その城は、険しい山の頂に、孤独な糸杉の大樹のように建っていた。 誰も近付かない――人が近付くことを 頑なに拒んでいるような峻厳な山、冷たく巨大な城。 中世のおとぎ話に出てくる城のように幾つもの尖塔を持ち、だが、おとぎ話に出てくる城では決してありえない漆黒の城壁。 瞬は、その城の最も高い塔の上にある部屋に、たった一人で暮らしていた。 部屋には、瞬の顔がやっと収まる大きさの丸い鏡が一つあるきりで、他には何もなかった。 それ以外の物は、衣服も寝台も――命あるもの以外なら どんなものでも――瞬が欲しいと思った時に忽然と現われ、用が済めば いつのまにか消えている。 だから、その部屋の住人といえるものは、瞬と その鏡の他には何も存在しなかったのである。 部屋には窓もない。 瞬は その部屋の外の世界を知らなかった。 自分の住む城が漆黒の城だということも、世界を映す鏡を通して見たことがあるだけだったのである。 部屋には時折、ハーデスという名の、この城のように漆黒の髪と瞳を持った若い男性が訪ねてくる。 初めて彼に会った時、瞬は彼を影のようだと思い、思ったことを彼に告げた。 ハーデスは、そんな瞬に浅く頷き、そう見えるのは当然だと答えた。 瞬が見ているのは彼の実体ではなく、彼の本当の身体は この城の外の世界にあって、彼は瞬に その影を見せているだけなのだ――と。 この城の外にある命あるものを、直接 その目で見てしまうと、瞬は死ぬ――死ぬことになっている。 それが瞬の運命だから、 「この城の外にある命あるものを、直接 その目で見てしまうと死ぬ? 誰が僕に そんな呪いをかけたの?」 瞬が尋ねると、ハーデスは、それは呪いではなく祝福だと、深い、だが いかなる感情も読み取ることのできない声で答えてきた。 「その目で直接 世界を見てしまったら、そなたは死ぬ。だが、そなたが自分の目で直接 世界を見ぬ限り、そなたは死ぬことはないのだ。これが祝福でなくて何であろう。そなたは いつかは必ず死すべき運命の人間に生まれながら、永遠の命を与えられたのだ。神であり、冥府の王である余に選ばれ愛されたがゆえに」 「僕以外の人間は皆、永遠の命を持っていないの? いつか必ず死んでしまうの?」 「そうだ」 「……死ぬってどういうこと?」 瞬は、自分がいつから この城で暮らすようになったのかを憶えていなかった。 生まれた時から この城しか知らなかったような気もするし、つい昨日 連れてこられたばかりのような気もする。 死がどんなものであるか知っているような気もするし、全く知らないような気もする。 城の外の世界を見たことがあるような気もするし、全く見たことがないような気もする。 おそらく見たことはないのだろうと、瞬は思った。 この部屋の 瞬以外のもう一人の住人――瞬のただ一人の友人である小さな鏡。 直接 自分の目で世界を見ることはできないが、その鏡を通してなら、瞬は城の外の世界を見ることができた。 だから、自分は、鏡を通して見た世界を 自分の目で見たことがあるように錯覚しているだけなのだろうと、瞬は思ったのである。 知りたいと望むことは どんなことでも教えてくれるハーデスが、瞬がこの城に住むようになった経緯だけは教えてくれなかったので、瞬は そう考えるしかなかったのである。 それ以外のことなら、ハーデスは、瞬に問われることには何でも答えてくれた。 もちろん、『死』とはどういうものなのかということにも。 「そうだな。死とは醜いものだ。肉体の中で燃え盛っていた命の炎の勢いが徐々に弱まり、その火が完全に消えた時、人間の上に 死は訪れる。どれほど美しい人間も、どれほど醜い人間も、死の時を迎えた時から両者の辿る運命は全く同じだ。命の炎が消えると、人の魂は その身体の中に留まっていられなくなる。魂が身体の外に出ると、その身体は生気を失い、少しずつ腐り始める。その様は、本当に見るに耐えないものだ。生きていた時 美しかった者ほど壮絶に残酷に 身体は腐っていく。そうして朽ち果て、やがて無になる」 「無になる……? 身体がなくなってしまうの?」 身体が腐り朽ち果てることにも ぞっとしたが、無になることの方が、瞬には より強く大きな恐怖に感じられた。 そもそも今 ここにこうして生きて存在する自分が無になるということが どんなことなのかを、想像することができない。 「そうだ。身体がなくなる。目も口も手もなくなれば、人は、何を感じ、何を思い、何を考えても、その心を他者に伝えることができず、存在しないも同然になる。自分の存在が誰にも認められないことに耐えられなくなり、やがては魂も消え去るのだ」 「すべて消えるの? 僕がなくなってしまうの? 跡形もなく?」 「その通りだ。そなたの死後も そなたを忘れぬ者たちがいたとしても、その者たちも いずれは死んでしまうのだからな。せっかく命を授かって、“世界”に生まれてきたというのに、すべてはなかったことになってしまう」 「すっかり消えてしまうのは恐い」 「そうだろう。恐いだけでなく、醜く、空しい」 「人は みんな死んでしまうの? 僕が鏡で見たことのある人たちも?」 「すべての人間は死ぬ。例外はない」 「……」 鏡を通して見たことのある多くの人間たちの姿を思い出して、瞬は悲しい気持ちになったのである。 外の世界で生きている人間たちは、誰もが生気に輝いていた。 明るい光の中で幸福そうに笑っている者、暗い牢獄のような場所で孤独や敵を憎んでいる者、その形相は様々だったが、人は誰も自分が生きていることすら忘れているのではないかと思うほど、生きることに夢中だった。 喜びに輝く者、憎しみに燃える者、あれほど命の炎を盛んに燃やし生きている人々がすべて、やがては死んで無になる運命にあるとは。 それは、瞬には にわかには信じ難く――だが、信じてしまえるがゆえに悲しいことだった。 人々を救う術はないのかと問うために、瞬はハーデスの顔を見上げたのだが、実際に問う前に、問うことは無駄だと、瞬にはわかったのである。 ハーデスは――ハーデスの影は――死すべき定めの人間のそれよりも暗く悲しげな表情を浮かべていたから。 「例外になれる者もいたのだがな」 「例外に? それはどんな人?」 “死”という悲しい運命を免れることのできる人間も存在する――。 それは瞬にとっては一つの希望だったのだが、過去形で語られる希望は、実現の可能性が限りなくゼロに近い希望より、寂しい。 過去に確かに存在した希望を語るハーデスの声も、全く明るいものではなかった。 もっとも瞬は、ハーデスの明るい声など、これまで一度も聞いたことはなかったのだが。 「もう二百年以上も前に、そなたと同じように 余に選ばれ、この城に連れてこられた者がいた。だが、その者は、そなたほどには素直な子ではなく――余の忠告を忘れ、愚かな好奇心に負けて、自分の目で直接世界を見てしまったのだ」 「その人はどうなったの」 「もちろん死んだ。若く美しかった その身体は疲れ、老いさらばえ、やがては命が失せた。身体が滅んで二百数十年――魂も、そろそろ完全に消え去る頃ではないかな。愚かなことだ。余の許にいれば、いつまでも美しいまま、死の醜悪も すべての者に忘れさられる空しさも知らずに済んだものを」 「その人は なぜ……」 「余には、未だにわからぬ。あれほど美しかった者が、なぜ永遠の命より、醜い死を選んだのか」 「僕にも わからない……。その人は、自分が死ぬことが恐くなかったのかな……」 「さて。それほど強い人間が 世界に存在し得るとも思えぬが」 では、人間は誰も、己れの死の運命に怯え、死の運命を恐れて生きていることになる。 生き生きと幸せそうに笑っている者たちは、決して避けることのできない死の運命を忘れた振りをして無理に笑っているのかもしれない。 瞬は暗い気持ちになって、そのまま瞼を伏せた。 ハーデス(の影)の手が、そんな瞬の頬に触れてくる。 実体ではなく影にすぎないハーデスの手は、熱も硬軟もなく、それゆえ瞬は何のためにハーデスが自分の頬に触れたのかが(触れようとしたのかが)、わからなかったのだが。 「そなたは何も案ずることはないぞ。そなたは そのように恐ろしい死を永遠に経験せずに済む。この城にいて、世界を見ずにいれば。そして、やがて余と一つになり、余そのもの、永遠の命を持つ神と同じものになるのだ」 「……」 ハーデスに選ばれた者に与えられた“輝かしい栄誉、僥倖、運命”を ハーデスに語られるたび、瞬はハーデスに尋ねてみたい衝動にかられた。 『それは僕が無になることではないの?』 と。 機嫌を損ねたハーデスが 二度と この部屋に来てくれなくなることが恐くて、瞬は一度も その問いを言葉にして彼に尋ねたことはなかったが。 |