そんな ある日。 二人の話題が、何の弾みか、互いの“母”と“愛”のことになった。 「俺の母は、気位の高い正妻よりは よほど父に愛されていたらしいが、ずっと日陰の身で、正妻にいびり殺されたようなものだ。愛というものに さほどの価値や力がおるとは、俺には思えんな」 「僕の家に似ているようで逆なんですね……。僕の母は正妻ですけど、父には形ばかりの妻として扱われていて、家中ではずっと軽んじられていました。同情してくれる人は多かったけど……。父は母を利用している負い目があったせいか、母には丁重に接していたので、母は父を憎むことも嫌うこともできず、でも本当に愛されていないことはわかるから、いつも寂しそうで――」 「これまでの不遇の時を取り戻し、母上の心を慰めるためにも、おまえがS子爵家の当主になればいい」 「……」 そうすること以外に奪われた権利を取り戻す術があるのかと問い詰めたい気持ちで、氷河は瞬に断言したのである。 だが、瞬は寂しげに小さく笑っただけだった。 「僕は、愛には強い力があると思う。その愛を僕の母は手に入れられなかったんだから、母の不遇は仕方がないと、僕と僕の母はずっと耐えてきたんです。なのに、氷河の家では逆で、愛されていない正妻の方が、愛されて子まで成した女性より強い立場にあったなんて、僕には納得できない」 「それは――身分や愛情だけでなく、性格の問題もあるからな。大人しい方が引き、押しの強い方が上に立つ。俺の母は 愛されていることを かさに着て、名門出の正妻に強く出られるほど気の強い女ではなかった。愛など何の力にもならん」 「氷河のお母様は静かな方だったの――」 「身分をわきまえて、控え目だったな」 「氷河のお母様だもの。美しい方だったんでしょう」 「……」 『美しくても、愛されていても、不幸な敗北者だ』 自虐的に、氷河はそう言おうとした。 不幸だった母の人生に復讐するために、自分は 母同様に不遇だった母子を利用しようとしているのだという思いが、氷河に その言葉を口にすることを許してくれなかったが。 「……愛されている人こそが、常に幸福な勝利者だと思っていたのに」 「そうではないこともある。現に俺の母は――」 「ううん。でも、やっぱり本当に幸福な人は、愛し愛された人だと思う。だから、氷河のお母様は向きになって他の人と争おうとしなくてもよかった。静かに耐えていられた。氷河のお母様は幸せだったんでしょう。きっと」 心底から羨むように――身分の低い愛人の息子を、瞬が見詰めてくる。 その瞳は、涙で潤んでいた。 おそらくは、自身の母の愛されない悲しさに思いを馳せて。 瞬のその言葉と眼差しは、瞬には思いがけないものだったのである。 あの悲しい女性が幸福だったなどと、そんなことがあるはずがない。 それは、氷河にとって、そうであってほしいと幾度も願い、やがて 願うことが無意味だと諦めた願いだった。 「俺の母は――死ぬ時、俺に、自分は幸せだったと言ったんだ。誰も信じなかったが。俺も信じなかった。いつも物陰で息をひそめるようにして生きていた母が幸せだったはずがない――と」 「氷河……」 「俺の母を幸せな人間だったと認めてくれたのは、おまえが初めてで――おまえだけだ」 「氷河のご両親のことは、僕にはわからない。でも、氷河のお母様が幸せでなかったはずがないでしょう。氷河のお母様には氷河がいたんだもの」 「……」 愛する人が不幸でいることは悲しい。 自分が不幸でいることより悲しい。 そして、不幸なことである。 だが、瞬は、今、その母の不幸を否定してくれた。 そうすることによって、氷河の不幸を――母が不幸であるがゆえに生じた氷河の不幸を、否定してくれた。 あの人は不幸ではなかった。 幸福だった。 それは、氷河がずっと――気弱な笑みを浮かべる母を見るたび、彼女の死後もずっと、そうであってくれと 氷河が望み続けていた事実だった。 「多分……俺は、いつも、誰かにそう言ってほしかったんだ。俺の母は幸せだったんだと、誰かに言ってほしかった。おまえは、俺の母を幸福にしてくれた初めての人だ」 そう言ってほしかった。 そうすれば、氷河は、母の不幸に復讐する必要もなくなる。 人生の勝利と敗北。 そんなことを気にすること自体が、敗北者の証明のようなものなのだ。 そして、これまで氷河はずっと不幸な敗北者だった。 だが――。 「氷河は お母様を とても愛していたんだね。愛していたから、お母様の不幸に傷付いていたの? でも、きっと、氷河が傷付く必要なんて、最初からなかったんだよ」 「愛していた。俺を愛してくれる人は母しかいなかったから。俺は母だけを愛していた。だが、今の俺は、母と同じくらい、おまえを愛している。……と思う」 「え?」 自分は何を言っているのか――。 今は まだ、嘘をついていい場面ではないというのに。 氷河は自分自身を訝り、自分自身に問うていたのである。 氷河の中の氷河が、『もちろん 今は嘘をついていい時ではない』と答えてくる。 もちろん、これは嘘ではない――と。 では、これは真実なのだ。 そして、確かに この気持ちは真実のものだと 氷河は認め――次の瞬間、氷河は瞬を抱きしめてしまっていた。 「ひょ……氷河 !? 」 瞬が氷河の胸の中で 驚き戸惑ったような声を洩らす。 たった今まで、二人は、対立し合う二つの家、その家の中で不幸だった女性たちの話をしていたのである。 氷河に 突然抱きしめられた瞬の驚きと戸惑いは 至極当然のものだったろう。 だが、今 氷河は瞬を離してしまいたくなかった。 これからもずっと離してしまいたくなかった。 今 瞬を離してしまったら、自分はすぐにまた 不幸な敗北者に戻ってしまうような気がして、氷河はどうしても瞬を自由にしてやることができなかったのである。 瞬を自分の胸の中に閉じ込めておくことができるなら 俺は何でもする――と、氷河は思った。 「おまえをS子爵にしてやる。S子爵家をおまえのものにしてやる。宮廷での地位も役職も、国王の座以外なら、何でも おまえが望むままだ」 瞬に 自分の胸の中にいてもらうことの代償として そんなものしか差し出すことのできない自分が、氷河は腹立たしくてならなかった。 だが、氷河が持っているものは、氷河が瞬に与えられるものは、本当に そんなものしかなかったのだ。 「氷河、なに言ってるの。そんなもの、いりません。僕は そんなものはどうでもいいの」 「俺はそんなことしかしてやれない。だが、俺は、おまえに与えられるものは すべておまえに与える。俺にはその力がある」 そんな力に、瞬は 何の価値も置いていない。 そんな力を、瞬は欲していない。 そんなことは、氷河にも わかっていた。 だが、瞬を失いたくないのだ。 今も、これからも、永遠に。 自分が、そして、あの寂しげだった女性が幸福な人間であるために。 「氷河……!」 氷河の腕から逃れ出ようと もがく瞬の両腕を、両手で掴む。 自由を奪われているのが腕だけになり、二人の間に少しばかりの距離が生じたことで 戸惑いが薄れたのか、瞬は、突然 訳のわからない行動に出た男の心を探るように、氷河の顔を見上げてきた。 瞬の両腕を両の手で掴んだまま、そんな瞬の唇に、氷河は自分の唇を重ねていったのである。 唇で、瞬の全身が硬直したことを、氷河は感じ取ることになった。 こんなに身体を強張らせずにいられないほど、瞬は仇の家の総領息子を嫌っているのか――。 憤ればいいのか、嘆けばいいのか、自分の感情の扱いに迷い、だが、とにかく これ以上 瞬に嫌われることはできないという思いが、氷河の腕と唇を 瞬から引き離した。 そして、氷河は、瞬の前で、瞬になじられることを覚悟して、その視線を床に落とし唇を噛みしめたのである。 瞬の非難の言葉は、だが、なかなか氷河の上に降ってこなかった。 怪訝に思った氷河が 勇気を奮い起こして瞬の顔を覗き込むと、そこには、頬を真っ赤に染めて、自分の取るべき態度に迷いあぐねているように、落ち着きなく視線をあちこちにさまよわせている瞬の困惑した表情があった。 どう見ても、瞬はまだ、仇敵の家の総領息子を嫌う以前、自分が何をされたのか わかっていない状態だった。 「瞬……」 もしかしたら今こそが、己れの人生において最高に巧みな嘘をつき、瞬の心を絡め取るべき重大な時なのかもしれない。 そう、氷河は思ったのである。 だが、だとしても、どんな嘘をつけばいいのかがわからない。 『俺はおまえが嫌いだ』という嘘をついても 何の益もないことは、初めて経験する感情の扱いに迷い てこずっている氷河にも、さすがにわかったのだが。 「ご……誤解しないで」 嘘はつけない。 だが、真実は、何を語ればいいのかがわからない。 結局 黙り込むことしかできなくなってしまった氷河の耳に、上擦り かすれた瞬の声が ためらいがちに忍び込んできた。 「ご……誤解しないで。僕が氷河を好きになったのは、氷河が 僕の家と氷河の家の対立をどうにかしたいって真面目に考えてくれているからで、冷めてる振りしながら氷河がいつも お母様のことを思ってるのがわかるからで、氷河が苦しんでるのに 打ち明けてもらえないことが悲しくて、でも それは氷河の力になってあげられない僕を、氷河が気遣ってくれてるからなんだって 思うからで――」 「……」 瞬はいったい何を言っているのか――。 しばし迷った氷河は、だが、まもなく、瞬こそが何かを誤解していることに気付いたのである。 瞬は 恐ろしく好意的に、仇の家の総領息子を誤解していた。 誤解している瞬の声が、いよいよ小さく――消え入りそうなほど小さくなる。 「代わりに何かが欲しいからじゃないの……」 いったい この可愛い生き物は何なのだと、氷河は本気で疑ってしまったのである。 不幸で悲しかった女性を幸福にし、不幸で みじめだった彼女の息子を 諦観の淵から救い出し、その上 この頓珍漢な勘違い。 おそらく これほど珍奇な生き物は、この地上にただ一個体しか生存していないに違いない。 そして、これほど美しく可愛らしい生き物は、今すぐ捕まえて籠の中に閉じ込めてしまわないと、他の誰かに見付けられ奪われてしまうだろう。 それだけは、絶対に、何があっても避けなければならない。 そう決意した氷河の行動は迅速だった。 つい先ほどまでの迷いも逡巡も、あっという間に どこかに消えていってしまった。 珍奇で優しく いじらしい小動物が逃げ出さないように、驚かせ 怯えさせることがないように、注意深く抱き上げる。 いっそ駆け出してしまいたいと騒ぐ自分の足と心を必死になだめながら、捕獲者の腕の中に収まり大人しくしている瞬を、氷河は彼の寝室に運んだ。 もう逃げられる心配はないと思いはしたのだが、あえて油断を自戒して、氷河はゆっくりと確実に、そして もちろん優しく、瞬を抱きしめたのである。 最初のうちは、怯え戸惑い 氷河の胸の下から逃げ出そうとしていた瞬は、氷河が幾度も 真実の言葉を その耳許に繰り返してやると、やがて大人しくなった。 怯えるのをやめ、むしろ氷河に すり寄ってくる。 珍奇で優しく可愛らしい、この地上にただ一個体だけ存在する大切なもの。 その美しいものを手に入れた自分は もはや、人生に復讐する必要も、嘘をつく必要もなくなったのだ。 瞬の肩を抱き寄せ、やわらかい髪の感触を その頬で確かめながら、氷河は そう思った。 |