷河が恋した瞬のそれのように やわらかで、その眼差しは 氷河の仲間だった瞬のそれのように優しいというのに、その言葉は鋭い切っ先を持ったナイフのように氷河の胸を傷付けた。
「おまえは残酷なことを平気で言う。こんなに美しいのに。こんなに優しい風情をしているのに」
何もかもが瞬と同じなのに、心だけが瞬と違う。
その事実が、氷河の胸を苦しめた。

春の庭の風情を楽しむ瞬の目の邪魔をしないように――だが瞬の視界の隅には存在し続けたい。
そう願い考えて立っていた場所から移動して、氷河は瞬の真正面に立った。
籐椅子に腰掛けている瞬の足元に跪き、その手をとる。
そして、氷河は、昨日も告げた言葉を もう一度 瞬に告げた。
「思い出してくれ、瞬。俺は氷河だ。そして、おまえは瞬。俺が どうしても自分のものにしたいと望んだ初めての人。瞬、思い出してくれ」
それは、2日前、3日前にも、告げた言葉だった。
瞬がすべてを忘れてしまった その日からずっと、氷河が瞬に繰り返し言い続けてきた願い。

昨日と同じように――2日前と同じように、3日前と同じように、記憶を失った その日にもそうしたように、瞬が 氷河の言葉の前で首をかしげる。
そして、瞬は、昨日と同じように――2日前、3日前と同じように、記憶を失った その日にもそうしたように、氷河に尋ねてきた。
「瞬さんって、僕のことなの?」
と。

氷河は、何も答えることができなかった。
そうだと言って、もう一度 二人の時間を積み重ね始めねことができたらいいのに。
そうできたら、どんなにいいだろうと、氷河は思った。
だが、すべてを忘れてしまった瞬は、明日には 今日こうして二人が話したことも忘れてしまうのだ。
氷河と時間を積み重ねていくことを避けるかのように、瞬の記憶は、瞬が眠りに就くたびリセットされる。
不思議な記憶の失い方。
そのせいで、氷河は、瞬と記憶を積み重ねていくことができなくなってしまった。
二人は、二人の時間を、二人の記憶を、積み重ねていくことができないのだ。






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