それまでは 夜に一度、ごく短い時間で 瞬の様子を確かめることしかしていなかったカタリン夫人が、昼日中に 瞬の部屋を訪ねてきたのは、瞬が この城で8回目の夜明けを見た日のことだった。
氷河の身に何か起きたのか、状況に何らかの変化があったのかと 緊張した瞬の前に、カタリン夫人に付き従ってきた小間使いが置いたのは、最近 発見された貴腐葡萄で作られたという貴腐ワイン。
『ここの酒は特別製なんだ』という話を聞いたばかりだった瞬は、別の意味で緊張したのだが、カタリン夫人は特にそれを瞬に飲むように強制はしなかった。
カタリン夫人の香水は、今日も麝香。
ワインよりカタリン夫人の香水の香りの方に苛立って――むしろ悲しくなって――瞬は氷河に会わせてほしいと、彼女に頼んだのである。
カタリン夫人の返事は、
「恋人が寂しがっているだろうから 会いに行ってやりなさいと、あの男には何度も言ったのだけど、起きるのが面倒らしくてね。本当に、男ってのはどうしようもない」
というものだった。

『氷河は毎日 僕に会いに来てくれてるよ!』と、瞬は彼女に言ってしまいたかったのである。
カタリン夫人と同じ香りを漂わせて会いに来てはくれるが、恋人の姿を視界に映していないような氷河の虚ろな瞳を思い出すと、かえって つらく、悲しくて、瞬は結局 彼女に何も言うことができなかったが。
もしかしたら氷河は、本当は、カタリン夫人の言うように“起きるのが面倒”なのに“わざわざ”興味を失いつつある恋人に会いに来てくれているのかもしれない。
カタリン夫人は、彼女の虜囚に嘘をついているわけではないのかもしれない。
瞬は唇を噛みしめて、瞼を伏せた。
そんな瞬の様子を、カタリン夫人が無言で見詰める。
かなり長い時間、彼女はそうしていた。
そうしてから、やがて 彼女は 瞬の前で しみじみと長い溜め息をついた。

「若く美しい娘は、燭台の灯火などより、やはり陽光の中で見るべきだね。本当に奇跡のように美しい。なんて綺麗な肌。あんな男に触らせてはいけないよ。これほど なめらかな肌、野卑な男に触られたら、きっと傷付いてしまう」
言いながら、カタリン夫人が、あの蛇の身体のように冷たい手で 瞬の頬を撫でてくる。
その感触は、なぜか瞬に氷河の熱い身体を思い起こさせた。
彼女の手のこの冷たさが、氷河の熱を帯びた身体には心地良く感じられるのかもしれない。
だから氷河は、彼の恋人を抱きしめることを 以前ほど楽しく快く思えなくなってしまったのかもしれない。
だから氷河は、以前のように その瞳に情熱をたたえて彼の恋人を見詰めることをしなくなったのかもしれない――。
この城に来てからの氷河の変化の理由を 他に思いつけないことが、瞬の心を傷付けた。

「でも、僕は氷河が好きなんです」
「だめだめ。男なんて皆、浅ましくて汚らわしくて――」
男を貶める言葉を男に言っていることに、彼女は気付いていない。
『なら、氷河を僕に返して!』
口をついて出そうになった言葉を、瞬は懸命に喉の奥へと押し戻した。

いったい彼女は何のために 瞬の許にやってきたのか――。
カタリン夫人は、その冷たい手と言葉で瞬を傷付け、それ以上は何をするでもなく、何を言うでもなく、瞬を閉じ込めている部屋から出ていってしまった。
テーブルに、特別製のワインが入ったデキャンタとグラスだけを残して。

最近有名になった貴腐葡萄で作られる貴腐ワイン。
ハンガリーのワインの美味には、アテナも言及していた。
オスマン帝国の侵略のために収穫の遅れた葡萄で作ったワインが、思いがけないほど深い こくを持つワインを生んだ。
それが貴腐ワインの始まりだったらしい。
異なる神を信じる二つの国の争いが生んだ そのワインは、金色に輝く白ワインだと、瞬は聞いていた。
しかし、カタリン夫人が瞬の許に運ばせたワインは、血のように赤い色をしていた。
それでなくても苦手な匂い。
そして、不吉な色。
瞬はその赤いワインをベランダから庭に撒き散らした。
飲んだことにしておいた方がいいだろうと冷静に判断して 瞬はそうしたつもりだったのだが、瞬を そういう行動に駆り立てたのは、氷河が彼の恋人に触れてくれなくなったことへの苛立ちや不安だったかもしれない。






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