謎の小箱の発見現場検証の第一の成果は、謎の小箱の発見者の機嫌を損ね、直したこと。 第二の成果は、星矢が聖闘士になれるというお墨付きをもらえたこと。 第三の成果は、アンドロメダ座の聖闘士に関する噂を一つ 知ることができたこと。 計三つ。 要するに、謎解きのヒントになるような情報は何一つ入手できなかった。 瞬と瞬の仲間たちは結局、青銅聖闘士たちの休憩所として与えられているアテナ神殿の一室で、部屋の中央の卓に置かれた小箱を溜め息混じりに見詰めながら、白紙状態から謎解き作業に取りかからなければならなくなってしまったのである。 「修理のために一度解体して 何の報告もなかったのなら、箱自体には特に細工はなかったということだろうな。オルゴールはゼンマイ式か? 曲は謎解きのヒントになるようなものではないのか?」 紫龍に そう問われた瞬は、言葉で答える代わりに、オルゴールの底にあるネジを巻き、その蓋を開けた。 謎の小箱が、オルゴール独特の透き通った音で、どこか感傷的な曲を歌い始める。 「曲は、『君よ知るや南の国』だよ。欧州の民謡みたいに思われるきらいがある曲だけど、本来は アンブロワーズ・トマのオペラ『ミニョン』で歌われるアリア」 「ミニョン? それ、美味いのか?」 沙織が言っていた通りに からっぽの箱。 その箱の中に唯一 収まっていた楽の音は、残念ながら星矢の関心を引くことはできなかったようだった。 「星矢。その発想をどうにかして。ミニョンっていうのは、オペラの主役の少女の名前だよ。食べ物じゃありません。星矢にかかったら、テリブルプロビデンスもファイヤーウィップもおやつになっちゃうんだから」 瞬が、完全に見当違いの方向を向いている星矢の関心の軌道修正を図る。 瞬に軽く睨まれた星矢は、大袈裟な素振りで両の肩をすくめ、そして首を二度 大きく横に振った。 「ジョークに決まってるだろ。で、そのミニョンちゃんが どうしたわけ」 聞き慣れない単語に出会うと必ず、『それ、美味いのか』もしくは『それ、食えるのか』のいずれかのセリフを発する星矢を知っている瞬は、自分の発言をジョークだと主張する星矢を素直に信じることができなかった。 それでも あえて 瞬が その件を不問に処したのは、星矢の脱線に真面目に付き合って時間を搾取された過去の経験に鑑みたから。 星矢の言うジョークが直すべき習癖だと証明できたとしても、そんなことは いかなる益も もたらさないということがわかっていたからだった。 「原作は、ゲーテの小説のはずだよ。サーカスの一座で虐げられて暮らしていたミニョンという名の少女を、ヴィルヘルムという貴族の息子が引き取る。彼には他に恋する女性がいるんだけど、ミニョンは彼を恋い慕うんだ。でも、ヴィルヘルムは自分は同情からミニョンを引き取ったにすぎないって言って、ミニョンを突き放して――そのあと 色々あって、最後にはヴィルヘルムが自分が本当はミニョンを愛していることに気付いて、二人は結ばれてハッピーエンド」 「メロドラマの典型だな。今時、そんな陳腐なストーリーは、どこの国でも 受けない」 「……」 身も蓋もない氷河の評価に、瞬は僅かに苦い顔になった。 特に『ミニョン』の肩を持つ義理も義務もないのだが、敬愛する師の先々代が好んでいたのかもしれない演目を酷評されるのは、瞬には あまり楽しいことではなかったのだ。 「そうだけど……実際、オペラは現代では滅多に上演されないみたい。でも、劇中歌の『君よ知るや南の国』だけは、とても印象的な曲で、オペラ歌手だけでなく、童謡歌手や民謡歌手も好んで歌ってるよ。僕もいろんな人の歌を聞いたことがあるし」 「俺、聞いたことねーぞ」 オルゴールの曲は終わりかけていた。 実際に聞いて『聞いたことがない』と思うのなら、星矢は本当に これまでに一度も この歌に接したことがなかったのかもしれない。 瞬には、信じ難いことだったが。 「星矢も 絶対どこかで一度くらいは聞いたことがあるはずだと思うんだけど……。レモンの花が咲き、オレンジが実る美しく懐かしい故郷。愛する人と共に帰りたいのに、それは叶わない。ただ遠くで思い懐かしみ憧れるだけ――そんな歌」 「レモンだのオレンジだのって、その南の国ってどこだよ。普通、南の国ったら、バナナやパパイヤだろ」 「イタリアだよ。南欧」 「なんおーっ !? 」 星矢は、“遠くで思い懐かしみ憧れる南の国”をアフリカや南米だと思っていたらしい。 『ミニョン』のスケールの小ささに、星矢はあっけにとられてしまったようだった。 「南欧なんて、すぐそこじゃん。つーか、ここも南欧だよな。ああ、そういや、バレンシアオレンジのバレンシアってスペインにあるんだっけ」 「星矢は食べ物のことなら知ってるんだね」 「おう、任せとけ!」 星矢の特定分野に偏った造詣を、瞬は決して褒めたつもりはなかったのだが、星矢は極めて素直に得意そうに胸を張った。 その あまりの悪びれなさに、瞬としては もはや苦笑するしかなかったのである。 それが苦笑と気付いているのかいないのか、楽しそうな(?)瞬の顔を見て、星矢は満足そうに鼻の頭をこすった。 そして、ふと何事かを思い出したように、軽く首をかしげる。 「オレンジっていえばさ、いつも聖域の中をふらふら歩きまわって、草むしりしたり、石ころ拾ったりしたりしてるおっさんが、こないだオレンジの木が倒れたとか何とか言ってたぞ」 「聖域をふらふらしてるおっさんだなんて……造園技能士さんでしょ。聖域の維持管理をしてくれてる人だよ」 「へえ、そんな大層な呼び名があったんだ。うん、そのおっさんがオレンジの木がどうこうって言ってた」 「聖域にオレンジの木があったの?」 「実がならないから、俺も、あれがオレンジの木だなんて知らなかったんだけどさ。もう100年近く生きてた木だったらしくて――寿命だったんだとか何とか言ってたな」 「オレンジは、実がなる期間はせいぜい50年ほどだ。その時期が過ぎると 花もあまりつけなくなる」 「じゃあ、あの木は、俺が生まれた時には もう実をつけなくなってたのかー。おっさん、最後の1本だったのにって、残念そうにしてたぞ」 氷河にオレンジの木の現役期間を知らされた星矢が、それこそ残念そうな顔になる。 できれば、星矢は、その木と 現役時代を共に過ごしたかったのだろう。 「聖域にオレンジの木が何本もあったの?」 「おっさんは そう言ってた」 星矢が首肯するのを見て、紫龍が軽く眉根を寄せる。 それは紫龍には得心できないことだったらしい。 「聖域にオレンジの木があったなんて、俺も知らなかったぞ。ギリシャでアテナのお膝元といったら、普通はオリーブを植えるだろう。オリーブはアテナの聖木だし、平和の象徴でもある。その上、オリーブはオレンジと違って長寿だ。千年、二千年は平気で生きる」 「確かに聖域にオレンジなんて妙だね。オリーブくらい乾燥に強くないと、成長も収穫も あまり望めないと思うのに」 「100年近く生きていたのなら、頑張った方だな」 オレンジやオリーブの木の寿命、その性質、特徴。 書籍等で得られる そういった知識は、謎解きには(あまり)役立たない。 瞬に謎解きのヒントを与えてくれたのは、そういった知識を有している紫龍や氷河ではなく、実が生らなければオレンジとオリーブの区別もつかない某天馬座の聖闘士だった。 「聖域のオレンジの木って、何本あったの?」 「草むしりのおっさんは、聖域のあちこちに 7、8本あったって言ってた」 「その造園技能士さんはどこ」 星矢の その答えを聞くなり、それまで腰をおろしていた石のベンチから、瞬が勢いよく立ち上がる。 それが 不意打ちのように唐突だったので、星矢は、瞬がなぜ そんなことを問うてくるのかを考える余裕も持てなかった。 瞬の勢いに押された形で、問われたことに答えを返す。 「いつも どっかで、あるかなしかの草むしりしたり、地面を均したりしてるけど、この時間なら多分、コロッセオ脇の詰所にいると――」 「ありがと!」 必要な情報を手に入れたらしい瞬が、早口で短く礼を言い、部屋を飛び出す。 「えっ、おい、瞬、どこ行くんだよ!」 星矢が そう問いかけた時、既に瞬の姿は室内から消えていた。 氷河と紫龍も、瞬を追って部屋を出ていこうとしている。 「おい、紫龍! 氷河! 何がどうなってるのか、俺に説明――」 「瞬が向かったのは、おまえが今 瞬に教えた場所だろう。急いで解く必要のない謎なのに、あんなに気が急いた様子なのは、瞬が 謎の答えの核心に近付きつつあるからだろうな」 情報は持っていても、それを論理的に組み立てることのできない星矢のために、紫龍が ごく簡単な状況説明をしてくれる。 そうしてから彼は、そんな親切心さえ持ち合わせていない氷河のあとを追い、星矢の前から消えていった。 急転直下の展開に、頭も身体もついていけなかった星矢は、掛けていたベンチから立ち上がるタイミングを逸し、結局 一人ぽつねんと その場に取り残されてしまったのである。 「なんで草むしりのおっさんで謎の答えの核心に近付けるんだよ……?」 謎の答えはわからないが、星矢は突然、ワトスン博士やヘイスティングス大尉――名探偵の相棒たち――の心情が理解できてしまったのである。 シャーロック・ホームズとエルキュール・ポワロ――両名探偵の登場する本を、星矢は これまで一冊も読んだことはなかったが。 |