「森でいかがわしい行為に及ぼうとしていたそうだが、そなたたちは恋人同士なのか」 氷河と瞬に そう尋ねるカタリン夫人の声は、他人に遠慮をするという経験を持ったことのない人間のそれだった。 血の伯爵夫人の姪の娘ということだったが、ナダスティ家の一員でもあるということは、彼女にはトランシルヴァニア公国のバートリ家とハンガリーのナダスティ家、二つの名家の血が流れているということなのだろう。 その上、ハンガリー国王を君主でなく敵とみなしているなら、国内に恐いものなどないに違いない。 遠慮のないのも当然のことである。 実際 カタリン夫人は、明白に外国人である氷河と瞬の身分を気にした様子もなく、城の広間に立たせたまま下問を続け、客間に案内しようとする気配も見せなかった。 「俺はそのつもりだが」 カタリン夫人は、氷河の答えが聞こえていない振りをした。 瞬が答えずにいることが肯定の意なのか否定の意なのかを考える素振りは見せたが、彼女は氷河の答えに意味があるとは思っていないようだった。 実際、カタリン夫人には、氷河の“つもり”など どうでもいいことだったのだろう。 彼女は瞬の表情だけを注意深く見詰めていた。 彼女のそんな態度が、氷河の気に入るはずがない。 「そなたは、なぜ男の格好をしているのだ?」 気に入らないカタリン夫人が、訊いてはならないことを瞬に訊く。 瞬がぴくりと こめかみを引きつらせるのを認めた氷河は、内心で苦笑しつつ、そして 慌てて、二人の間に割って入ることになった。 「最近、この界隈では美しい娘が吸血鬼に さらわれる事件が多発していると聞いた。俺の瞬が 吸血鬼なんかに目をつけられたら ことだからな。目くらましだ」 村の娘たちの誘拐事件の話を出されても、カタリン夫人は全く動じた様子を見せなかった。 「ほう」 と、事件そのものと氷河を馬鹿にしたような短い声を洩らしただけで。 だからといって、彼女は事件に無関係なのだと思うことは、氷河にはできなかったが。 血の伯爵夫人エリザベート・バートリが650人もの娘を惨殺した時、彼女は、自分が自分と同じ人間の命を奪っているのだとは考えていなかったに違いないのだ。 「まあ、それは建前上の理由で――見ての通り、瞬は美しい。そして、俺は嫉妬深い男だ。これまで大切に守ってきた恋人を、思いを遂げる前に、横から他の男に かっさらわれてはたまらんからな。他の男の目に留まらないようにという用心だ」 「氷河……!」 瞬が咎めるように氷河の名を呼んだのは、毎晩“思いを遂げて”いる男が白々しく言ってのける嘘八百に呆れたからだった。 瞬の顔だけを注視していたカタリン夫人は、氷河が微かに浮かべた皮肉の笑みに気付いた様子もなく、それゆえ 瞬の叱責を恥じらいのそれと誤解したようだった。 カタリン夫人が、顎をしゃくるようにして氷河に頷く。 「男というのは醜くて浅ましいものだからね。そなたの用心深さは正しい。これで そなた自身もこの娘から離れれば、この娘の美しさ清らかさは完全に守られることになるだろうが……そなた、自分だけは特別だと思っているのか」 「そうは言わないが、この地上に、瞬に釣り合う男は俺くらいしかいないと思ってはいるな」 「その程度で――と言いたいところだが、確かに、そなたも ポジョニの宮廷に行っても まず お目にかかれないほどの美形ではあるな」 「見る目はあるんだな。女のくせに 俺より瞬の方に目を留めることからしても、審美眼は確かなようだ。あんたが女好きだというのなら、また話は別だが」 探るような氷河の言葉を、カタリン夫人は鼻で笑った。 一見した限りでは 20代前半の若い娘に見えるのに、そういう仕草は 確かに歳を経た高慢な女のそれである。 「男も女も、美しければ どちらも好きだよ。使い道が違うだけだ。そなたたち、どこから来た」 「ギリシャのアンドロス島だ。海を見飽きて、有名な血の伯爵夫人の城を見物に来た」 「ここがその城だよ。血の伯爵夫人は私の大伯母。そなたたちの美しさに免じて、この城に滞在することを許そう」 「えっ !? 」 カタリン夫人の視線が あの宿の部屋でさえ、氷河の愛撫がなかったら耐え難いほどだったのに、あの部屋に輪をかけて狂っているような この城に“滞在”して正気でいられる自信がない――。 瞬があげた声は、そういう意味での抗議の声だったのだが――それは氷河もわかっているはずなのに――彼は瞬の抗議の声を無視した。 無視したというより、彼は、カタリン夫人の前で わざと瞬の抗議の声を 恐怖と懸念から出たそれに曲解して見せたのだ。 その上で、瞬の懸念を代弁する形を装い、 「俺たちを殺して血を取る気か」 と、単刀直入にカタリン夫人に尋ねていく。 その単刀直入さを潔さと解したのか、愚直と解したのか――カタリン夫人は、今度は 大らかに声をあげて笑った。 そして、 「私は大伯母とは違う。大伯母のような無意味な殺生はしない。血など、生臭いだけだ。血で若さや美しさを保つことなどできない。人間の若さと美しさを保つための最良の薬は恋をすることだよ」 と言って、自身の血族を嘲った。 50年前なら、それは彼女が事件の犯人ではないことの思想背景を物語る状況証拠になり得ていただろう。 しかし、50年後の今 起きている事件では、彼女の言う通り、“無意味な殺生”は行なわれていない。 自分が何を言ってしまったのか気付いていないらしいカタリン夫人を、氷河は冷ややな目で見おろした。 「その意見には賛同する」 とだけ答えて頷き、氷河はその場でカタリン夫人を問い詰めるようなことはしなかったが。 高慢ゆえの迂闊。 瞬は、ひやひやしながら、二人の丁々発止のやりとりを聞いていたのである。 もっとも、カタリン夫人は、氷河の切り込みによって自分が手負いになったことに気付いてもいないようだった。 瞬は、だが、カタリン夫人の迂闊や油断、無防備が、かえって恐かったのである。 こういう人間は、自分の行為が他者に大きな影響を及ぼすことを想像することができず、信じられないほど気軽に大きな罪を犯す。 これまで瞬がアテナの聖闘士として戦ってきた敵のほとんどが、こういう考え方をする者たちだった。 彼等(彼女等)は、自分以外の人間の命や人生の意味や重みを全く考えないのだ。 とはいえ、瞬がこれまでに戦ってきた敵たちは、そのほとんどが神か 神によって操られている人間たちだった。 彼等と違って、カタリン夫人が ただの人間であること――ハーデスの影響が全く感じられないこと――が、今、瞬を戦慄させていた。 「そなた、処女か」 「えっ !? 」 その戦慄を誘う“ただの人間”に突然 そんなことを問われ、瞬は一瞬 思考が止まってしまったのである。 声と言葉に詰まった瞬の代わりに、氷河が またしても白々しい嘘を 淀みなく言い立てる。 「貴様の城の魔女と巨人が来なかったら、今頃、瞬の処女は俺のものになっていたのに、貴様の従僕が その邪魔をしてくれた」 「それは重畳。おまえたち、よい仕事をしたね」 女主人の両脇に控えていた魔女と巨人に、カタリン夫人が声をかける。 とはいえ、彼女の声には、彼女の従僕たちの仕事振りを褒めている響きは毫も含まれておらず、魔女と巨人も自分たちがカタリン夫人に褒められたとは毫も思っていないようだった。 二人は――おそらくは、彼等のみならず、この城でカタリン夫人に仕えている者たち全員が――自分が女主人の機嫌を損ねるような失敗を犯さないことのみを心掛け、それ以上のことは何も望んでいないに違いなかった。 彼等には、自分たちが女主人に褒められることなど思いもよらないことなのだ。 カタリン夫人は、この城と彼女の領地の絶対君主。 彼女の下僕たちは 彼女の意に沿うことだけが務めであり、彼女は 彼女の下僕を褒める必要もない。 その権利を神が彼女に与えたと、彼女と彼女の下僕たちは信じているのだろう。 その絶対君主が、魔女に命じる。 「客人たちのために部屋を。ただし別々の」 彼女の指示を聞いて、その顔に露骨に不満の色を浮かべた氷河に、カタリン夫人は、 「この城の中で不届きな真似をすることは許さないよ」 と、鋭い釘を刺した。 そして、瞬に親切顔で忠告する。 「純潔は大切にせよ。捧げる相手を間違えぬよう。せっかくそれほど美しく生まれたのだ。神でなく人に捧げるなら、高貴な人間に捧げた方がよい」 彼女の言う“高貴な人間”とは、たとえばハンガリー随一の名門ナダスティ家の者を指すのだろうか。 「下賎で悪かったな」 氷河の皮肉めいた ぼやきは、カタリン夫人の耳には届かなかったようだった。 ともかく、そういう経緯で、氷河と瞬はチェイテ城に“滞在”することになったのである。 魔女に案内された部屋の扉の前に、魔女と共についてきた巨人が そのまま見張りに立ったのを見て、自分が この部屋に軟禁されてしまったことに、瞬は否応なく気付かされてしまったのだった。 |