晩秋の午後――いや、初冬の午後か――陽は射しているが、気温は おそらく10度以下。 にもかかわらず、彼女はコートを着ていなかった。 僅かに薄桃色がかかったグレイのシャツブラウスに、濃灰色のジャケットとパンツ。 アクセサリーの類は一つもつけていない。 モデル顔負けに姿勢がいい。 そして、無駄な動きがない。 動作はきびきびしているのに、やわらかい。 ただ歩いているだけなのに、彼女は本当に目立った。 すれ違う者たちは、例外なく全員が彼女に ちらちらと視線を投げかけた。 とはいえ、良識ある(?)通行人たちが、興味を持った形を遠慮なく凝視するデザイナーの不躾さを備えているはずがない――彼等が彼女の顔をじっくり見ているわけがない。 つまり、彼等は、遊歩道を行く彼女の姿勢、空気――そんなものに惹かれて、彼女を見ずにいられない状況に追い込まれているんだ。 彼女の魂が作り出すオーラ、雰囲気が、人の意識を惹きつけているといっていい。 特に速足なわけでもないのに、彼女は風に乗っているようだった。 彼女の目的地は、公園に隣接している区立の図書館だったらしい。 「あ」 図書館の門を過ぎると、短い声をあげて 彼女は突然 駆け出した。 彼女を見失うわけにはいかない。 彼女を追って、俺は駆け足になった。 そして、その途端に、道に敷かれていた砂利に足をとられ(たのか?)、盛大にこけた。 俺の目と意識は彼女の姿だけを追い、自分の足元に全く注意を払っていなかったんだから、まあ、それも当然の仕儀だったろう。 「うわあっ」 建物の内外を問わず、歩いていて転ぶなんて何年振りのことだ? それは、俺には想定外のハプニングだった。 転ぶことを想定して道を行く人間なんていないだろうが、そんなことが起こり得るなんて考えてもいなかった俺は、それが想定内の出来事だったなら発することはなかっただろう大声を 辺りに響かせた。 子供でもあげないような俺の声にびっくりしたんだろう。 美少女が俺の声に弾かれたように後ろを振り返り、俺の方に駆け寄ってくる。 これは怪我の功名というやつだろうか。 「大丈夫ですか」 きまりの悪い思いに囚われながら その場に立ちあがった俺の顔を、世にも稀なる美少女が心配そうに見上げてくる。 見知らぬ他人の身体に触れる不作法と、支えなくて大丈夫なのかという懸念の間で迷い、宙を泳ぐ白い手。 声も やわらかく印象的だったが、それ以上に、彼女は その手が、指が、髪が、肌が――なにより、瞳がすごかった。 俺は奇跡と対面している心地がした。 彼女は美と魂の塊りだった。 プラトン風に言うなら、美のイデアそのもの。 確実に30秒以上、俺は息をすることを忘れていた。 息をすることさえ忘れていたんだから、当然 声も出せない。 『大丈夫だ』も『ご心配なく』も言わない俺の前で、彼女の瞳は 更に心配の色を濃くした。 しかし、なんて瞳だ。 まるで清らかに澄んだ底なしの泉だ。 底なし沼なら 足から沈み込んでいくところだが、澄みきった泉には 魂から はまっていくものらしい。 魂ごと、意識ごと、身体までも――俺は彼女の瞳の中に吸い込まれてしまっていたかもしれない。 澄んだ瞳を持つ美少女と俺の間に、 「瞬、どうしたんだ」 という、不粋な――不粋だろう――男の声が割り込んでこなかったら。 その男は、図書館の建物の中から出てきたようだった。 金髪碧眼。 体格がよく、成人しかけた男のそれとしては理想的なプロポーション――いや、少し脚が長すぎるか。 彼女が突然駆け出したのは、この男――知り合いか?――の姿を 図書館の入り口に認めたせいだったんだろう。 ともあれ、その金髪の男は貴重な情報を俺に与えてくれた。 美少女の名前は瞬――という、得難い情報を。 「あ、この方が何かに躓いて転んで」 瞬が、気遣わしげな声で 金髪男に答える。 「転んだ?」 男は俺を見て眉根を寄せ、俺の周囲を見回して不愉快そうに口許を引きつらせた。 「躓けるような物なんか、何もないじゃないか。何もないところで転べるとは、幼稚園児並みの三半規管を持った男だな」 声質は甘いのに、言葉は棘だらけ。 その響きは傲慢、敵愾心に満ち満ちている。 「氷河……!」 金髪男の棘は瞬を困らせたらしく、瞬の やわらかい声は、少し非難めいたものに変わった。 『氷河』というのが、この金髪男の名前らしい。 変な名前だ。 この変な名の男も、造形は瞬並みに――もしかしたら瞬以上に――見事だが、まるで心惹かれるものがない。 言葉使いの無礼や ぶっきらぼうさは 対峙する者を快くさせるものではなかったし、傲慢そうな視線や表情は、完全に他人を拒絶している者のそれだった。 瞬が、極上の魂を有する温かく魅惑的な人間なら、氷河とやらは、まさに出来すぎの人形。 カイ――雪の女王に 心を凍りつかされてしまった男の子の名前を、俺は思い出した。 どれほど美しくても、魂のない“もの”になど価値はない。 そう信じる俺が、だが、その形だけでも感嘆するほどの美形ではあった。氷河という男は。 瞳が青い氷のようだ。 「お怪我はありません? 歩けますか?」 そんな氷河とは対照的に、瞬は春の微風、春の陽光、春に咲く花。 俺は、冬と春が並んでいる光景を眺めている気分になった。 ともあれ、優しく尋ねてくれた瞬に答えを返すために、俺は その段になって初めて、自分の被害状況の検証に取りかかった。 歩くことに問題はない。 いちばん ひどい損傷を負っているのは手だった。 倒れた時、顔を砂利にぶつけないために、俺は咄嗟に手を砂利道について 身体を支えたんだ。 手の平に小さな傷が幾つもあって、そこここに血がにじんでいる。 ペンを持つのにも、マウスを動かすのにも、少々不都合が生じそうだ。 自分の仕事を持つ社会人らしく、俺は一応、仕事の方に支障が出るのではないかと、それを心配した。 渋い顔で自分の手を睨んでいる俺を案じたのか、瞬が切り傷と突き傷だらけの俺の手を覗き込んでくる。 僅かに顔を歪め、 「どこかで手を洗って、用心のために消毒した方がいいですね」 と言いながら、瞬は肩から掛けていた小さなポシェットから、ウェットティッシュと、なぜか消毒液の小さなボトルを取り出して、比較的 傷の少ない俺の左の手の平に そっと載せた。 「絆創膏もあるんですけど、これくらいの傷だと、絆創膏は かえって治りを遅くしそう。消毒が先ですね」 瞬のポシェットからは なぜ こうも都合よく必要な物が出てくるのかと驚いたのは、俺だけではなかった。 傲慢な目をした金髪男が、呆れたように瞬に尋ねる。 「絆創膏に消毒液。おまえのそれは救急箱か」 「生傷の絶えない友だちが多いから、この手のものは必携なんだよ」 氷河にそう答え、瞬は俺に微笑を向けてきた。 「思わぬところで役に立ってよかったです。図書館の中に 手を洗える場所があると思いますよ」 「あ……ああ」 おそらく瞬は その助言を聞いた俺が図書館の中に入っていくことを期待していたんだろう。 だが、俺は瞬の親切に『ありがとう』と礼を言って、そそくさと図書館の中に入っていくわけにはいかなかった。 そんな間抜けなことができるわけがない。 この奇跡のような邂逅を、『ありがとう、さようなら』で終わらせるなんて。 もちろん、俺は 俺がすべきことをした。 「ありがとう。礼をしたいんだが、君の名前と連絡先を――」 「お気遣いは無用です。大したこともしてませんし、生傷の絶えない友人のせいで その消毒液も もう残り少ないんです。後始末を押しつけるみたいで、かえって申し訳ないくらい」 瞬は、人に遠慮や負い目を抱かせないための気遣いもできる子らしい。 俺はますます ここで『さようなら』は言えなくなった。 「大したことをしてもらった。俺は、君のおかげで、いい歳をした大人が 一人で転んで、一人で立ち上がり、一人で歩き出す気まずさを味わわずに済んだんだ。ぜひ礼を――」 「僕、本当に――」 「これくらい大きい図書館なら喫茶室くらいあるだろう。名や住所を 見知らぬ人間に教えることはできないというのなら、せめて お茶くらい ご馳走させてくれ」 「ほんとに、そんなお気遣いは――」 「ぜひ そうさせてくれ……!」 俺の食い下がり方は普通じゃなかっただろう。 実際、俺は必死だった。 ここで あっさり別れて 二度と瞬に会えなかったなら、これからの俺の人生は永遠に色褪せたものになってしまうだろうと、天から何者かの声が俺に警告してきたんだ。 それは、逆らうことなど思いもよらないほど激しく切実な警告だった。 俺は その時、怪我をした手で 今にも瞬に掴みかかりそうな形相をしていたに違いない。 「貴様、わざと転んだんじゃないだろうな」 氷河が そう疑うのも当然なくらいに。 俺は わざと転んだわけではなかったんだが、それは下種の勘繰りだと、俺はすぐに氷河に反駁することができなかった。 俺の中に、この みっともない転倒劇を 心のどこかで幸運なハプニングだと感じている俺自身がいたから。 氷河は、俺のそんな気持ちを感じ取っているに違いない。 言葉に詰まった俺を庇ってくれたのは、氷河より良識的で、氷河ほど勘が鋭くないらしい瞬だった。 「氷河。わざと転ぶなんて、そんなことして何になるの」 「俺は、おまえの気を引くためなら、図書館の前でコサックダンスを踊るくらいのことは、平気でするが」 「恥ずかしい思いをするのは僕なんだから、そんなことするのはやめて」 コサックダンスなんて単語が出てくるところを見ると、氷河はロシア――スラヴの血が入っているんだろうか。 言われてみれば、いかにも北方の人間のそれらしい金髪だ。 いや、そんなことはどうでもいい。 とにかく俺は何が何でも、これからも瞬と会えるように渡りをつけておかなければならないんだ。 切実に、俺はそう思っていた――んだが。 そんな俺の気も知らず――瞬は、これ以上氷河に無礼な真似をさせないためには 自分たちが少しでも早く俺の前から立ち去るしかないと考えたらしい。 「すません。失礼なこと言って。僕たちは用があるので、これで。早く手を洗ってくださいね」 そう言って、瞬は、俺を睨みつけている氷河の手を取り、金髪男を引っ張るようにして図書館の中に入っていってしまった。 このまま『さようなら』はできない俺は、もちろんすぐに二人のあとを追ったんだ。 急く気持ちを懸命に抑え、二人のあとを追ったのだと二人に気付かれぬ程度の速度を保ちながら。 |