「誰なの、この人は!」
瞬は、鏡に向かって叫んでいた。
自分の命令には忠実に従う この鏡が、自分の問い掛けに答えてくれたことは一度もないことを、瞬はこれまでの付き合い・・・・で知っていたのだが。
しかし、今は特別な時なのだ。
そして、鏡に映る不幸で幸福な青年は特別な人。
瞬の心を揺さぶり、震わせ、彼が不幸でい続けたなら自分の心は割れ砕けてしまうだろうと 瞬に確信させるほど、特別な人。
彼が何者であるのかを、瞬はどうしても知らなければならなかった。
瞬が生き続けていくために。

「誰なの、この人は! 何か叫んでる。ああ、この人の声を聞かせて! この人の声を映し出して、僕に見せて!」
「瞬、俺だ! 氷河だ! 俺が わからないのかっ!」
「え……?」
鏡は、瞬の命令に忠実だった。
これまで人間の声はおろか、鳥の歌も風の音すら 瞬には見せてくれなかった鏡が、彼の声を瞬の許に運んでくる。
そして、彼の声は、“瞬”を呼んでいた。
瞬と同じ名を持つ誰かを求めて、彼は その瞳と命を燃やしている。
鏡に対する瞬の次の命令は、当然のことながら、
「彼は誰に向かって言ってるの。誰を呼んでいるの! 彼の“瞬”を映して!」
だった。

職務に忠実で勤勉な鏡が、その命令に従って映し出した“瞬”。
それは、瞬と同じ顔をした、年若い華奢な少年だった。
重たげな漆黒の長衣に隠されてはいるが、その手足は子供のそれのように細いに違いない。
にもかかわらず、鏡の中の黒衣の“瞬”が、鏡を見詰めている囚われの瞬より はるかに大きく威圧的に見えるのは、彼の眼差しが氷のように冷たく、いかなる感情もたたえていないからのようだった。
無感動な瞳。
その瞳の中にあるものは、強いて言えば、死すべき運命を負った人間への哀れみと蔑みだった。

「ぼ……僕 !? どうして僕があんなところに――どうして僕が外の世界にいるの! 」
目、眉、鼻、唇、頬――完全に瞬のそれと同じ造作の顔を持つ人間。
だが、それは瞬ではないはずだった。
形と形を作る線は同じなのに、彼――氷河――が見詰めている“瞬”は、まるでハーデスの影のように、この城のように、漆黒の髪と瞳の持ち主だったから。
淡い色をした囚われの瞬のそれとは違う色でできた髪と瞳を、氷河が見詰めている“瞬”は持っていたのだ。

だが、それが自分だということが、瞬にはわかった。
“瞬”には氷河が見えていないのだ。
“瞬”は、虚像しか映し出さない鏡を通して世界を見ている――見せられている。
だから、漆黒の髪の“瞬”は、これほど冷酷で無感動な目をして氷河を見下ろしていることができるのだ。
直接 自分の目で見ていたのなら、“瞬”に 氷河の瞳の中にある情熱を感じ取れないはずがない。
それは、虚像しか映し出さない鏡越しに見ているだけでも、瞬の心臓を鷲掴みにし、その心を揺さぶる力を持っているのだ。

世界で最も不幸で、世界で最も幸福な人。
氷河を世界で最も不幸な人間にしているのは“瞬”、氷河を世界で最も幸福な人間にしているのも“瞬”――自分――だったのだ。
彼は、瞬の側にいる。
彼が見詰めているのは自分だと、瞬は確信した。
氷河は、燃えるような瞳で、半ば睨むように瞬を凝視し、その名を呼んでいる
氷河は瞬を呼んでいた。

「あ……あ……」
鏡を通してではなく、彼を見たい――直接、自分の目で彼を見たい。
この瞳に、じかに彼の姿を映し出したい。
そして、直接 彼に触れたい。
彼を抱きしめたい。
今すぐ水を与えられなければ命が尽きる花のように、今すぐ血肉を食らわなければ飢えて死ぬしかない狼のように 切実で獰猛な衝動が瞬の身体の中を駆け巡り、その衝動の激しさに、瞬は自分の髪の毛が逆立っているのではないかという錯覚さえ覚えたのである。

だが、その衝動は一瞬で収まった。
自分に課せられた運命を思い出し、瞬は冷静さを取り戻したのである。
否、瞬が取り戻したのは冷静さではなく、死を恐れる気持ちだったかもしれない。
世界を自分の目で直接見れば、自分は死ぬ。
醜く悲しい死が、すべてを無にする死が、避けられない運命として、我が身に降りかかってくるのだ。

『もう二百年以上も前に、そなたと同じように 余に選ばれ、この城に連れてこられた者がいた。だが、その者は、そなたほどには素直な子ではなく――余の忠告を忘れ、愚かな好奇心に負けて、自分の目で直接世界を見てしまったのだ』
『その人はどうなったの』
『もちろん死んだ。若く美しかった身体は疲れ、老いさらばえ、やがては命が失せた。身体が滅んで二百数十年――魂も、そろそろ完全に消え去る頃ではないかな。愚かなことだ。余の許にいれば、いつまでも美しいまま、死の醜悪も すべての者に忘れさられる空しさも知らずに済んだものを』

あの時 ハーデスが本当に言いたかったことが、今になって瞬にはわかった。
ハーデスは、瞬を脅していたのだ。
『そなたは同じ運命を辿りたくないだろう?』と。
もし あの時、ハーデスに そう問われていたなら、瞬はもちろん彼に頷いていただろう。
そして、『死ぬのは恐い』と答えていたに違いない。
その気持ちは、今も同じだった。
だが――。

「瞬ーっ!」
氷河が瞬の名を呼んでいた。
瞬を求めていた。
瞬の名を呼び、その声で瞬の心を震わすことが 瞬を死に導く行為だとも知らずに。
瞬は、目を閉じ、耳を塞ぎたかった。
瞬は、鏡に、『もう彼の姿を僕に見せないで』と命じたかった。
なのに、なぜか、瞬は自分の目を閉じることができなかった。
自分の耳を塞ぐことができなかった。
鏡に、これ以上彼の姿を映すなと命じることもできなかった。
瞬は、そんな自分が理解できなかったのである。

なぜ目を閉じることができないの。
なぜ彼の声が聞こえてくるの。
これまで外の世界の音が聞こえてきたことはなかったのに!
見たくない、聞きたくないと望めば、必ず その通りになったのに……!

瞬は、心の中で悲鳴をあげた。
だが、そう叫んでいる瞬の心が―― 一つの同じ心が――もっと大きな声で真逆のことを叫ぶのである。
この人を自分の目で直接 見たい。
この人の声をもっと聞きたい。
せめて この人が映っている鏡を この手で抱きしめたい――と。

心中の叫びに動かされ、氷河の姿が映っている鏡に手をのばそうとして、瞬は初めて気付いたのである。
自分の身体が目に見えない鎖で幾重にも縛りつけられていることに。
それは、手、足、胸、腹、至るところに絡みついていて、瞬はその鎖を外さなければ部屋を出ることはおろか、氷河の姿が映し出されている鏡を手にとることすらできそうになかった。

「な……に、これ……」
この鎖は いったい誰が何のために一人ぽっちの虜囚に巻きつけたものなのか。
なぜ自分は今まで この鎖に気付かずにいたのか――。
瞬が その答えに行き着く前に、どこからかハーデスの声が響いてきた。
その声は、瞬が閉じ込められている部屋中に響き渡った。

その男の声は悪魔の声だ。
永遠の命を得ようとしている そなたを妬み、陥れようとする悪魔の誘惑の声だ。
その誘惑に屈すれば、そなたは死ぬ。
そなたの若さも美しさも失われる。
すべてを捨てて この部屋を出ても、その勇気が必ず報いられるとは限らない。
そなたが外の世界で幸福になれるとは限らないのだ。
それが人間が生きるということ。
人間の命とは、なんと不確かなものか。
なんと頼りにならないものか。
そなたが 己れを縛る鎖を外して この部屋を出た時、そなたが自分の目で直接“世界”を見た瞬間から、そなたには時間の呪いがかかり、そなたは歳をとり始める。
死に向かって時を刻み始めることになる。
毎日 死の影に怯え、そなたの心は一時いっときたりとも休まることはない。
そうして、苦しみの時が始まるのだ。
ここで余に守られていれば、そなたには永遠の命と永遠の幸福が約束されるのだぞ――。

「そんなこと、わかってる。わかってるよ。でも……」
約束された永遠。
約束された幸福。
それは素晴らしいものなのだろう。
誰もが望んで得られるものではないのだろう。
その幸運を捨てることは、愚か者のすること。
そんなことは、瞬には もちろんわかっていた。

「でも、あの人、つらそうなの。すごく つらそう。僕を呼んでるんだ。僕が側に行ってあげたら、あの人は少しは楽になれるのかもしれない。ちょっとでも笑えるようになってくれるかもしれない。僕は……」
氷河の側に行きたいという瞬自身の衝動は既に収まっていた。
今は、違う思いが瞬を急き立てる。
今 瞬を急き立てているのは、彼に触れたいという瞬自身の欲求ではなかったのである。

氷河が苦しんでいる。
氷河が つらそうにしているのだ。
瞬は、その苦しみと つらさを、彼の上から少しでも取り除いてやりたかった。
そうすることができるのなら、そのために 死んでもいい。
今 瞬の心を揺さぶっているのは、そういう思い――強い願いだった。

我が身に絡みついている見えない鎖に、瞬は手をのばした。
その手を、ハーデスの影が押しとどめようとする。
実体のないハーデスの影は、瞬に触れることすらできなかったが。
「瞬、やめよ! 余は、そなたが汚れ、苦しみ、死んでいく様を見たくないのだ」
「でも、あの人が苦しんでるの。悲しそうなの。もし僕が あの人の側に――」
「あの者は、限られた命しか持たない人間だ。ただの虫けらにすぎん」
氷河を貶めるハーデスのその言葉が、瞬の中に激しい怒りを生んだ。

「氷河のこと、そんなふうに言わないで! 氷河が虫けらなのなら、僕も虫けらになる! 氷河を幸せにできないのなら、永遠の命なんて、何の役にも立たない無用の長物だよ!」
「何を言う。そなたは命の価値というものがわかっていない」
「わかってるよ! 僕の命は、氷河を幸せにするためにあるんだ! そのために使うことができないのなら、僕は命なんてなくても構わない!」
瞬が、ハーデスにそう叫んだ時だった。
瞬の身体を幾重にも縛りつけていた見えない鎖が、もろいガラスが砕け散るように、一瞬で消え去ってしまったのは。






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