そこは、僕の秘密の隠れ場所だった。
――懐かしい庭。
切ないほどの懐かしさと後悔の花が咲く、幼い頃の城戸邸の庭。
なぜ僕はこんなところにいるんだろう。

あの頃は――僕がアンドロメダ島に送られる前、みんなと城戸邸で暮らしていた頃は、城戸邸の庭には幾本ものエニシダの木があった。
悲しいこと、つらいことに出会うと、僕は、黄色い小さな花をたくさんつけた その低木の陰に逃げ込み隠れ泣いていた。
僕がアンドロメダ島に行っている間に、そこにあったエニシダの木は すべて切られてしまっていて、日本に帰ってきた僕は、僕の隠れ家が今は薔薇の畑になっていることを知ったんだけど。
エニシダの木があるということは、今は昔?
時計が逆に回り出して、僕はまた 何の力も持っていなかった あの頃の僕に戻ってしまったの?
まさか。そんなことがあるはずがない。
そう思って自分の手を見たら、そこにあったのは小さな子供の手だった。
毎日泣いてばかりいた幼い頃の僕の非力な手。

あの頃、僕は泣いてばかりいた――。
なぜ過去形なの。
僕が泣いているのは今だ。
今 僕は泣いている。
でも、なぜ?

あの頃 僕が泣いていたのは、弱い自分が許せないからだった。
兄さんの陰で、兄さんの力で生きている僕。
自分の力で生きていない自分が、僕は悲しかった。
兄さんに悪いと思い、こんな弟を持ってしまった兄さんをかわいそうだと思い、なのに、僕は兄さんから離れてやることができない。
いつか見捨てられる自分が悲しくて、僕を見捨てられない兄さんが悲しくて――僕が泣き出す きっかけは 大抵 兄さんとは関わりのないことだけだったけど、エニシダの木の陰で泣いていると、僕の考えはいつもそこに行き着くんだ。
“僕も 兄さんもかわいそう”――って。
――兄さんはどこにいるんだろう?

兄さんの姿が見えないことに気付き、不安になって兄さんを探しにいこうとしようとした僕の目線は ひどく低いところにあった。
庭の下草の上に座り込んでいるにしても低すぎるところにあって――僕は、自分が子供に戻っていることに気付いた――僕の意識が子供の身体の中にあることに気付いた。
でも、どうして?
僕はまた、あの頃の非力で みじめな子供の時間を生き直さなきゃならないの?
兄さんはどこ?

子供の身体の中にいるうちに、僕の記憶は、直近のものから徐々に 何かの力に削り取られていった。
15歳の記憶、14歳の記憶――どんどんと僕の記憶は減っていって、今の僕は、7歳? 8歳?
僕は 自分がアテナの聖闘士になったと思っていたけど、それは もしかしたら 非力な子供の空想の中の出来事にすぎなかったんじゃないだろうかという気になって――僕が その疑念を確信に変えたのは、エニシダの木の陰から ふいに氷河が飛び出てきた時だった。
僕と同じように、子供に戻った氷河。
氷河が子供なんだから、僕だって子供のはずだ――。

「おまえ、また泣いているのか」
子供の氷河が、子供の声で、子供の僕に 呆れたような顔で尋ねてくる。
「だ……だって、兄さんがいないんだもの」
僕は、自分にも言い訳がましく聞こえる声で、そう氷河に答えた。
氷河が、なぜ そんなことで泣けるのかというような顔で、両の肩をすくめる。
「おまえ、泣いていれば一輝が来てくれると思っているのか」
「僕、そんなことは……」
「ほら、立てよ。一輝なら、今日も 星矢と一緒に辰巳の機嫌を損ねて、ジムの床磨きをさせられている」
そう言って、氷河は僕に手を差しのべてくれた。
「兄さん……いるの?」
「おまえ、ほんとに さっきから何を言ってるんだ。いるに決まっているだろう。一輝がおまえを置いて どこかに行ってしまうはずがない」
「うん……うん、そうだよね」

そうだ。
兄さんが僕を置いて、どこかに行ってしまうはずがない。
氷河の言葉に安堵して、僕は僕の前に差し出されていた氷河の手を取った。
兄さんが床掃除をさせられているのなら、手伝わなくちゃならないもの。
優しさも思い遣りのかけらもない大人たちに強いられる訳のわからない特訓だろうが、罰掃除だろうが、兄さんと一緒にいられるなら、僕は少しも つらくない。
ほんとは ちょっとはつらいけど、兄さんがいないことに比べたら、どうということはない。
兄さんが一緒にいてくれるなら、僕はいつも笑顔でいられた。

「おまえは、俺がいることはどうでもいいんだな」
「え?」
氷河が ふいに くぐもった声で そう言ったのは、僕が氷河の手を借りて その場に立ちあがった時。
氷河の声は、子供のそれではなくなっていた。
「おまえは、一輝さえいれば 他の人間はどうでもいいんだ」
「氷河……?」
「おまえの弱さのせいで、おまえの兄は死ぬ。知っているんだろう?」
「あ……」
「忘れたとは言わせないぞ。おまえは兄の命を犠牲にして、力とアンドロメダの聖衣を手に入れた」
「氷河……っ!」

僕が その名を叫んだ相手は、いつのまにか大人になっていた。
氷河だけじゃなく、僕自身も。
「そんなふうに、誰かを犠牲にしないと生きていられないような奴は死んだ方がいい」
大人になった氷河が、冷たい目をして僕を見下ろしている。
僕は何も言えなくて――それが事実だったから、何も言えなくて――ただ そこに呆然と立ち尽くした。
そんな僕の上に、氷河の凍気が降ってくる。
それは きらきらと輝きながら僕にまとわりつき、僕を覆い、やがて僕を 素晴らしく透き通った氷の棺の住人にした。
僕のすぐ側にいたせいで巻き添えをくってしまった 黄色い花をつけたエニシダの枝と一緒に。

氷河の行為を、僕は理不尽だとは思わなかった。
これで、僕と僕の力の犠牲になる多くの人の命が救われるなら、それは僕を救うことでもある。
それに、氷河が僕のために作ってくれた氷の棺は とても綺麗だったから。
このまま、この氷の棺の中に閉じ込められているのも悪くないかもしれない。
このまま、永遠にこの棺の中にいるのもいいかもしれない。
僕はそう思った。
これは、氷河の 僕への優しさなのだと。
僕の手が血で汚れることから、氷河は 僕を守ろうとしてくれているんだと。
僕は そう思ったんだ。

でも、そうじゃなかった。
氷河は、僕に 氷の棺の中の永遠という安らぎを与えようとしているのではなく、僕を本当に殺そうとしていた。
「おまえは死んだ方がいいんだ。おまえが 守ろうとしている世界のために」
氷の棺に閉じ込められている僕に向かって、冷やかな声で氷河が告げる。
その言葉の意味を考え始める前に――無数のエニシダの花と一緒に、僕は 氷河の拳で粉々に打ち砕かれた。






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