殺生谷で瞬から兄を奪ったことに、もしかしたら氷河は負い目のようなものを感じていたのかもしれない。
星矢は そう思ったのである。
一輝が城戸邸を出ていった翌日、氷河がまた自分から瞬に話しかけていく現場を目撃して。
「本当に大丈夫か」
城戸邸の庭で いちばん背の高い楡の木が作る影の色は、漆黒から 薄い紫に変わりつつある。
瞬は その木の幹に身体をもたせかけ、一人で 暮れかけた晩夏の空を見あげていた。
星矢と紫龍は、空調の利いた室内にいるのが苦手で 夕涼みに適した場所を探すために庭に出ていたのだが、氷河は、庭で一人ぼんやりしている瞬の姿を認め、瞬のために、庭に出てきたものらしい。
瞬の不思議そうな視線に出会うと、氷河は、ぶっきらぼうとしか言いようのない声音で、
「一輝がいなくても」
と、言葉の先を継いだ。

花の季節が終わった沈丁花の低木の陰にいた星矢が、二人の仲間たちの前に出ていかなかったのは、それを 氷河が 瞬との不仲を修復するために起こした行動なのかもしれないと思ったからだった。
聖域に巣食う邪悪を倒すため、これから共に戦うことになる仲間同士、仲は 悪いより 良いに越したことはない。
瞬の兄の生存を知って 瞬の兄の死への負い目が消えた氷河が、二人の関係改善のために瞬への接近を図ったのだとしたら、第三者は その場に居合わせない方がいいだろうと、星矢は思ったのである。
もっとも、沈丁花の木の陰で息をひそめて事の次第を見守ることになった星矢と紫龍の前で、事態は星矢の予想とは まるで違う方向に進展していってくれたのだが。

『一輝がいなくても大丈夫か』と尋ねた氷河に、瞬は無言で頷いた。
そうしてから、逆に氷河に尋ねていく。
「氷河は憶えてる? ここで、氷河が 僕を嘘つきと責めた時のこと」
「……」
それは、氷河には思いがけない問いかけだったに違いない。
彼は、瞬に問われたことに答えなかった。否とも応とも。
だが、否定しないのは肯定――つまり、『憶えている』ということなのだろう。
星矢は、氷河が瞬を嘘つきと責めたのが いつ頃のことなのかを知らなかったし、そもそも氷河と瞬の間で そういうやりとりがあったという話さえ、今 初めて聞くことだったが。

「あの時、氷河は、好きな人は一人だけいればいいって言った。その人と仲良くしていられるなら、他の人はどうでもいいって」
「そうだったか?」
氷河は瞬に反問だけして、頷くことはしなかった。
氷河の代わりに、瞬が頷く。
「僕、あのすぐあとに、氷河のマーマのことを聞いたの。たった一人の好きな人をなくして、あの時、氷河は誰も好きな人がいない時だったんだって」
氷河は、その時のことを、やはり憶えていたらしい。
「……まあ、多少は自暴自棄になっていたな」
そう答えることで やっと、氷河はその事実を認めた。
自分が『瞬を嘘つきと責めたことがある』という事実を。

「おまえは“たった一人の好きな人”を失う前の俺だった。一輝だけが好きで、一輝のためだけに生きている。俺こそが そうしたかったのに。俺は その人を失ってしまったのに。だから――俺は、他の奴等はどうでもよかったが、俺はおまえだけは嫌いだった。あの時、本当は俺は おまえの名前も、ちゃんと知っていたんだ。知らない振りをすることで、おまえを軽侮している自分を装った」
「うん……。わかる気がする」
“たった一人の好きな人”である母親を失って、氷河が 好きな人が一人もいない状況にあった時が、氷河が瞬を嘘つきと責めた時なのであれば、それは城戸邸に集められていた子供たちが それぞれの修行地に送られる以前――ということになる。
初めて知る その事実に、星矢は驚きを禁じ得なかった。
星矢は、二人の不仲の原因は、てっきり“ 裏切者だった頃の一輝”にあるのだとばかり思い込んでいたのだ。

「氷河は今も、たった一人いればいいの? 好きな人は」
夕暮れが作る紫色の影のせいで、二人の表情は確かめられない。
「今も たった一人いればいい。たった一人だけ 欲しい」
星矢にわかったのは、二人が互いの上に固く視線を据えているということだけだった。
表情を確かめることはできず、その声にも、感情を読み取れるほどの色も抑揚もない。
「誰にでも優しくするのは面倒だ。そういうことができる性分でもないしな。残念ながら、俺には八方美人の才能がないようだ。おまえと違って」
「そう……」

(なんだよ、あの棘のある言い方……!)
それは嫌味なのか皮肉なのか。
そして、瞬は氷河の言葉を どう受け取ったのか。
淡々とした二人のやりとりからは全く読み取れない。
だが、星矢には、氷河は瞬との仲違い解消のために この場にやってきたわけではないということだけは わかったのである。
氷河の目的がそれであるなら、彼が瞬を八方美人などと評するはずがない。

「おまえこそ――おまえは今も、みんなが好きで、嫌いな奴はいないと言い張るのか」
では、氷河の目的はいったい何なのか。
まさか、自分が瞬と合わない・・・・ことを再確認するためではあるまい。
そんなことは 二度も三度も確認する必要のないことである。
氷河の意図が理解できず、沈丁花の木の陰で、星矢は顔を歪めてしまったのである。
氷河に対する瞬の声は、そんな暴言を吐かれたというのに、相変わらず抑揚がなく静かだった。

「嫌いな人……一人だけいる」
(へっ……瞬に……?)
「俺か」
(えっ)
「うん」
(ええっ)
「そうか」
(えええええええーっ !? )

二人の表情を確かめることはできない。
氷河と瞬のやりとりは淡々と進んでいく。
だが、だからこそ――星矢の驚きは一層大きなものになった。
できることなら、星矢は その場に大声を響かせて、己れの驚愕を外に出してしまいたかったのである。
今 自分のしていることが 盗み見、盗み聞きという、あまり褒められた行為ではないことが わかっているから、星矢は何とか その衝動に耐えることができていた。

他人との対立や争いを嫌い、誰にでも人当たりがよく、泣き虫の瞬。
聖衣を得るほどの力を養い強くなっても、それだけは変わらなかった瞬。
たとえ相手が、到底 瞬に好意を持っているとは言い難い 無愛想極まりない男でも、瞬が 誰かを嫌うことなどないに違いないと、星矢は思い込んでいた。
自分が誰かに嫌われていても、瞬はその相手を嫌い返す・・・・ことはせず、ただ自分が その相手に嫌われている事実を悲しむだけなのだろうと、星矢は思っていたのだ。
氷河に対する瞬の その言葉は、星矢には まさに青天の霹靂といっていい一言だった。

面と向かって人に『嫌い』と言うのは、おそらく これが瞬には初めての経験だったに違いない。
淡々と氷河に『嫌い』と言ってのけてから、さすがに瞬は気まずくなった――いたたまれなくなったのだろう。
「僕、中に戻るね」
わざわざ氷河に そう断って、瞬は氷河に背を向け、その場から駆け出した。

そして、楡の木の根方には氷河だけが残されたのである。
彼は 駆け去った瞬の後ろ姿を いつまでも見詰めていて――その姿が玄関の奥に消えてしまってからも、見えない瞬の姿を追い続けるかのように、いつまでも氷河は その場から動かなかった。
「氷河でも、瞬に『嫌い』なんて言われるのは きついかぁ……。まあ、そりゃそうだよな」
『嫌い』と言われた当人でない星矢でさえ、瞬の唇が『嫌い』という音を発したことに驚き、しばし呆然とするほどだったのだ。
氷河は確かに、瞬に『嫌い』と言われて当然のことをした。
瞬に『嫌い』と言われてショックを受けるというのは、一般的に見れば矛盾した態度といえるだろう。
だが、星矢には氷河の気持ちがわかった。
氷河を馬鹿だとは思うが、その気持ちを理解することはできた。

氷河は、おそらく、瞬が人を嫌うことがあるなどとは思ってもいなかったのだ。
たとえ それが瞬にどれほどひどい罵詈雑言を浴びせかけた男でも、瞬が その男を嫌うことはない。
氷河はそう信じていたに違いなかった。
なにしろ、相手は瞬なのだ。
自分を殺そうとしている敵に対しても 本気で害意や敵意を抱くことのできない瞬。
仲間を傷付けられて やっと本気になる瞬。
その瞬に、面と向かって『嫌い』と言われてしまったのである。
自業自得だと思いはするが、それで氷河が衝撃を受けることを、星矢は不自然なことだとは思わなかった。

「氷河の奴、立ち直れるかな……」
本当に馬鹿な男だとは思うが、それでも仲間は仲間である。
慰めの言葉の一つでもかけてやろうと考えた星矢は、瞬の後ろ姿を目で追ったまま微動だにせずにいる仲間のいる方に向かって、沈丁花の木の陰から一歩だけ前に出た。
そんな星矢を、紫龍が なぜか引きとめようとする。
紫龍が自分を引きとめようとしたことには星矢も気付いたのだが、その時には既に 星矢は氷河に気配を気取られてしまっていた。
庭から消えていった瞬の姿を視線で追い続けていた氷河が、星矢の作り出した空気の動きに気付き、長い夢から覚めたばかりの人間のような目をして、盗み聞きに いそしんでいた仲間の方を振り返る。

「――瞬も言うようになったっつーか、おまえの嫌味も嫌らしかったけど、瞬の報復の棘の方がすげーじゃん。いや、瞬のあれは 棘というより五寸釘か」
場の空気を深刻なものにしないために、わざと明るい声、軽い表情で、星矢は氷河に そう言った。
もちろん、慰撫のつもりで。
星矢を止め損なった紫龍が、星矢のあとから気まずそうに その場に出てくる。
「聞くつもりはなかったんだが……」
夕暮れが作り出す影のせいで、それまではっきりと確かめることができずにいた氷河の表情。
真正面から向き合うと、氷河は、さほど動転しているようでも取り乱しているようでもなかった。
もちろん それは氷河が感情を顔に出していないというだけで、星矢は氷河の内心までを推し量ることはできなかったのだが。
もしかしたら氷河は瞬に『嫌い』と言われた衝撃が大きすぎて、その現実を認め受け入れ理解することが まだできていないのではないかと、星矢は疑うことになったのである。

「瞬に嫌われるなんて、よっぽどのことだぞ。瞬って、敵にでも低姿勢、どんな外道相手でも まず友好的説得から入る奴じゃん。説得できなくても、罪を憎んで人を憎まず。瞬に嫌われるってのは、言ってみれば人間失格の烙印を押されたようなもんで、俺ならショックで寝込んじまうぞ」
瞬の『嫌い』に氷河が衝撃を受けたことは確実――疑いようのない事実である。
氷河はおそらく その衝撃によって生じた動揺を 怒りに変換すればいいのか 嘆きに変換すればいいのかが わかっていないのだろう。
「……そういうものか?」
そこに星矢と紫龍がいることを認識できているのかどうかさえ怪しいほど ぼんやりした様子で、氷河は短く そう呟いた。






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