アテナの加護を得て、彼等はハーデスが支配する冥界へと、生きた人間の身体で乗り込みました。
とはいえ、生きた人間の身体で冥界に乗り込むことと、ハーデスから瞬王子を取り戻すことは、全く別のこと。
冥府の王が『10年間、よく頑張ったな』と にこにこしながら、瞬王子をアテナの聖闘士たちに返してくれることは まず考えられません。
瞬王子を取り戻すには、冥府での熾烈な戦いが必至と思われていました。
実際に、冥界では大変な戦いが繰り広げられたのです。
冥府の王の許しもなく生きた人間の身で冥界に入り込んだ者たちを、ハーデスに選ばれた誇りにかけて倒そうとする冥闘士たち、地獄の番犬ケルベロス、冥界の広さや地形そのものも、一輝王子と氷河の行く手を阻みました。

けれど、どれほど強大な力を持つ敵も、瞬王子を取り戻そうとする二人の聖闘士の歩みを止めることはできなかったのです。
二人は、瞬王子を地上世界に連れ戻すという目的のために すべてをかけ、すべてを捨てたような二人でしたから。
一方は、両親を失い、弟を奪われた男。
もう一方は、瞬王子以外には何も持っていない男。
全身傷だらけになりながら、二人は冥界にある至福の園エリシオンに辿り着きました。
そこで、彼等はついに、瞬王子をさらっていった冥府の王ハーデスと相まみえたのです。

冥府の王。
熾烈な戦いを戦い続けてきた二人は、冥府の王ハーデスの中に秘められた強大な力を認め、今度こそ死を覚悟しました。
自分たちは、たとえ ここで死んでも、瞬王子を地上世界に送り返せたら それでいい。
それが二人の覚悟だったのです。
ところが。
「あんなもののために、冥闘士たちを相当数 倒してくれたようだな。呆れた執念だ。あんなもののために」
ハーデスは気が抜けるほどあっさりと、瞬王子を二人の聖闘士に返してくれたのです。
「余も、軽率な酔狂を起こしてしまったものだ。あれ・・が これほど詰まらないものとは思ってもいなかった。瞬はこの宮を突っ切った奥にある離宮にいる。勝手に連れていけ」
ひどく気怠げな声で そう言って。
「こんなはずではなかった。あの子は、地上にいた時は、もっと心惹かれる子だったのに。あれは 姿ばかりが美しくなって、今では 全く余の心を惹きつけぬものになってしまった」

それはいったいどういうことなのか――。
これは何かの罠なのではないかと、背後に気を配りながら、ともあれ二人はハーデスに教えられた奥の離宮に向かったのです。
ハーデスの言葉通り、そこに瞬王子はいました。
16歳になった瞬王子。
やわらかい髪、白い肌、人形のように整った面差し、汚れを知らぬ澄みきった瞳
光沢のある純白の短衣を身にまとい、椅子に腰掛け、瞬王子は ぼんやりとエリシオンの花園を眺めていました。

「瞬! 瞬、兄がわかるか!」
「瞬、俺だ、氷河だ。迎えに来たぞ!」
「兄……氷河……?」
瞬王子がハーデスに さらわれたのは、僅か6歳の時でした。
それから、10年。
瞬王子が、いつも一緒だった二人のことを忘れていても、それは仕方のないことだったかもしれません。
二人は もう10歳の子供の姿をしていませんでしたから。
けれど、それならそれで 初めて会う見知らぬ男たちに名を呼ばれたことに驚いてもいいはず。
二人は、得体の知れない鎧のようなものを身にまとい、その上、全身 傷だらけ。
その身体には、敵の返り血さえ こびりついていたのです。
にもかかわらず、瞬王子は、突然 目の前に現れた二人の男たちに、どんな感情を動かされた様子も見せませんでした。

「たった一人で寂しかっただろう」
「だが、もう大丈夫だ。おまえは元の世界に戻れるんだ」
「寂しい? 元の世界?」
一輝王子や氷河が何を言っても、瞬王子は抑揚のない声で 彼等の言葉を繰り返すだけ。
懸命に抑えてはいましたが、完全に隠し切れていない二人の気勢、緊張や気迫、そして歓喜にも気付いていない――いいえ、気付いてはいるのでしょうが、何も感じていない――ようでした。
そんな瞬王子を見て、一輝王子と氷河は知ったのです。
ここにいる瞬王子は 以前の瞬王子ではないこと、もしかすると心をなくして 動く人形に成り果ててしまった瞬王子なのかもしれないことを。

ハーデスは彼の国で、瞬王子を 彼なりに大切にしていたのでしょう。
彼は、豪奢な神殿の部屋に住まわせ、綺麗な服を着せ、贅沢なものを食べさせ、何不自由のない生活を瞬王子に与えたのです。
おそらくは、綺麗な人形を ガラスケースに飾っておくように。
瞬王子は、実際、人とは思えないほどろうたけて美しい少年に成長していました。
けれど、ひどく無感動な目。
美しく澄んでいるのに、その瞳は、命のない透明な緑色の宝石。

何不自由のない暮らし。
悲しみも苦しみも知らず、汚れから遠ざけられ、いかなる憂いもない日々。
憂いを知らない代わりに、喜びも知らない10年。
喜びにも悲しみにも心を動かされることなく過ごした10年。
瞬王子の空ろな瞳は当然のものだったでしょう。
瞬王子は、人として愛されず、心を持つ人として生きることも許されずに、長い時を過ごしてきたのですから。
瞬王子は、ついに最愛の弟を取り戻した兄王子に 涙ながらに抱きしめられても、僅かに首をかしげただけでした。






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