地上で最も清らかで、地上で最も可愛らしい王子様。 瞬王子は、そう言われていた時もあったのです。 生まれた時は本当に可愛らしくて、その愛くるしい笑顔には誰もが癒され、つい微笑みを浮かべてしまうほど。 勇猛果敢で名を馳せた無骨な将軍も、冷酷非情で知られた権謀家も、自らに笑いを禁じた厭世家も、瞬王子の無垢で可愛らしい笑顔に出会うと、自然に頬が緩んでしまうほど。 瞬王子は、本当に愛らしい王子様だったのです。 瞬王子のお兄様が生まれた時には、その凛々しく男らしい顔立ちが、『これで我が国も安泰』『我が国の隆盛は確実』と宮廷の廷臣たちや国民を安心させたものでした。 実際、瞬王子の兄君である世継ぎの一輝王子は質実剛健、強く たくましい少年に育っています。 そうして、次に生まれた瞬王子の優しい面立ちは、自国の未来の美しさや豊穣の兆しとして、宮廷の廷臣や国民たちに大歓迎されたのです。 雄々しい世継ぎの第一王子と可憐な第二王子を得て、エティオピア王国の宮廷は 世界でいちばん華やいだ宮廷でした。 エティオピア王国の未来は、希望で明るく輝いていたのです。 ですが、至大な幸福は、時に同じくらい大きな不幸を招くものです。 あまりに可愛らしすぎたことが瞬王子の不運。 瞬王子がちょうど6つの誕生日を迎えた日、その愛くるしさに目を留めた冥府の王ハーデスが、瞬王子を彼の国にさらっていってしまったのです。 威厳に満ち寛大な父王様、優しく美しい王妃様、元気で凛々しい兄君と、可愛らしく清らかな弟君。 エティオピア王国の王室は、まさに理想の王室、理想の家族。 誰もが そう思い、誰もが憧れていたエティオピア王国の国王一家は、その時から、世界で最も気の毒な王室、世界で最も悲しい家族になってしまったのでした。 時を経て成長するほどに、その優しさ可愛らしさを増していく瞬王子を、瞬王子のお父様、お母様、お兄様は、世界に一輪しか咲かない花のように大切にし、愛していました。 そのたった一輪だけの大切な花が、突然 奪われてしまったのです。 父王様の落胆、王妃様の悲しみ、兄君の憤りは、それは深く大きなものでした。 けれど、瞬王子をさらっていったのは、人ではなく神。 それも、どれほど強い人間であっても決して打ち勝つことのできない“死”という運命を司る冥府の王です。 生きている人間にどうすることができたでしょう。 どれほど瞬王子を愛していても、生きている人間にはどうすることもできませんでした。 迷い苦しんだ果てに、瞬王子の父王様は、予言の神の神託を仰ぐことにしたのです。 人間にどうすることもできないのなら、ハーデスと同じ神に頼るしかありません。 父王様は、予言の神の神殿に供物を捧げ、どうすれば瞬王子を取り戻すことができるのか、そもそもそれは可能なことなのかを問いかけたのです。 予言の神の神託は、『生きている人間にも、瞬王子を取り戻すことはできる』というものでした。 太古の昔からハーデスとの聖戦を繰り返し地上世界を守ってきた女神アテナ。 彼女の聖闘士になれば、その者は女神アテナの加護を受け、生きたまま冥府に下ることができる。 冥府の王ハーデスと戦うこともできるのだ――。 それが予言の神の神託でした。 聖闘士というのは、鍛え抜いた肉体と精神によって生み出される小宇宙の力によって、尋常の人間には持ち得ない強さを備えた強い戦士のことです。 予言の神の神託を聞いた瞬王子の兄君は、一瞬の逡巡もなくアテナの聖闘士になる決意をしました。そうして彼は、アテナの聖闘士になるまでは故国に帰らない決意をして、地上世界における女神アテナの御座所である聖域に旅立ったのです。 その時、一輝王子と同じ決意をして、同じように聖域に向かった少年が一人いました。 氷河という名の、瞬王子より少し年上の平民の子供です。 彼は、本来なら王宮に出入りしたり 王子様の側に近寄ることは到底許されない身分の子供だったのですが、瞬王子に ひけをとらない姿の美しさと機転の良さを買われて、瞬王子の護衛 兼 遊び相手として王宮に住まうことを許されていたのです。 氷河が王宮に来たのは、彼が5歳の時。 氷河は それまでは、エティオピア王国の北の果てにある小さな島で母親と二人で つましく暮らしていました。 ですが、母子は 仕事を求めて本土に渡ろうとした際に船の事故に合い、その事故で母を失った氷河は天涯孤独の身になってしまったのです。 百人近くの客と船員を乗せていたその船の事故では、乗員の約半数が犠牲になりました。 犠牲者の中で女性は氷河の母ひとりだけ。 沈み行く船から逃れるための小舟に我が子を乗せるため、彼女自身は船に残ることを選んだのです。 その痛ましい事故の話を聞いた王妃様が 母を失った氷河を哀れみ、王宮に呼び、そして瞬王子の遊び相手として王宮に引き取ることにしたのです。 そうして氷河が守ることになった瞬王子は、それは素直で可愛らしい王子様でした。 その上、王妃様から お母様を亡くした氷河の境遇を聞かされていた瞬王子は、まるで氷河の方が この国の王子様であるかのように、氷河を元気づけるために気を配ってくれました。 その時、瞬王子はまだ3つか4つ。 幼い子供とは思えないほどの優しさを瞬王子に示された氷河は、彼自身もまだ小さな子供だったのですけれど、二度と大切な人を失わないために、瞬王子のために自分の命を捧げることを決意したのです。 そういう事情を知っていましたので、一輝王子は、たかが平民の子供が一国の王子と同じ決意、同じ希望を持って聖域にやってきたことを、歓迎はしませんでしたが追い返しもしませんでした。 大切な人を取り戻したい、守りたいという気持ちには、王族、貴族、平民の別がないことを、一輝王子は知っていたのです。 とはいえ、聖闘士になることは容易なことではなく、また、それは、10歳になったかならずかの子供たちが すぐになれるようなものでもありませんでした。 10年。 一輝王子と氷河が聖闘士になるには、10年に及ぶ苦しい修行が必要だったのです。 その10年は、普通の人間にとっては“青春”と呼ばれる時期でした。 瞬王子の奪還を諦めれば、彼等は その10年をもっと別のことに――たとえば、自分の楽しみや喜びのために――使うこともできたでしょう。 けれど彼等はそうすることを選ばなかったのです。 光あふれる世界に、瞬王子の笑顔を再び 取り戻すため、彼等は苦しい修行に耐え続けました。 10年という長い間、青春という貴重な時期を。 その10年の間に、二人の上には悲しい出来事が重なって起こりました。 瞬王子を奪われただけでも十分に悲しいことでしたのに、その上 一輝王子をも その手から奪われたも同然だった王妃様が、悲しみのあまり亡くなったのが、二人の修行開始から3年後。 気丈に 二人の息子の帰還を信じて待っていた父王様が亡くなったのが9年後。 父王の崩御によって形式的にエティオピア王国の王位を継ぐことはしましたが、一輝王子は、国政は信頼できる家臣に任せて、聖闘士になるための修行を続けました。 氷河も もちろん。 彼等には、既に他に生きる道はありませんでしたから。 そして、瞬王子がハーデスにさらわれて10年後、彼等はついにアテナの聖闘士たる資格を得たのです。 |