いったい何が 瞬を本当に憤らせ、瞬の心を大きく揺らし乱すのか。
その何かを探り出すことを、だが、星矢は そろそろ諦めかけていた。
どうせ瞬は なまじなことでは その優しい心を放棄しない。
場を変え、時を変え、シチュエーションを変えて 何度 瞬を測っても、意地を張ってでもいるかのように10を超える数値を示さない人間測定器を、いい加減で沙織に返してしまおうかと 星矢が考え始めていた その日。
星矢は、何気なく瞬に向けた測定器が60という数値を表示していることに気付いたのである。
(えっ !? )
今 この瞬間、瞬の心身に何が起こっているのか。
驚いた星矢が、慌てて、その視線を瞬の上に巡らす。
瞬は、ラウンジのフランス窓から城戸邸の庭を眺めている氷河の後ろ姿を見詰めていた。

「あれが今年最後の薔薇になるか。秋薔薇も もう終わりだな」
氷河は、城戸邸の庭に咲いている薔薇を眺めているらしい。
なぜ こんな穏やかな光景の中にいる瞬の犯罪係数が60という高い値を示しているのか。
星矢は、その状況が理解できず ぽかんと呆けてしまったのである。
そんな星矢の視界を横切って、瞬が窓際に立つ氷河の側に歩み寄っていく。

「マーマのこと、思い出してる?」
「いや、おまえのことを考えている」
「嘘をつかなくていいよ」
瞬の声と表情は、いつも通りに穏やか――むしろ、いつもより穏やかで優しい。
瞬が氷河の亡き母に嫉妬しているはずもなく、だが確かに、幾度測り直しても、瞬の犯罪係数は60から63の間の数値を表示し続けた。
「今年の薔薇が終わっても、氷河の中のマーマが消えてしまうわけじゃないんだから、そんな寂しそうな顔しないで」
「おまえの方が、よほど悲しそうな目をしている。まるで、自分のせいで 俺のマ……母が死んだと考えてでもいるかのようだ」
「そんなことないよ」

決して明るく楽しいものではないが、二人のやりとりは優しく静かで、互いへの思い遣りに満ちたものである。
にもかかわらず、瞬の脳は――瞬の感情は、ひどく昂ぶっていた。怒っていると言っていいほどに。
(なんでだ !? )
星矢は、瞬の怒りの理由がわからなかったのである。
本当に、わからなかった。
たとえば、人の生死に関わることでなら瞬も反応を示すのではないかと考えて、星矢は昨夜 瞬に、日頃の暴飲暴食がたたって急性心不全で亡くなった駅前の不動産屋の店主の話をしたばかりだった。
『普段から気をつけていれば、今も お元気でいられたかもしれないね』
瞬は 力のない声で そう言って 悲しげに瞼を伏せたが、その時にも測定器の値は10を切っていた。
だというのに、今、瞬は、氷河の母の死に憤っている――。

「もしかしたら、瞬は、人の力ではどうにもできないことに反応するのかもしれないな」
見た限りでは、静かに寂しそうに微笑んでいるだけの瞬。
しかし、その脳は――心の中は――異様なほど激しく波立ち憤っている。
表の瞬と裏の瞬を結びつける理屈を思いつけずに顔をしかめていた星矢の上に ふいに降ってきた紫龍の低い声。
その声に弾かれたように、星矢は顔をあげた。
「人の力ではどうにもできないこと?」
「そうだ。優れた科学力、身体能力、知識、意思の力――それらのどれをもってしても どうにもならないこと。強く深い愛情によってでも解決できないこと――。瞬は、運命に怒るんだ。運命の理不尽に怒り、悲しむ。……多分」
「……」

そうなのかもしれないと、星矢は思ったのである。
氷河の母は、おそらく、彼女自身にも変えることのできない氷河への深い愛情によって、氷河を生かすために自らの命を投げ出した。
幼い氷河は、どれほど深く愛していても、彼女を救うことはできなかった。
その図式は、人の力では変えることができないのだ――。
「わかるような気がする……。人の力でどうにかできることは、人の力でどうにかできるもんな。怒ったり、悲しんだりしなくても」
そして、瞬は おそらく、アテナの聖闘士の戦いも、地上の平和と安寧も、“人の力でどうにかできること”だと信じているのだ。
だから 瞬は、今 自分がいる世界、今 自分の目の前にある世界に憤ったり、悲しんだりすることはない。
瞬のその思いは、アテナの聖闘士である瞬の優れた身体能力を はるかに凌駕するほど強い。
結果として、瞬の測定値は 尋常では考えられないほど低くなる。
そういうことだったのだ。

「つまり、俺たちは、瞬ほどには人間を信じることができずにいるってことか」
それが悔しいわけではない。
むしろ、人間離れしているのは瞬の方だと思う。
ただ星矢は、無性に腹が立ってきてしまったのである。
そんな瞬だから――瞬はハーデスに利用されることになったのだという、運命の理不尽に。






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