その夜、氷河と瞬は、沙織のお供で都内某歌劇場に某々歌劇を観にいった。 演目は白鳥の騎士が出てくるワーグナーの傑作だったのだが、幕間の休憩を挟んで4時間以上に及ぶ公演に うんざりしたのか、帰りのリムジンのシートで、氷河はずっと眠っているように目を閉じたままだった。 そのリムジンが 敵に襲われたのである。 聖域にはアテナの強力な結界が張ってあるので、聖域の外でアテナを襲撃しようとする敵は多く、アテナの聖闘士たちが そんな敵の襲撃を受けることは、これまでに幾度もあった。 が、“敵”による聖域外でのアテナ襲撃の場所は、これまでは常に城戸邸に限られていたのである。 それが、一般人を巻き込みたくないという敵の気配りなのか、一般人に邪魔されずに仕事を終えたいという合理的な理由によるものなのかは 瞬も知らなかったが、ともかく それが“敵”によるアテナ襲撃の“お約束”だったのだ。 観劇を済ませて帰途に就いた走行中の車を“敵”が襲撃してくることなど、瞬は考えたこともなかった。 襲撃者は4人。 彼等は高速道路を100キロ以上のスピードで走っているリムジンの広い――というより、長い――ルーフに取りついてきた。 聖闘士ではないだろうが、その力は決して雑兵レベルではなかった。 車がリムジンだったのは幸運だったかもしれない。 敵は アテナが長い車の前方にいるとは考えず、主に車の後方のルーフと窓に拳を打ち込んできた。 車の後方でトラブルが起きていることに気付かないわけにはいかなかったろうが、運転席と後方のキャビンはパーティションで区切られていたので、運転手は その様を直接見ることができず、そのため 彼は比較的 取り乱すことなく車を操り続けることができたのだ。 なぜチェーンを持ってこなかったのかと、拳圧でへこんだリムジンの天井を見ながら、瞬は悔やんだのである。 ネビュラチェーンさえあれば、走行中の車に取りついている襲撃者たちを捕縛することは容易だったのに――と。 しかし、頼みの綱のネビュラチェーンは ここにはない。 かといって、まさか車の中から 車の外にいる敵に向かって生身の拳を放つわけにはいかなかった。 アンドロメダ座の聖闘士の拳が生む気流や嵐は、車外の敵だけでなく車中の沙織の身までを傷付けかねない。 それは氷河も同様で、彼もまた 車の中で凍気を生むわけにはいかなかった。 高速を走っている他の車のことを思えば、車を止めて、路上でバトルを始めるわけにもいかない。 車を止めれば、敵の手が沙織に及びやすくもなる。 車を走らせたまま、沙織のボディガードたちが車外に出て、敵を車から引きはがすのが最善の撃退法に思われた。 敵が、窓に拳を打ち込んでくる。 「沙織さんっ」 ガラスセラミックの窓は、砕けても その破片は鋭くない。 が、加速のついたガラスの破片が当たれば、それは沙織の身体を傷付けるだろう。 瞬は、沙織を庇って 彼女の身体をシートに伏せさせ、その上に覆いかぶさったのである。 車の後方で起きている異変に、さすがに慌てたらしく、運転手は車のスピードを落とし始めた。 「車を止めるな、そのまま行け!」 氷河が運転席に通じるマイクに向かって怒声を張り上げ、運転手に命じる。 停車しようとして路側帯に寄りかけていた車は、再びスピードを上げた。 それを確かめて、 「窓を開ける手間が省けた」 氷河が、車外に出るために窓から手を伸ばし、ルーフに手をかける。 「瞬。沙織さんを頼む」 そう言って、氷河は、窓から車外に出るために上半身を乗り出した。 「僕も行く!」 「おまえは このまま、沙織さんと城戸邸に向かえ。奴等は俺が何とかする」 「彼等は油断できない相手だよ。二人でかかった方がいい」 襲撃者たちは、 それが四人。 氷河の力を信じていないわけではなかったが、ここは どう考えても、二人で当たった方が安全かつ確実だった。 「私は大丈夫。自分の身くらい、自分で守れます。瞬、氷河と一緒に行って。あの者たち、弱くはなくてよ」 「はい」 まもなく、高速から一般道に下りるインターチェンジ。 立体交差の道路の下は広い空地になっていて、そこでなら、バトルを始めても他の車を巻き込む事態を避けることができる。 一般道に下りれば、城戸邸までの距離は数キロ。 数分で沙織を乗せた車は城戸邸に着く。 城戸邸には星矢と紫龍がおり、沙織を守ってくれるだろう。 沙織の言葉に従い、瞬は、氷河を車外に送り出した窓から外に出ようとしたのである。 が、瞬が そうするより一瞬早く、その窓はふさがれてしまった。 敵の手によってではなく、氷河が作った氷によって。 氷河は、ご丁寧にリムジンの後ろ半分を氷の壁で包んでしまったようだった。 「氷河っ」 氷河が作った氷の窓を破壊するには、車を大破させるほど強力な気流を発生させるしかない。 沙織がいる車内で、それは到底できることではなかった。 黒塗りのリムジンがインターチェンジに入る。 そのタイミングを見計らっていたように、氷河は、その凍気による攻撃で、あるいは車に取りついていた敵をなぎ倒し、襲撃者たちをリムジンから振り落とした。 そして、彼等を追って、氷河自身も車のルーフから飛び降りる。 その影が氷河の作った氷の窓を横切るのを、瞬は 安全な氷の牢と化したリムジンの車内から認めることになったのである。 「氷河!」 仲間を呼ぶ瞬の声は、冷たい氷の壁に撥ね返されてしまった。 |