星矢の不退転の決意。 紫龍の超理論。 それらが全くの空振りに終わったのは、言ってみれば、氷河と瞬の立場の違い、あるいは、氷河と瞬が ある意味では全く同じ立場にあったからだったろう。 瞬は、仲間たちに氷河を責めさせたくなかった。 氷河は、仲間たちに瞬を責めさせたくなかった。 そして二人は共に、こうなったことの原因が自分にあると考えていたのだ。 殴ってでも事情を白状させてやると気負い込んで氷河を捕まえた星矢(と紫龍)は、氷河に殴りかかっていくまでもなく あっさりと、彼から瞬の職場放棄の理由を知らされてしまったのである。 氷河を問い詰めるための前振りとして、最近の瞬の職場放棄はけしからんと告げた星矢に、氷河は、 「瞬には何の責任もない。悪いのは俺だ」 と答えてきたのだ。 問い詰めるどころか、そもそも星矢たちが彼に事情を問う前に。 瞬の職場放棄に白鳥座の聖闘士が関わっていることを、あまりにも簡単に氷河に認められてしまった星矢は、一瞬 本気で気が抜けてしまったのだった。 そんな星矢に代わって、紫龍がすかさず、 「悪いのはおまえ――とは、どういう意味だ」 と突っ込んでいったのは、彼が、このタイミングを逃すと 氷河から瞬のアフリカ行きの訳を聞き出すことができなくなるのではないかと案じたからだった。 氷河が星矢の気が抜けるほど あっさりと自らの責任を認めたのは、どう考えても、瞬に いかなる非も責任もないことを明らかにするためである。 そういう事情がなかったら氷河はどこまでも黙秘を貫いていたに違いない。 そう、紫龍は思ったのである。 沈鬱のせいで黒色に近くなっている氷河の瞳の色を見て。 実際、それは、当人である氷河以外の人間も――星矢も紫龍も――到底 明るい気持ちになれるような事情ではなかった。 紫龍に素早い突っ込みを受けた氷河が、優に30秒近い沈黙と逡巡の後に 暗く重たい口調で語り出したのは、要するに彼の失恋報告だったのだ。 「俺は、シベリアで―― 一人になって何度も考えたんだ。俺が瞬なしでも生きていけるのかどうかを。散々考えて、最終的に、『生きていくことはできるかもしれないが、決して幸福にはなれないだろう』という答えに行き着いた。だから、瞬に好きだと告白して、いつまでも俺の側にいてくれと頼んだ。それだけだ」 「それだけ……って」 “それだけ”では、瞬が頻繁にアフリカに出掛けていく理由はわからない。 少なくとも星矢にはわからなかった。 わからなかったので、そういう顔をした。 察しの悪い星矢に、氷河が苦々しげな一瞥をくれてくる。 「だから――俺は瞬に好きだと言った。だが、瞬はそうではなかった。それだけだ」 「“それだけ”じゃ わかんねーってば。だからって、なんで瞬が――。俺が知りたいのはさー」 「俺は瞬に嫌われた――とまでは言わないが、避けられている。瞬が頻繁にアフリカに行くのは、俺が日本にいるからだ」 「……」 そこまで言われて やっと、星矢は話の筋を理解したのである。 そして、氷河にそこまで言わせてしまった自分の察しの悪さを 悔やむことになった。 とはいえ、だからといって、ここで『ごめんなさい』では、あまりに 決まりが悪い。 かといって、他に適切なコメントも思いつかない。 何を言えばいいのかがわからなくて 何も言えずにいた星矢に、氷河が、無理に作ったことが一目瞭然の微笑を向けてくる。 彼は両の肩をすくめ、軽く首を左右に振った。 「まあ、普通の人間なら、同性に好きだと告白されたら、気持ち悪がって逃げ出すだろう。瞬は常識と 極めて一般的な感性を持ち合わせているんだ。俺がおかしいだけで。こればかりは仕方がない」 「で……でもよ。仕方がないっていうなら、おまえが瞬を好きになったことだって、仕方のないことだろ。好きになっちまったもんは仕方がない」 「そうだな……」 それまでは多少なりとも気を張っていることが感じとれていた氷河の声が、力ないものに変わる。 特殊な恋への偏見が全くない鷹揚な星矢の言葉は、しかし、氷河の心を慰撫する いかなる力も有していなかったのだろう。 そういう考えを、氷河は、星矢ではなく瞬にこそ持っていてほしかったに違いないのだ。 「俺が瞬を好きなことは“仕方のないこと”で、俺自身にも どうすることもできない。俺は、少しでも瞬の側にいたい自分を変えられないし、その気持ちに逆らえない。だから、俺よりは自分をどうにかできる瞬が、俺から離れていってくれているんだ」 「……」 瞬の職場放棄の訳はわかった。 氷河に気まずい思いをさせたくなくて、瞬は 二人が顔を会わせる機会を極力減らそうとしている――のかもしれない。 それは、人との争い事や いさかいを嫌う瞬らしい行動と言える――のかもしれない。 しかし、星矢は釈然としなかったのである。 「俺が悪いんだ。どうしても、自分の気持ちを瞬に知ってもらいたくて、好きだと告白してしまった。死ぬまで言わずにいるべきだったのに。そうすれば、俺は瞬の仲間のままでいられたし、瞬も俺の仲間のままでいられた」 戦うための力を我が身に備えることを恐れ逃げていた幼い頃の瞬ならともかく、つらく苦しく厳しい幾多の戦いを経験し、それがいかなる戦いでも――敵と拳を交える戦いでも、理不尽や矛盾や不公平な運命との戦いでも、自分自身の心との戦いでも――人には決して避けることのできない、いつかは真正面から立ち向かっていかなければならない戦いがあることを、今の瞬は知っているはずだった。 だというのに、今の瞬がしていることは、正しく“逃げ”である。 そして、それが いつまでも逃げていることのできない問題だということは、瞬もわかっているはず。 たとえ氷河を傷付けないためでも、瞬がそんなことをするだろうか。 「瞬は、人を嫌えない。こんな俺でも、多分 嫌えない。言わずにいればいいことを言ってしまった俺を思い切りなじり責めてくれてもいいのに、わざわざアフリカまで行かずに ここで露骨に俺を避けてくれてもいいのに、瞬は そんなこともできずに――」 幾多の戦いの中で培ってきた肉体の強さや精神の強さが役に立つ種類の問題ではないことも、わからないではなかった。 しかし――それでも星矢は釈然としなかったのである。 |