それは決して瞬が望んだことではなく――むしろ、瞬は固辞した。
しかし、瞬のために持てる力を使いたかった氷河は、瞬の許しを得ず、さっさと事を進めてしまったのである。
政治向きのことに深い関心を抱いていない国王は、『公式行事の場に瞬の姿があれば、行事を華やかなものにすることができる』という氷河の説得に折れて――否、むしろ喜んで積極的に――その地位を瞬に与えることを承認した。
『職務を全うせよ』と国王に命じられれば、瞬とて、与えられた地位から逃げ、その職務を拒むことはできない。

そして 瞬は、儀式の飾りという侍従長次官の仕事を見事に 果たし続けた。
はるか下座に父や兄を控えさせて。
豪華な宮廷服を着て 務めを果たす瞬に向かうS子爵家の者たちの憎しみと軽蔑は、瞬が務めを そつなく 成し遂げるたび、彼等の胸の中に募っていった。

瞬が侍従長次官の地位に就いて2ヶ月が経った頃。
旧大陸でE国と並ぶ古い王家であるF国の王弟の E国訪問があった。
E国王妃の弟でもある国賓を迎えての歓迎の宴が盛大に催され、若く美しい侍従長次官は、賓客の目に留まり、その称賛を受けた。
E国国王は非常に気を良くし、瞬を侍従長次官に推挙した氷河も大いに溜飲を下げたのである。
歓迎の宴の費用を出したS子爵家の当主は、賓客の目に留まることなど 到底不可能な末席に着いていたというのに。

侍従長次官の仕事は、実に退屈なものだった――瞬でなくても、誰にとっても退屈なものだったろう。
なにしろ、侍従長の脇で愛想よく微笑を浮かべていればいいだけの仕事なのだから。
歓迎の宴が会食に入ると、瞬は席をたち、宴の行なわれている広間をそっと抜け出した。
瞬が退屈していることに気付いていた氷河は、すぐに瞬のあとを追ったのである。
瞬が退屈な仕事に うんざりし機嫌を悪くしているようなら、甘い言葉の一つでも囁いて、瞬の機嫌を上向かせてやろうと考えて。

広間を抜け出し庭園に向かった瞬を掴まえようと 庭に出た氷河は、そこで、自分より先に瞬を掴まえてしまった男がいることに気付いた。
宴の末席にいたので広間を抜け出すのも容易だったろう瞬の兄の姿に。
彼は、弟の腕を掴み、隠しようもない憤りの響きを帯びた声で、瞬を責めていた。

「瞬。これ以上、氷河に近付くのはやめろ。おまえはH公爵家に近付きすぎた。わかっているのか。家中で、おまえはすっかり孤立してしまっている。これまで おまえをS子爵家の後継にと後押ししていた者たちまで――」
「兄さん後継に傾いている?」
「そうだ。おまえに家中の変化が見えていないはずがないだろう。このままでは、家の中には おまえの居場所がなくなる。家を継ぐために敵の力を借りるなんて、家の中に毒蛇を招き入れるようなものと、皆が おまえの出世を苦々しく思っている。家中のおまえの味方は減る一方だ……!」

一輝の怒声で、氷河は、瞬に駆け寄ろうとしていた足をとめた。
何やら深刻な、聞き捨てならない話。
氷河は、回廊の柱の陰に身を潜め、S子爵家の兄弟のやりとりに耳を そばだてたのである。
月は明るいが、兄弟の表情を確かめられるほどではない。
だが、それは二人の声の響きから十分に読み取れた。
「そうだろうね」
一輝の激昂振りはもちろん、氷河には寝耳に水の事態を兄から聞かされた瞬に 少しも驚いた様子がなく、ひどく落ち着いていることも。

氷河は、瞬に高い地位を与えれば、その力になびいて瞬に味方する者がS子爵家の中に多く出るだろうと考えていた。
おそらく瞬も同じ考えでいるのだろうと思っていた。
一輝が語るS子爵家の状況は、氷河には想定外のもの。
そんな話を聞かされれば、当然 瞬も、自分と同じように驚き慌てることになるだろう。
そう氷河は思ったのだが、氷河の予想に反して、瞬の声は落ち着き払っていた。

なぜ そんなにも瞬の声は落ち着いているのか。
氷河にはすぐには わからなかったことが、瞬の兄にはわかってしまったらしい。
一輝は、弟の無思慮軽率を責める声を静め、だが、弟を責める声より震えを帯びた声で、瞬に尋ねた。
「瞬……おまえ、まさか、俺のために わざとH公爵家に近付いていったのか? 俺に家を継がせるために」
一輝は既に確信しているようだった。
だが、氷河には それは、確信どころか、全く信じ難いことだったのである。

そんなことがあるはずがない。
高い地位に就くことなど望んでいなかった瞬は、持てる力によって瞬への愛を証明したいと訴える恋人のために、不承不承 侍従長次官の職に就いたのだ。
恋人の虚栄心を満足させるために――決して兄のためなどではなく。
そのはずだった。
しかし、瞬の返事は、氷河のその認識を冷酷に否定するものだったのである。
「S子爵家は兄さんが継ぐべきなの。父上はそのつもりなんだし、僕もそうなるべきだと思う。僕と母に同情してくれていた人たちは、夫に軽んじられる貞節で健気な正妻への同情心で動いていた。僕と兄さんの才能の程度や向き不向きを、彼等は全く考えてない。僕には、兄さんの果断はないよ」

瞬は、氷河の前で兄の話をしたことがなかった。
氷河は、瞬と一輝が仲がいいのか対立し合っているのか、そんなことすら知らずにいた。
瞬が母親の違う兄をどう思っているのか、氷河は、そんなことを気にしたこともなかった。
愛人の息子に、瞬は自分が継ぐべき地位や財産を奪われたのだ。
当然 瞬は兄を恨んでいるはずだと、決めつけていた。
だが、そうではなかったらしい。
S子爵家の異母兄弟の仲は睦まじいものだったらしい。
瞬は、兄のために恋人を騙したのだ。
あるいは、瞬にとってH公爵家の総領息子は 恋人ですらなかったのかもしれない――。

氷河には不実な恋人。
だが、兄には誠実な弟。
兄を思う弟の心は、一輝を苦しめることになったようだった。
一輝の苦しげな呻きを、だが、氷河は、一輝より苦しんで聞いていたのである。
「瞬……。俺のためなら、もう十分だ。家中には、おまえがH公爵家の氷河と ただならぬ関係になっていると下種の勘繰りをしている者すらいる。俺は、おまえが そんなふうに思われることに我慢がならん。それも、おまえを知らない部外者ならともかく、おまえを よく知る家中の者たちまで――」
「……」
瞬は何も答えなかった――兄の推測を否定しなかった。
おそらく瞬は、兄の呻きに沈黙と微笑で答えたのだろう。
愛する兄に嘘をつかないために。

「瞬……。俺のために、おまえは 本当にそんなことまでしたのかっ!」
一輝の怒声は、ほとんど悲痛な悲鳴だった。
なぜ一輝が そんな嘆きの声をあげるのか、氷河には全く理解できなかったのである。
一輝は瞬に愛されている。
瞬は兄のために 好きでもない男に身を任せることまでした。
今 ここで己れの不幸を嘆き悲しむべきは、瞬に愛されていない哀れな恋人の方だろう。
愛されている一輝ではない。
愛されていない恋人の方なのだ。

「僕は氷河を――」
貴様に嘆く権利などない。
一輝への怒りが、氷河を動かした。
これ以上、瞬が兄を愛していることなど知りたくない。
その思いが、氷河の声を、S子爵家の兄弟の間に割り込ませていった。

「なるほど。そういうことだったのか。夫に顧みられない正妻の息子の不遇を利用しようとして、逆に利用されていたわけか、俺は。S子爵家の者が大人しくH公爵家の総領息子の俺に身を任せるなど、おかしいと思うべきだった。S子爵家を分裂させようとして、俺は 逆にS子爵家を一枚岩にするのに手を貸してしまったわけだ」
「氷河……」
兄弟の間に突然 割り込んできた部外者――部外者だろう――の姿を瞳に映し、瞬が眉根を寄せる。
月の光を受けた瞬の瞳は、清らかな泉の水面のように澄んで見えた。
清浄な外見に裏切りの心を隠し、愛してもいない男に身体を開くような人間の瞳が、なぜ こんなにも澄んで清らかなのか。
氷河には 全く合点がいかなかったのである。
瞬の澄んだ瞳、清らかな風情は、本当は兄のためだけにあるもので、瞬の兄以外の人間は、一輝に対する瞬の誠実を 脇から垣間見せられているだけなのだと、やがて氷河は悟ることになったが。

「氷河、何を言って……」
「控えめで大人しい不遇の正妻の子に地位を与え、愛人の子である一輝に伍する力を持たせることで S子爵家を分裂させられると思っていたのに、どうやら 俺はS子爵家内部の情勢とS子爵家の者たちの感情を見誤っていたらしい」
「氷河……S子爵家を分裂――って……」
最後のプライドを守るために皮肉な口調で うそぶく氷河に、恋人の策謀を攻める権利など持っていないはずの瞬が、傷付いた小動物のような目を向けてくる。
その眼差しがあまりに悲しげに見えて、氷河は胸が詰まったのである。

瞬には悲しむ権利も苦しむ権利もない。
自分にはどんな罪もないような目で、裏切られた恋人を見る権利もない。
こんな嘘をつくために 正直でいたのではなかったのに、H公爵家の総領息子を こんなところで みじめに強がってみせなければならない男にしたのは誰だと、氷河は瞬を なじり責めたかった。
「まったく、さすがは 生き馬の目を抜くようにして成り上がってきたS子爵家の者だけある。こんな子供が 俺より一枚も二枚も上手だったとは。こんな子供までが他人を利用する術を身につけていて、利用しようとした者を逆に利用してのけるとは恐れ入った。俺は負けを認めるしかないようだ」
「氷河が……僕を利用……?」

そんな権利など持っていないというのに、瞬の瞳から涙の粒が零れ落ちる。
月の光を受けて真珠のように輝いたそれは、次の瞬間、弟を抱きしめる兄の背によって、氷河の視界から遮られてしまった。






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