恋を失ったことに打ちのめされていることを誰にも――特に一輝には――知られたくなくて、氷河は翌日から 以前に倍して精力的に働き始めたのである。 瞬のために緩めていたS子爵家排除という目的を実現するための仕事に。 そんな氷河に一輝が声をかけてきたのは、氷河が瞬の裏切りを知らされた日の1週間後。 瞬に愛されている兄の声は、ひどく不機嫌で、ひどく苛立たしげだった。 苛立たしげに、 「瞬が泣き続けている」 と、一輝は言った。 氷河には、なぜ瞬が泣くのか、その理由が皆目わからなかった。 わかった様子を見せない氷河に、更に怒りを募らせたように、一輝が言葉を継ぐ。 「俺の弟は、リュートの演奏などより剣術、柔術、弓術の技の方に秀でている。無論、強い。この俺が仕込んだんだ、強いに決まっている。そして、瞬には 新旧大陸随一の経済力という力もある。S子爵家の当主の座に最も近いところにいる俺が、瞬の幸福のためになら一文無しになってもいいと思っているんだからな」 「……何が言いたい。貴様は、自分が瞬に愛されていることを俺に自慢しにきたのか」 だとしたら、それは実に無駄無意味なことである。 わざわざ改めて 一輝に自慢されなくても、氷河は その事実を知っていたし、その事実を憎み、僻み、瞬に愛されている男を妬んでいたのだから。 理解の遅い宮廷一の敏腕家に 我慢がならなくなったのか、一輝が ついに頭から氷河を怒鳴りつけてくる。 「だから、瞬は、それが国王でも摂政でも、もちろん おまえでも、嫌いな男に身を任せるような屈辱を受け入れる必要はないんだと言っている! それが誰だろうと、瞬は 気に入らない男は 何を恐れることもなく ぶちのめすことができるんだ!」 「……」 一輝がH公爵家の総領息子に何を言おうとしているのかはわかった。 『だが、瞬はそうしなかった』と、彼は言っている。 『なぜ 瞬がそうしなかったのかを考えろ』と、彼は言っているのだ。 考えて、導き出された答えを、だが、氷河は すぐには信じることができなかったのである。 氷河が その答えを信じる気になったのは、自分に向けられる一輝の怒りに燃えた目、怒りに震える声、怒りを向けている対象を殴り倒すことができないせいで 激しく痙攣さえしているような瞬の兄の拳のせいだった。 「俺に余計なことを言うな。余計なことを訊くな。俺に殺されたくなかったら。貴様は、俺の最愛の――誰よりも清らかで優しい弟を、俺から奪ったんだ」 最愛の弟を奪った憎い男を、一輝は殴りつけるわけにはいかなかったのだろう。 泣き続けている弟の涙を乾かすために、彼は その憎い男を必要としていたから。 「瞬を利用しようとしていたなどと、貴様が心にもないことを言ったせいで、瞬は泣き続けているんだ。だが、俺は、あれは あの馬鹿の無意味な強がりだと教えてやりたくない。なぜ この俺がそんなことをしてやらなければならないんだ。貴様が自分で釈明しろ!」 『瞬は好きでもない男に身を任せることをしない』という一輝の言葉を信じる気になった氷河が、宿敵の家に単身 乗り込んでいったのは、H公爵家の総領息子がS子爵家の正妻の子を愛していることを、一輝が わかっている――信じきっている――ように見えたからだったかもしれない。 最愛の弟を その兄の手から奪おうとした男に誠意があったという事実を、一輝は認めたくないはずだった。 まして、最愛の弟が 憎い敵の総領息子を愛しているなどということは、彼には死んでも認めたくないことだったろう。 認めたくないことを自分の意思に反して 一輝が認めるのは、そうしなければ彼の最愛の弟が不幸になるからである。 瞬のためになら 一文無しになることも厭わないと断言する男は、自身の憎しみとプライドを捨てて、氷河の許にやってきたのだ。 同じように瞬を愛する者として、氷河は、一輝の苦渋の決意をないがしろにするわけにはいかなかった。 |