広い庭園の片隅にある石のベンチに腰をおろし、瞬は今日も一人で ぼんやりと初夏の花々を眺めています。 10年前なら こんなことは まずありえないことでした。 10年前は、瞬王子の笑顔を見て温かい気持ちになりたい人間たちが いつも瞬王子を取り囲んでいました。 瞬王子が一人で ぽつんとベンチに腰掛けているなんて、絶対になかったことでした。 けれど、最近は それが瞬王子の日課。 自分から望んで瞬王子の許にやってくる者は、ほとんどいません。 おそらく――人は、人に、『美しい』という理由だけで惹きつけられることはないのでしょう。 一人でいることが常態になってしまっている瞬王子は むしろ、氷河が自分の許を訪れ続けることの方を奇異に思っているようでした。 「どうして氷河は毎日 僕のところに来るの」 瞬王子が氷河に尋ねてきます。 「おまえが寂しい思いをしているのではないかと、気になって」 氷河が そう答えると、瞬王子は首をかしげ、氷河が口にした言葉を不思議そうに繰り返しました。 「寂しい?」 愛することを忘れた人間の中には、“寂しい”という気持ちも生まれないものなのでしょう。 それはそうです。 “寂しい”という気持ちは、愛する人、愛してくれる人が自分の側にいない状態のことなのですから。 瞬王子の奪われた10年。 寂しいと感じることさえできなくなるほど長かった10年。 その10年を取り戻すには、同じだけの時間、あるいは それ以上の時間が必要なのかもしれません。 氷河は、既に その決意をしていました。 10年。 たとえ瞬王子に心を向けてもらうことはできなくても、たとえ瞬王子と心を通わせ合うことはできなくても、自分は瞬王子を愛し続けていようと。 たとえ無感動な瞳の持ち主になっても、自分は瞬王子を愛さずにいることはできないのだから、と。 瞬王子に 人を愛する心を取り戻させようとする氷河の願いが、他の者たちのように性急なものでないことが感じ取れているのか、瞬王子は、氷河といる時は 他の人間といる時より心安くしていられるようでした。 他の人間には その人が口にした言葉を鸚鵡返しするだけの瞬王子が、氷河とは会話を成り立たせることもできるようになっていましたから。 「ねえ、氷河。僕はどうしても誰かを愛さなくちゃならないの? 誰もが そうすることはいいことだと言って、誰もが そうすることを僕に求めるの」 愛を忘れてしまった瞬王子には、皆が自分に求めることが理解し難いことなのかもしれません。 人を愛することは、確かに義務ではありませんからね。 けれど、それは 人が生きていくには必要なもの。 必要なもののはずでした。 「愛することを知らないと、人は幸せになれない。そう思って、皆は――。瞬、おまえに愛する心を取り戻してほしいと望んでいる者たちは、誰もが おまえが幸福になることを願っているんだ。おまえのために、そうなることを願っている」 「僕のため?」 一瞬、瞬王子は、これまでになく冷ややかな視線を氷河に向けてきました。 何ごとかを言いたげにして唇を震わせ、けれど 結局何も言わずに 瞼と顔を伏せてしまいます。 そうして次に瞬王子が顔を上げた時、瞬王子の瞳には、愛ではないにしろ、何らかの感情のようなものがたたえられていました。 「誰もが僕に、愛することを思い出せと言うの。それが 死んでも果たさなければならない僕の義務みたいに。僕が、どうすれば愛せるのって訊くと、責めるような目で僕を見て、がっかりしたように帰っていく。何度か そんなことを繰り返して、やがて二度と僕の許に来なくなる」 「それは――」 瞬王子は、確かに あの愛くるしい笑顔の力は失ってしまっていました。 けれど、瞬王子は、その身に ある種の冷徹さを伴った聡明さを備えていました。 『あの人たちは、“僕のため”に愛することを思い出せと言っているのではない』と、瞬王子は言っていました。 『一向に愛を思い出さない僕に 期待を裏切られたと感じ、あの人たちは僕の前から去っていくのだ』と。 瞬王子の推察は、おそらく正鵠を射ています。 はっきり、『あの人たちは“僕のため”なんか考えていない。“自分のため”にそうしているのだ』と言ってしまわない分、もしかしたら瞬王子は優しいのかもしれません。 ですが、氷河は、“瞬王子のため”に動いているのではない者たちを責める気にはなれませんでした。 自分が愛を感じている人に 愛を返してもらえないことは、つらく悲しいことです。 そして、瞬王子が思うように、愛することは決して義務ではないのです。 瞬王子に愛を返してもらえないことに落胆した彼等が、瞬王子を愛することをやめてしまっても、彼等は罪を犯したことにはならないのです。 「僕のところに ずっと来てくれているのは、氷河の他には僕の兄さんだけ。そして、兄さんは せめて父と母を愛してくれと言うの。どうすれば そうできるのかがわからなくて黙っていると、悲しそうな目で僕を見て、肩を落として どこかに行ってしまうの」 「一輝は――」 他の者たちは いざ知らず、瞬の兄だけは 自分の満足のために 瞬王子が愛を思い出すことを望んでいるのではありません。 彼は、確かに“弟のため”に それを望んでいるのです。 同時に、“父と母のため”にも それを望んでいるだけで。 「人を愛せないことは、そんなに悪いことなの。僕だって、愛せるものなら愛したい。でも、本当に わからないんだもの。どうすれば愛せるのか」 「瞬……」 「僕は誰かを、何かを、必ず愛さなくちゃいけないの? 僕には、わからない。みんなの言うことは難しすぎて――難しすぎるの……」 膝の上に置かれた二つの小さな拳を握りしめ、瞳に涙をにじませて、瞬王子が言い募ります。 その様を見て、氷河は初めて気付いたのでした。 人を愛することを強要されて、瞬王子が ひどく苦しんでいることに。 それは、ですが、当然のことです。 愛は強要によって生まれてくるものではないのですから。 『愛せ』と言われて、愛せるようになるものではないのですから。 瞬王子は、心のない人間になったわけではなく、悪意や反抗心から愛を拒否していたわけでもないのです。 強いられるべきではないものを強いられて、しかも皆の期待が大きすぎるほどに大きいことがわかるから、瞬王子は足がすくみ、身動きがとれなくなっていただけだったのかもしれません。 瞬王子の震える肩、唇、涙の膜で覆われた瞳、声。 その様子が あまりに心細げで、頼りなげだったので――氷河は胸が詰まり、思わず叫んでしまっていたのです。 「愛さなくていい!」 と。 瞬王子が人を愛せないからといって、それは責められるようなことでしょうか。 瞬王子は、長い間、愛から遠ざけられていたのです。 自分から望んで離れたわけではありません。 愛せないことは、瞬王子の罪ではないのです。 「愛さなくていい。そんなに つらいなら」 愛さなくていい。俺が愛するだけで。 氷河は、そう思いました。 まるで自分に言いきかせるように。 「あ……愛さなくてもいいの?」 「ああ」 愛せない瞬王子に 罪はない。 「でも……人を愛せない僕は、冷酷で残酷な悪い子なんでしょう?」 「そんなことはない。愛は、強いるものでも強いられるものでもない」 勝手に俺が愛しているだけ、愛さずにいられないから、勝手に俺が愛しているだけなのだ。 その愛が報われなかったとしても、だからどうだというのだろう。 愛さずにはいられないから愛している人間に、報いは必要なものではないはずだ――。 「ほんとに愛さなくてもいいの?」 「ああ。愛せないことで、おまえが苦しむ必要はない。おまえは楽になっていいんだ」 「あ……」 瞬王子から 光輝くような笑顔を奪っていたのは、もしかしたら、愛することを忘れた事実ではなく、愛せないことへの罪悪感だったのかもしれません。 そして、瞬王子が 愛と愛の記憶を取り戻したのは、おそらく その時でした。 『愛さなくていい』と、“瞬王子のため”に氷河が言った時。 次の瞬間、瞬王子は掛けていたベンチから弾かれるように立ち上がり、氷河の胸に飛び込んできました。 そして、瞬王子は、氷河の胸の中で、堰を切ったように声をあげて泣き出したのです。 まるで 10年間 胸の奥に隠していた悲しみと苦しみを吐き出すように。 「お母様、お父様、兄さん……ああ! ああ……!」 喉の奥から搾り出すような声で、父と母と兄を呼びながら。 その嘆きの声は悲痛そのものでした。 愛していた人たちが自分のために泣き、苦しみ、命さえ失ってしまったことを、今 初めて知らされ、その衝撃のために ありとあらゆる感情が身体の中を駆け巡り、その行き場を見付けられず、心も声も五感までが引きつり、痙攣し、のたうちまわっているかのように――瞬王子の嘆きは悲痛そのものでした。 「瞬……」 自分を抑えることを知らない幼い子供のように、持てる力と嘆きのすべてを氷河の胸にぶつけてくる瞬王子。 氷でできているのかと疑ってしまいそうになるほど静かで端正だった顔を 涙で滅茶苦茶に乱し、まるで6歳の子供に戻ったように泣きじゃくる瞬王子。 一輝国王が語った両親の悲運を、瞬王子が今 初めて知ったこと――両親の死の意味を 瞬王子が今 初めて理解したことに、氷河は気付きました。 ハーデスに人形のように扱われていた瞬王子。 愛する者たちから引き離され、代わりの愛も与えられず、孤独のみを与えられていた瞬王子。 幸福だったときの記憶があると 耐えられそうにない孤独の中で、瞬王子は自らの記憶を自分の意思で封じてしまっていたのではなかったのか。 そう 氷河は思ったのです。 幸福な愛の記憶は、時に、生きていることに耐えられなくなるほど人を傷付けるものです。 愛を与えられない苦しみ、愛する者を与えられない苦しみに耐えるために、瞬王子は、最初から愛を知らなかったことにして、なんとか生き延びようとしたのかもしれません。 すべては、どんな孤独、どんな苦しみにも耐え抜き、生き延びて、自分を愛してくれた人たち、自分が愛していた人たちに もう一度会うために。 すべては、優しかった母君、温かかった父君、愛し慈しんでくれた兄君にもう一度会うため。 きっとそうです。 そうだったのです。 本当は瞬王子は、愛することを忘れていた時など、ただの一瞬もなかったのです。 |