三つの謎の小宇宙の正体は、アテナが アテナの“つて”とはどんなものなのか、青銅聖闘士たちは少々 引っ掛かりを覚えたのだが、『地上の平和と安寧を守る』を表看板に掲げた聖域の統率者に、笑顔で、 「蛇の道は蛇と言うでしょう」 と言われてしまった彼等は、即座に その件に関しては一切触れないことを決定したのである。 世の中には、触れずにいた方がいいことがあり、知らずにいた方が幸せでいられることがある。 愛と平和を標榜する女神が知る蛇の道など、その典型的なものだった。 とはいえ、もちろん、世の中には 知れば幸せになれることもある。 氷河にとって それは、瞬のお守りの出自だった。 「すまん。俺のせいで、おまえの大切なものを――」 元凶は別にいるにしても、瞬が仲間を救うために大切なお守りを失ったことは事実である。 白く なめらかな手を傷だらけにしても、瞬が諦めようとしなかったもの。 それを、瞬は、敵の罠に 文字通り はまり込んでしまった仲間のために諦めることをしたのだ。 氷河の謝罪を受けた瞬が その顔に浮かべたものは、だが、怒りでも 悔恨でも 悲しみでも 諦観でもなかった。 まるで自分の方が 仲間に 大切なものを失わせてしまった人間であるかのように、瞬は 氷河の前で申し訳なさそうな表情を浮かべた。 「忘れた振りをしているだけかと思っていたのに……氷河、ほんとに憶えてないの」 「何をだ」 「あのチェーンは氷河のだよ。僕が氷河からもらった、氷河のマーマのチェーン」 「……」 瞬にそう言われても、氷河には“マーマのチェーン”を瞬に譲った記憶がなかった。 母から手渡されたロザリオは、今も氷河の手許にあったのだ。 そのチェーンと共に。 瞬が何を言っているのか わからない――そんな顔をして口をつぐんだ氷河の様子を見て、瞬が困ったような顔になる。 「これは母さんの形見だから肌身離さず持ってろって言う兄さんから もらった あのペンダントを、僕はずっと恐いって思ってたんだ。子供の頃、氷河にそう言ったら、氷河は あのペンダントに刻まれてる『 Yours ever 』の誓句を見て、その意味を僕に教えてくれて――きっとあれは僕の父さんが母さんに贈った誓いの言葉だから、たとえその二人の子供でも、他の人間が持ってちゃいけない気になるのかもしれないな……って言ったんだ。恐いんじゃなくて、二人の邪魔をしてみたいで 気まずさを感じるだけだよって」 「俺が? 俺が そんなことを言ったのか?」 「言ったよ。そして、それでも恐いって言い張る僕に、氷河は氷河のマーマのロザリオのチェーンを僕にくれたの。『これは、神様が俺を守ってくれるようにって、俺のマーマが俺にくれたんだ。ロザリオはやれないけど、マーマのチェーンをおまえにやる。神様がおまえを守ってくれるように。それなら 恐くないだろ。神様とマーマと俺が、おまえの無事と幸せを祈ってる』――そう言って」 「一字一句……よく憶えてるな」 「憶えてるよ。僕は、代わりに、あのペンダントについていたチェーンを氷河にあげて……チェーンを替えたら、それまで重苦しくてならなかった あのペンダントが、なんだか 少し軽くなったような気がしたんだ」 「それって、氷河のチェーンが18金で、おまえのチェーンが純金だったからじゃないのかあ?」 その時の仲間の言葉を ほぼそのまま憶えているくらいなのだから、それは幼い瞬には よほど印象的な出来事だったのだろう。 星矢に脇から無粋な茶々を入れられて、瞬は彼のもう一人の幼馴染じみを軽く睨みつけた。 そして、無粋な星矢の見解を綺麗に無視する。 「氷河のマーマのチェーンは、いつも僕を守ってくれた。アンドロメダの聖衣を手に入れて ネビュラチェーンのことを知った時には、つくづく僕はチェーンに守られるようにできてるんだって思ったよ。あのベンダントがハーデスの呪縛だったことを知って、子供の頃の僕が どうして あれを恐がっていたのかが わかった。そして、氷河のマーマのチェーンがずっと僕を守ってくれてたんだって思ったの。だから――」 瞬は一度、そこで言葉を途切らせた。 「だから――だから、氷河を守るためになら、なくしても、多分、マーマは許してくれるよ」 そう告げて、しかし、瞬は 言葉とは裏腹に 自分が許されるとは思っていないような目を 氷河に向けてきた。 我が子を守ってほしいという願いを込めて あのチェーンを氷河に贈った氷河の母は、それが愛する息子を守るために失われたというのであれば、許す気になってくれるかもしれない。 だが、大切な母の形見を失くされてしまった氷河は、そう単純に割り切ることはできないかもしれない――。 瞬は、そういう事態を恐れているようだった。 「チェーンだけでも 大事なものだったんでしょう? マーマの手の触れたものだもの。なのに、氷河は それを僕にくれた。あの時、氷河は きっと身を切る思いだったろうって思うんだ。どうして、氷河が あの時のことを忘れちゃったのかは わからないけど……」 「それは氷河が鳥頭だからだろ」 どうしても会話の仲間に入りたいらしい星矢が、またしても横から口を挟んでくる。 自分の忘却力の卓抜さに関して 全く無自覚というわけでもなかった氷河は、仲間たちの前で軽く頭を振ることしかできなかった。 瞬に言われて ぼんやりと思い出すことになった その出来事を、自分が忘れていたのは確かな事実なのだ。 「それは……」 なぜ忘れてしまったのかと問われれば、もっと衝撃的な事件によって その記憶が上書きされてしまったから――としか、氷河には答えようがなかった。 瞬とチェーンの交換をした時には、二人はいつまでも一緒にいられるのだと、氷河は思い込んでいた。 瞬には“恐い”ものでも、瞬がずっと身につけていたチェーンは、氷河には価値あるものだった。 マーマのロザリオと瞬のチェーン。 そんな最強のお守りがあっても、だが、非力な人間は自分の幸せを守れない。 子供たちには理不尽としか思えない大人の都合と思惑が、幼い子供の ささやかな幸福を簡単に壊してしまう。 氷河は、瞬との別れが つらくて、己れの非力が腹立たしくて、瞬とチェーンを交換したことなど憶えている余裕がなかったのだ。 「俺が憶えているのは、おまえとの別れを どうすることもできない自分の無力が悔しかったことだけだ。そして、おまえがつらい目に合うんじゃないかと思わずにいられなかったこと。城戸邸でのガキの頃のことで 俺が憶えているのは、それだけだ。他のことは あまり憶えていない」 「氷河……」 「結局、無力な子供にすぎなかった俺は、おまえのために何もしてやれなかった……」 つらく みじめな思い出は、できれば忘れてしまいたい。 だが、そういう思い出に限って 忘れることができない。 『何を笑うかで、その人間のレベルがわかる』と俗に言うが、『何を憶えているかで、その人間の性向がわかる』と言うこともできるのかもしれない。 瞬は、人の優しさを忘れず、自身も優しく温かい。 対照的に、白鳥座の聖闘士は、屈辱を忘れず、自身も負けず嫌いで意地っ張りなのだ。 「そんなことないよ! 氷河は僕に優しくしてくれた! 僕に力をくれた……!」 「……」 そうだったのかもしれない。 “幼かった氷河”は、瞬に優しくしたのかもしれない。 だが、その優しさを忘れずにいて、自らの力にしたのは瞬自身である。 氷河は、そう思った。 そして、それこそが瞬の本当の力、本当の強さなのだと。 だから、自分は、この強く優しい人間に心惹かれてやまないのだ――と。 もし その場に星矢と紫龍がいなかったなら、それ以上黙っていることができずに、氷河は その思いを瞬に告げてしまっていたかもしれなかった。 あいにく その場には星矢と紫龍がいたし、更にはアテナという三人目の第三者の登場によって、氷河はそうすることができなくなってしまったのだが。 「ああ、そういうことだったの」 アテナは、彼女の聖闘士たちの前に姿を現すなり、一人で何事かを合点したように そう言った。 「瞬を一時的にとはいえ支配した時に、瞬の記憶を探って、ハーデスはそのことを知ったのね」 「ハーデス?」 沙織が口にした神の名に、青銅聖闘士たちが敏感に反応し、一斉に顔をしかめる。 そんな気がしてはいたのだ。 だが、もし そうだとすると、それはアテナの封印の力が破られたことになる。 これまでの聖戦が二百数十年ごとに勃発していたことを考慮すれば、そんな事態は考えにくく、それゆえ青銅聖闘士たちは あの小宇宙がハーデスのものである可能性を、半ば意識的に除外していたのだ。 「どういうことです。ここのところ出現する正体不明の小宇宙の主がわかったんですか。これまでのことはハーデスの仕業だったんですか」 「ハーデスも一枚噛んでいたようね」 「ハーデス 「ええ。惑星を動かして 地上支配に乗り出すほどの力は今は失われてしまったけれど、それくらいの いたずらをする力は残っていたようで、ハーデスったら、暇に飽かせて 同類とつるんで悪ふざけをしていたのよ。こんなことなら、封印の壺にゲーム機でも入れておいてやればよかったわ。ゲームでなら、聖域を支配しようが地上を破滅させようが、こちらは痛くも痒くもないんだから」 しかし 壺の中には電源がないだろう――という突っ込みを、星矢は見事に入れ損なった。 星矢と その仲間たちは、それどころではなくなってしまったのである。 ハーデスとつるんでいた彼の“同類”の名を聞かされて。 「あの小宇宙を生んでいたのは、エリス、ルシファー、そしてハーデスの三人よ。蛇の道経由で調査したのだけど、どうやら彼等は賭けをしていたようなの。誰が 瞬のお守りを瞬に放棄させることができるか」 「エリス、ルシファー、ハーデス? どういう組み合わせですか、それは」 「そうねえ。あえて言うなら、死んだ者、滅んだ者を蘇らせる力を持った者たち――という組み合わせかしら」 「死んだ者、滅んだ者を蘇らせる力?」 言われてみれば、その通り。 エリスは おかげで、アテナの聖闘士たちは実に戦いにくい戦いを強いられることになったのだった。 だが――。 失われた命、滅んだ命を蘇らせる彼等の力は、確かに大変な脅威である。 しかし、人は、ただ一度きりのものだからこそ、自身の人生を、命を、懸命に生きるもの。 彼等の人智を超えた力によって 二度目の生を受けた者たちの再挑戦は、いずれも どこか 生ぬるく、必死の思いを欠いたものだった。 実際、二度目の生を受けた者たちは、有する力の強大さにも関わらず、ことごとくアテナの聖闘士たちの前に敗れ去っていったのだ。 「でもね。亡くなった者たちを蘇らせる力を持った者が複数いると、有難味に欠けるし、死者を支配する者の権威も落ちるでしょう。だから、彼等は三人で賭けをして、負けた者はその力を放棄し、勝った者がその力を占有するという協定を結んだらしいの」 「はあ……?」 沙織の説明を聞いたアテナの聖闘士たちが、揃って その眉根を寄せる。 死んだ者、滅びた者を蘇らせる力の稀有は認めないでもないが、その力に 有難みや権威などというものを感じたことのないアテナの聖闘士たちには、彼等の考えは 今ひとつ理解し難いものだった。 「エリスがまず力づくで、瞬のチェーンを奪おうとして失敗。次にルシファーが瞬のチェーンを破壊することで役に立たない物にして 捨てさせようとしたのだけど、瞬はそれを放棄せず拾い集めて直してしまった。それで、ルシファーも失敗」 「ああ、それで茨か……」 ルシファーが地上支配を目論んだ際の、茨の階段を使ったサディスティックなアテナいたぶりの様を思い出し、アテナの聖闘士たちは一様に その顔を歪めることになった。 敵を倒すことより、敵を弱め いたぶることを目的にしているようなルシファーの やり様は、アテナの聖闘士たちには不愉快以外の何物でもなかったのである。 「ハーデスは……」 訊きたくはないが、訊かないわけにもいかない。 そして、その役目は、嫌でも瞬が負わなければならなかった。 アテナが、同情に耐えないと言わんばかりの目で、そんな瞬を見詰める。 「一度は あなたを支配しただけあって、彼がいちばん あなたの性格や価値観を正しく把握していたと言っていいわね。仲間の命を救うためになら、あなたはそれを諦めると、ハーデスは踏んだわけ。チェーンと引き換えにする人質に氷河を選んだのは――もともと あれは氷河のチェーンだったわけでしょ。あのチェーンがハーデスのペンダントの力を弱めていたらしくて、氷河への意趣返しの気持ちもあったんでしょうね」 「そうですか……」 人は、基本的に、一人で生まれ、一人で死んでいくものである。 そういう孤独な存在であるからこそ、人は他者に理解されることを望むものなのだ。 しかし、それも相手による。 ハーデスに自分の性格や価値観を見透かされていたことを、瞬は到底 素直に喜ぶことはできなかった。 「無事に賭けの決着はついたようだから、もう彼等は出てはこないでしょう。一件落着。あの三人を相手にして死傷者ゼロで済んだのだから、まあ、めでたしめでたしの大団円と言っていいのじゃないかしら」 沙織が 彼女の聖闘士たちに笑顔で そう告げたのは、ハーデスに その人となりを見透かされ落ち込んでいる瞬を慰めるためだったかもしれない。 そのアテナの思い遣りで 瞬の心が少しでも浮上できたのかどうかは 大いに疑問だったが、それはさておき。 その場には、この結末を『めでたしめでたしの大団円』と認めることのできない人間が約一名いたのである。 |