見知らぬ懐かしい国への憧憬と郷愁を振り切ってしまうことのできない日々。 そんな日々の中の ある日、外の世界に憧れる気持ちを忘れるために、瞬は鏡に、 「世界でいちばん不幸な人を見せて」 と命じてみたのである。 外の世界が決して理想の楽園でないことを確かめて、見るのも嫌になってしまえば、外の世界への断ち切り難い思いを無にすることができるのではないかと考えて。 鏡に映し出されたのは、若く美しい金髪の青年だった。 病を得ている様子もなく、見るからに頑健そうな肉体を備え、もちろん死に瀕してもいない。 いったい なぜ彼が世界でいちばん不幸なのか。 瞬には、その訳がわからなかったのである。 目を凝らして、鏡の中を覗き込む。 そうして彼を見詰めているうちに――やがて瞬は、彼の不幸の理由はわからなかったが、彼が不幸でいる事実だけは認めることができるようになった。 本来は明るい空の色なのであろう青い瞳が、ほとんど黒に近い苦渋の色をたたえている。 その瞳を見詰めていると、彼を見詰めている自分まで悲しく苦しくなる。 彼の不幸、彼の つらさに共鳴して、瞬は心が割れてしまいそうになった。 こんなにも大きな不幸に呻き苦しんでいる人を映し出している鏡は、苦しくはないのだろうか。 悲しみのあまり割れてしまうことはないのだろうか。 彼のいる世界の外から、鏡越しに その姿を見ているだけでも、僕は これほど苦しい。 息ができなくなりそうなほど、心が壊れてしまいそうになるほど、苦しいというのに――。 鏡はひび割れる気配もなかったが、瞬の目と心には限界が近付いてきていた。 涙を帯びているのに かすれた声で、瞬は鏡に命じたのである。 「もう、いい。もう この人は映さなくていいから、世界でいちばん幸福な人を見せて!」 そう命じられた鏡には、すぐに別の人間が映し出されるはずだった。 実際 鏡の銀色の面は、一瞬 白光でいっぱいになり、世界で最も不幸な青年の姿を、一度は完全に消し去ったのである。 だが、その一瞬間後に鏡が映し出したものは、一瞬間前まで そこに映っていた人――瞬の心を壊そうとした、世界でいちばん不幸な、あの金髪の青年だった。 「え……?」 あまりに大きな不幸に苦しむ人を映してしまったせいで、鏡は狂ってしまったのかと、瞬は疑った。 世界でいちばん不幸な人と 世界でいちばん幸福な人が 同じ人間であるはずがないと思ったから。 だが、まもなく瞬は、あれほど不幸な人を映し出した直後であるにもかかわらず、鏡は全く正気で、その職務を忠実に果たしているだけなのだということに気付いたのである。 鏡に映っている青年の、不幸に呻き苦しんでいる青い瞳。 それは、だが、幸福と歓喜に激しく燃えてもいたのだ。 こんな瞳を持った人を、いつかどこかで見たことがある――と、瞬は思った。 これほど強く激しい力を たたえた瞳を見るのは、もちろん瞬は今日が初めてのことだったが(初めてのことのはずだったが)、彼のそれに似たような瞳を持つ人なら、瞬はこれまでに幾度も幾人も見たことがあった。 愛する人を見詰める恋人たちの瞳。 金髪の青年の瞳は、まさにそれだった。 そして、瞬が これまでに見た恋人たちの誰の瞳よりも、恋の幸福に輝いていた すべての恋人たちのどの瞳よりも、彼の瞳は激しい情熱を たぎらせていた。 世界でいちばん不幸で、世界でいちばん幸福な人――。 今 彼はおそらく、外の世界に存在する誰も経験したことがないような不幸の ただ中にいる。 同時に彼は、外の世界に存在する誰よりも激しい恋をしている。 だから彼は、世界で いちばん不幸な人間であり、世界で いちばん幸福な人間でもあるのだ。 彼は、今、まさに命を燃やして生きていた。 彼に これほど情熱的に恋されている人間は誰なのか。 おそらく彼の恋人もまた、世界で最も不幸で、世界で最も幸福な人間であるに違いない。 これほどまでの彼の苦しみを消してやることができず、だが、これほどまでに激しく彼に恋されているのだから。 そう、瞬は思った。 彼の中にある不幸と幸福は、どちらが より強く大きなものなのか。 瞬には それはわからなかった。 瞬にわかるのはただ、彼が その命と心を、他のどんな人間より強く大きく激しく燃やしているということ、彼が今 確かに生きているということだけだった。 |