「は…… !? 」 アテナの命令を聞いた瞬は、手にしていたナイフをテーブルの上に取り落とした。 「星矢のホワイトアスパラガスも食べてあげる優しいあなたなら、さぞかし この地上を平和に治めることができるでしょう」 瞬の粗相に気付いた給仕が 素早く替えのナイフを持ってきてくれたのだが、瞬は食事の続行どころではなくなっていた。 「沙織さん、無茶を言わないでください! だいいち、僕がアテナになるなんて、そんなこと まず論理的に破綻してますよ。アテナというのは役職名じゃないんです。教皇になるとか 司祭や助祭になるとかいうのとは、訳が違う。アテナというのは沙織さんのことなんです」 瞬の反論は 至極 論理的なものだったのだが、どれほど優れた意見も相手が耳を傾けないのでは無意味である。 瞬の反駁を、沙織は聞こうともしなかった。 「冥界を治めたこともあるんだし、あなたなら余裕でしょう」 「あれはハーデスが……」 思い出したくないことを思い出させられてしまった瞬が、思い切り沈鬱な気分になる。 瞬は、しかし、ここで黙り込む訳にはいかなかった。 「明日は聖域で冬の参賀の儀を執り行う日でしょう。アテナのお出ましがないと、みんな不安がりますよ。士気だって上がらない。アテナの加護があると思えばこそ、聖域の者たちは地上の平和の維持のために、日々努めているんです。アテナあってこその聖域なんですから」 「だから、あなたがアテナの錫杖を持って、私の振りをして、皆の前で小宇宙を燃やしてみせればいいわ。どうせ参賀に参加する者たちは、アテナ神殿のバルコニーに立つ私を遠目に見るだけなんだから。電光掲示板があるわけでもないし、ばれやしないわ」 「ばれるに決まってます! 無理 言わないでください」 「いい機会だわ。少しは私の苦労を知りなさい。炎天下でも寒風吹きすさぶ中でも、薄いドレス一枚で衆目の中に立ち、どんな阿呆がいても、それが弱者なら 微笑みを向け、断罪しなければならない者には どんなに同情していても、聖域の規律維持のため 心を鬼にして処断する。王者の悲哀をヒラの聖闘士が経験してみるのも一興よ。そうして、私の有難味を思い知れば、ホワイトアスパラガスに文句をつけることもできなくなるでしょう」 ホワイトアスパラガスが苦手なのは星矢であって、瞬ではない。 沙織の言うことは滅茶苦茶だった。 「いいアイデアだわ。私はその間、休暇を楽しむことにしましょう。考えてみれば、私は、アテナになってから一度も休暇らしい休暇をとっていなかったわ。以前は、この時期には毎年スキーに行っていたのに」 本日のデザートは、“アプリコット入りチョコレートのブラウニー バニラアイスクリームとマロンアイスクリームを添えて”。 甘党の瞬にとっては、コースでいちばんの お楽しみ。 しかし、瞬は、デザートナイフとフォークを手に取る気にもなれなかった。 「何がスキーだ」 星矢と沙織の いさかいなら無視を決め込み、沈黙を守ることもできるが、被害が瞬に及ぶとなると、氷河も傍観者に徹してはいられない。 ちょうど 沙織に気付かれぬようにデザートをパスすることを企んでいた氷河は、さりげなくデザートの皿を瞬の方に押しやって、女神アテナへの抗弁を開始した。 「勝手に話を進めないでもらおう。アテナなんて、瞬に そんな恐ろしいものになられてたまるか」 「恐ろしいものですって? 氷河。あなた、この慈悲と慈愛の権化といっていい私を 恐ろしいもの呼ばわりするの? よほど自分の命が惜しくないのね。私に逆らって 瞬を泣かせるようなことになっても、私は知らなくてよ?」 「う……」 アテナは、必要もないのに 彼女の聖闘士を死地に赴かせるようなことはしない。 必要であったとしても、そんな事態は極力 避けようとする。 しかし、彼女は、白鳥座の聖闘士に嫌がらせをすることで 瞬を困らせるくらいのことは平気でしかねない女神だった。 そんな窮地に瞬を追い込まないために、氷河は 毅然としてアテナに逆らい続けることはできなかったのである。 「あ、いや……。恐ろしいものというのは、つまり、畏敬の念を覚えずにいられない大人物という意味で、俺は 決して悪い意味で言ったのでは……」 しどろもどろになった氷河は、既にアテナの敵ではなかった。 氷河には 守りたいもの――言うなれば、弱み――があり、守りたいものを持つ人間は、その“守りたいもの”のために無茶無謀無鉄砲ではいられなくなるのだ。 忌々しげに口を引き結んでしまった氷河に代わり、次に登板したのは情と義の聖闘士・紫龍。 とはいえ、彼は決して、アテナに あえなく敗退した氷河に同情して彼の代打に立ったわけではない。 彼は、あくまでも 聖域の多くの人間を 「沙織さん、瞬をいじめないでやってください。アテナの振りをするなんて、瞬には無理なことですよ。なにより瞬には決定的に威厳が足りない」 「そーだそーだ。瞬に無理言うなよ。瞬に沙織さんの真似なんかできるわけないだろ。瞬には沙織さんみたいに邪魔くさい胸もないし、すぐに偽者だってばれるに決まってる!」 「紫龍! あなた、私の存在意義は この豊満な胸にしかないとでも言いたいの!」 「は? いや、俺は そんなことは一言も……」 瞬も とばっちりだが、紫龍も とばっちりである。 沙織を諌め 瞬を救うつもりでいた紫龍は、考えなしの星矢の発言のせいで、なぜか沙織の怒りの火に油を注いだ格好にさせられてしまったのだった。 アテナの聖闘士4人に 揃いも揃って造反され、アテナは いたく機嫌を損ねたらしい。 彼女は掛けていた椅子から立ち上がり、 「コーヒーは結構よ」 と給仕に言い置くと、さっさとダイニングルームを出ていってしまった。 残されたアテナの聖闘士たちは、アテナが何を考えて席を立ったのかが明確に把握できず――彼女が冬季休暇を諦めてくれたのかどうかがわからなかったので――それぞれの場所で どうにも収まりの悪い気持ちに囚われてしまったのである。 「しかし、どの皿も綺麗に食べ終えているところはさすがだな。沙織さんには確かに星矢を責める権利がある。星矢、おまえも見習え」 まるで本題に入るのを避けるように、紫龍が およそ どうでもいいことに言及する。 星矢は、だが、人様が綺麗にした皿になど一瞥もくれなかった。 「だから、ホワイトアスパラガス以外なら、俺だって 皿を舐めるように食ってやるってば! にーちゃん、冷めててもいいから、俺の分の魚と肉の皿 持ってきてくれ」 アテナの退出によって やっと食事にありつけることになった星矢が、嬉しそうに給仕に声を掛ける。 反省の色のない星矢に、瞬は脱力した。 「星矢、あんなに沙織さんを怒らせて、沙織さんが 明日 聖域に行くのはいやだって言い出したらどうするの」 「怒らせたのは俺だけじゃないだろ」 「僕はイクラが苦手だって言っただけだよ」 「俺だって、アテナの振りをするには 瞬には威厳が足りないと言っただけだ」 「俺も特には――」 「氷河! おまえは しっかり沙織さんを怒らせただろ! どさくさに紛れて、そっち側に行くなよ!」 3:1の情勢になるのは不利と判断したらしい星矢が、氷河を被告人席に引きとめる。 氷河は 検察官席の方に行きたそうだったが、星矢は氷河の責任逃れを許そうとはしなかった。 彼は、あくまでも 氷河を被告人側に置いたまま、 「沙織さんが そんなガキみたいな我儘言うはずないだろ。腐ってもアテナなんだから。沙織さんは ちゃんと責任感ってのを持ち合わせてるさ」 と言って、裁判の無効を訴えてきたのである。 「それはそうだけど……」 アテナが腹を立てている相手は彼女の聖闘士たちであって、聖域の者たちではない。 聖域を統べるアテナとしての責任感があるなら、彼女は、一部の聖闘士への立腹に突き動かされて 聖域全体を混乱に陥れるようなことはしないだろう。 星矢の見解は、確かに妥当なもののように思われた。 「そうだよね。沙織さんは そんな無責任なことをする人じゃないよね」 多分に希望的観測もあったが、瞬としても沙織の責任感を疑うようなことはしたくなかったので、瞬は それ以上 沙織の無謀な計画を案じる失礼は やめることにしたのである。 沙織は、罪無き人々を失望させるようなことはしないと信じて。 |